2.再会
人生とは、なかなか思い通りには進まないらしい。
研修期間を終えた後、私の配属先は奴と一番接点が持てる営業ではなくて。何故か秘書課送りにされてしまった。
入社一年目で秘書課に配属などこの会社では異例すぎるらしく、瞬く間に私の存在は社内に広まった。しかも、担当は社内で人気の若くていい男の一人である、専務(独身)だ。前任だった専務付き秘書の先輩が結婚退職をされる事になり、人手が足りない為急遽新人から抜擢された。
ってゆーか、引き継ぎ期間1週間しかなかったんだけど!? 普通ベテランの秘書が兼任とか、社会経験が数年ある人を他部署から引き抜くでしょうに!
「久住君は秘書検定の級も持っているし、4カ国語堪能だったね。欲しかった資格もあるし、是非君にお願いしたい」
そう専務直々に言われちゃ、ペーペーの身のこっちに断れる術はない。一応、力不足だとは告げた。だが、何故か相手は引き下がらなかった。あの手この手で言いくるめられて、気づけば専務付きの秘書の出来上がり……。当然、最上階に近いフロアから下界(営業)に向かう事はほとんどなくて、私の天敵……諫早爽とは、入社二年目になった今も未だに接点を持てずにいる。
必死に仕事を覚えて、何とか慣れる事で精一杯であっという間に1年目が過ぎた。
専務は仕事の鬼で厳しいけど、実は優しい。あまり表情が豊かじゃない為、冷たい人間だと誤解されがちだが、甘い物や小動物が好きだったり、結構人の体調を見ていたりと、不器用な優しさを持っている。
私より10歳年上の彼は現在34歳。秘書課に配属された後に聞かされたが、どうやらここの社長の甥らしい。そろそろ結婚を……と周囲から急かされるが、彼にその気はまだないようだ。社長に私から縁談を受けるようさりげなく勧めるように、なんて頼まれる私の気持ちも考えて欲しい物だけど。まあ、こればっかりはね。相手にその気がないんじゃ、周囲がとやかく言ったって仕方がないわ。
……仕方がないんだけどねぇ、社内での私の立場も少しは考えて頂きたいわぁ。
少し用事があって単独で行動すると、一気に視線を受ける。主に、女子社員から。新人で入ってすぐに専務付き。しかも専務は硬派な無愛想男という外見だが、容姿は整っておりかなりの優良物件。あわよくば……とお近づきになりたいラブハンターは後を絶たない。
「お二人は付き合っているんですか?」なんて質問、この一年で一体何回受けたと思ってるの!
私は当然そんな気は全くない。知的美女を意識した笑顔で「いいえ、私はただの秘書です」ときっぱり断言しておく。
本当、勝手に言いたい奴には言わせておけばいいけどね、噂になれば奴の耳に私の情報が入るかもしれないし。少しでも復讐相手の興味が惹ければ、こっちもいろいろとやりやすいって物よ。
この1年間も、ゆかりからの情報はかかさず手に入れていた。ゆかりは経理に所属しているけれど、時々営業事務担当の子に用事があるらしく、営業のフロアに顔出しするらしい。
相変わらず諫早爽は、「名前通り爽やかな笑顔がステキ!」と評判の王子様を演じているのだとか。実際は爽やかなんて物じゃないがな!! 実態は名前を裏切りまくっている。
ちなみにこいつの内面を、ゆかりは疑う事なく信じてくれた。曰く、『あの手のタイプは腹黒がデフォルト』だそうだ。なかなか観察眼があって、親友としては頼もしい。
完璧な外面笑顔を浮かべては、言い寄る女子社員をさらりとあしらい、決して社内で恋愛はしないそうだ。ああ、手に取るようにわかるわよ、あんたの心が。社内恋愛なんてデメリットの方が大きくて、面倒なんでしょ。こいつの今までのパターンから見ると、彼女とは長続きしないようだし。(マックスで3ヶ月やそこら。)
自分が動かなくても相手が寄ってきてつまみ食いが出来る立場って、お前は王様か! ……と、言ってやりたい。
そうやって恋愛を甘く見てたら痛い目に遭うのよ~。痛い目に遭わせるのは当然私の役目だけどね!!
まあ、奴も仕事が忙しくて恋愛する余裕が生まれないらしく、入社してから3年目の今もフリーらしい。一般的に3年経てばようやく一通り慣れて、余裕が生まれると言うから、そろそろあの男も新たな恋を探す気になってくるだろう。
「久住君。私は午後から出かけなければならないが、君は残っていてくれ。この書類の翻訳を15時までにお願いしたい」
「かしこまりました。アラビア語から日本語へ、でよろしいですね」
「ああ、今回は日本語で大丈夫だ」
たまに日本語じゃなくて英語に訳せ、と言われる場合もあるのよ。きっちり確認を取らないと、困るのは自分だ。
「出来上がった物は私のメールに送るように。あと、あれらの書類を海外事業部輸入課の伊藤課長に渡してくれるか?」
海外事業部、と聞いて私の眉がぴくりと小さく反応した。
営業と同じフロアで部署的にはすぐに隣じゃないの! たまにお使いする時位しか奴の偵察には行けない。私はいつも通りの笑みを浮かべて、「はい、かしこまりました」とはっきり答えた。
車で外出する専務を出口まで見送り、ほっと一息つく。背が高い専務は学生時代からスポーツでもやっていたのか、そこそこガタイがよく男らしい精悍さが素敵ないい男だ。ダークな色合いのスーツがよく似合う。
たまに女除けの為、出席しなければいけないパーティーなどの同伴に付き合わされるが、あの人はもしかしたら女性が苦手なのかもしれない。無口ではないが、お喋りでもない。いや、女性から向けられるギラギラした目が苦手なのだろう。
うん、肉食女子、怖いわよね……
でももうすぐ私もその肉食女子の仲間に名乗り出るのだ。
よし、これからお使いだもの! 気合い入れて行くわよ~。待ってなさい、諫早爽!
(※行くのは海外事業部です。営業ではありません。)
◆ ◆ ◆
ナチュラルに見えるメイクに完璧な微笑み。知的でクールな美女を演出している私を見て、振り返らない男性社員はいない。秘書課からエレベーターで数階降りて、目的地へたどり着くまでに浴びた視線は数え切れない。まあ、半分位が珍しさからだろう。
専務直々に抜擢した秘書の肩書が、社内で独り歩きしていたのは去年の事。1年も経てばそこまで陰でこそこそ噂される事も減った。堂々と背を伸ばして歩く中、聞こえてくるのは「珍しい」と、「美人だな」の二つ。後者を言ったのはほぼ男性社員だけど、褒められても悪い気はしない。
にやけそうになるのを堪えて、普段通りの冷静沈着な才女を心掛ける。決して笑わないわけではないが、笑う時は大口を開けて豪快に――ではなく、大和撫子を彷彿とさせるような清楚な微笑で。派手好きな女子とは別路線の、控えめなクール(知的)系美女路線は、なかなかの評判だ。
すんなりと捜していた人物を見つけ、専務に言われた書類を渡す。伊藤課長は40代前半の2児のお父さん。人が良さそうな笑みは、こちらの緊張も解してくれる。
立ち去り際すれ違った社員と肩がぶつかり、相手が持っていたバインダーと合間に挟まっていた書類がバサッと落ちた。
すぐに「ごめん!」と謝った相手は、私が誰だか気づくと、ぶつかった事に対して再び謝罪し、痛くはないかと尋ねてきた。
「大した事ではありませんから」と答え、落ちた書類を一緒に拾う。その光景に気付いた通りすがりの社員が、「大丈夫か?」と背後から声をかけてきた。
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
甘く響くテノール。専務がバリトンボイスなら、今の人の声は少しだけ高く、柔らかい。
写真の中でしか想像できなかった声。もしもあの少年が大人になったら、こんな感じの声になっているのだろうと思わせてくれる、そんな声で呼びかけられて――私はゆっくりと、振り返った。
スーツをきっちり着こなした、幼い頃私を振った相手が、一緒にしゃがんで散らばった書類を拾い上げている。
「悪い、諫早」
「いい、こっちは拾っとくから、お前は手伝ってもらった彼女にコーヒーでも奢るんだな」
「ああ、」と言って大方片づけた彼は、私に「何がお好みですか!?」と尋ねてきた。勢いに押され咄嗟に、「無糖なら何でも……」と答えると、ワンコのようにその社員は自販機へ走っていく。
立ち上がり、近くのデスクの上に書類を乗せた。すぐ間近から「すみません」と再び声がかけられる。一気に鼓動が早まった。
「こちらの不注意ですよね。あいつ少しそそっかしいので」
「いえ、ぶつかってしまったのは私もですから。気にしてませんし、大丈夫ですよ」
ドクン、ドクンと早鐘のように打ち続ける心臓を意識的に宥めて、相手を見つめる。
写真の中でしか見てこなかった、かつての初恋相手――。すっかり少年っぽさがなくなり、麗しい王子のまま成長した男。ヒールを入れれば170㎝を少し越してしまう私よりも、目線が上だ。クオーターで色素が薄めな茶色の髪と双眸。甘い目元に高い鼻梁、弧を描く唇。どれもが作り物めいているほど整っているのに、とっつきにくさは与えない。柔和な空気が似合う王子様――を、完璧に演じている。
笑え、蘭子。
奴を魅了するようなとびっきりの微笑を浮かべて、こいつの視線を釘付けにしろ。
今まで散々笑顔の練習をしてきた。どの角度でどう笑ったら好感を得られるか。控えめな微笑に美しい立ち居振る舞い。見る者を惹きつけてやまない仕草に、ほのかに香る色気の出し方。
研究に研究を重ねて今、本番を迎えようとしている。
私は微かに、だがはっと息を呑んだ敵に向けて、整えた書類を手渡した。
「どうぞ、諫早さん」
「お手数をおかけしてすみません。でも、名前……」
「先ほどの方がそうお呼びしていたので。それに、営業部の若手ホープの名前は、私の耳にも届いておりますわ。とても優秀だとか」
さりげなく、”あなたの事を知っていましたよ”アピール。
そして最後に相手を褒める。そう、人間褒められて嬉しくない人はいないのよ。(あからさまな社交辞令などは別として。)特に男性は、異性からの褒め言葉は単純に嬉しいと感じるらしい。
「それは光栄ですね。まさか専務の秘書の方に名前を憶えて頂けていたとは」
「あら、私の事もご存知なのですか?」
「ええ、専務付きの久住蘭子さん、でしょう? 入社早々、切れ者の専務に直々に秘書に抜擢されたとか。社内の有名人ですから」
「そうですか……何だか少し、恥ずかしいですわね」
俯きがちで若干頬を染める。
知的でクールな美女はあまりそのような行動をとらないだろう。これはギャップを与えているのだ。ギャップ萌えとは使うタイミングさえ間違わなければ、結構有効的なのよ。まあ、本当に恥ずかしい気持ちもあるっちゃあるが。
3年間同じ小学校だった時は全く名前を憶えられていなかったがな! という毒は、心の中だけで吐いておく。清楚な微笑を張り付けながら、内心はふふふと、邪悪な笑いを零していた。きっと奴も王子面を張り付けながら、心底この時間がどうでもいいとでも思っているのだろう。
「すみません、久住さん。よろしかったら、これ受け取ってください」
走って来たのであろう先ほどの男性社員が、私に無糖のコーヒーを差し出した。
「いえ、ありがたいのですが、本当に結構ですよ? 別に怪我をしたわけでもありませんし、」
「それなら手伝ってもらったお礼という事で。ね?」
人懐っこい笑みで私に笑いかけてくる男は、どうやら諫早の同期らしい。という事は、私とも同学年か。入社が1年遅れているから、先輩になるわけだけども。
数秒逡巡して、差し出されたコーヒーをありがたく受け取る。「ありがとうございます」とお礼を告げれば、大型ワンコ系の彼は顔を真っ赤に染めた。
「あの、今週の金曜はお時間ありますか? うちの課と隣の課で合同の飲み会があるんですけど、よろしければ久住さんもどうですか?」
「え? 特に用事はありませんが、部外者の私が参加したら迷惑なのでは……」
「そんな事はありませんよ! むしろ皆大歓迎ですよ! 秘書課の方なんてめったにお近づきになれませんし。な、諫早!」
そう話を振った彼は、奴の肩を同意を求めるように叩いた。
「そうですね。よろしければ、是非」
完璧な王子様スマイルでお誘いを受けてしまえば、その挑戦に乗らないわけにはいかない。
「ありがとうございます。私、他の社員との交流がほとんど出来ないので、そのような飲み会に誘われる事も初めてです。楽しみにしてますね」
と言って、詳しい時間や場所などはメールで送ってくれる事になった。
思いがけない接点が出来た事に、私は内心でほくそ笑む。
ふふふ、奴の無様な姿が見えるまでのカウントダウン、スタートよ!
自分で言うのもなんだけど、今の笑顔と仕草に目配せの仕方は完璧だったわ。それはほら、ワンコ系の男性……(あら、名前聞いてなかったわね)の態度を見れば、一目瞭然。
会釈をしてその場から去った。が、扉をくぐった後、通路に立ち止まりしばし歩みを止める。私に対する会話が何か拾えるかもしれないと思ったからだ。
「おーい! 専務の秘書の久住さんも飲み会参加するぞー!」
「マジで!? よっしゃあ!」
「うおー! でかした、小林!!」
休憩時間中だからって、そんなに盛り上がるのか営業は。
そしてさっきのワンコ系男性は、小林というのか。
脳内メモに書き加えていると、誰かが諫早を呼び止め、尋ねる声が聞こえた。
「やっぱり噂通りの美女だったか? すげぇ優秀で知的美人なんだってな!」
その問いに、ドキドキしながら私は息をひそめる。どうでもいいけど、この壁結構薄いのね。地獄耳の私なら奴らの会話、簡単に拾えるんだけど。
尋ねられた諫早は、こう答えた。
「そうだね、美人だけどあの笑顔は作り物っぽくって、僕は苦手かな」
……は?
って、はぁあああああ!?
私は足早に近くの女子トイレに駆け込み、誰もいない事を確認してから、深く、深ーく息を吐いた。
ふざけんな! 仮面を被っているあんたにだけは、んな事言われたかないわよ!!
「ふふふ……オトス。絶対ぇえーオトス!!」
覚悟してなさいよ、諫早爽ーーー!!
跪いて泣いて縋って「捨てないでくれ!」と言ってきても、許してやんない位、徹底的に振ってやるわっ!!
入社二年目の5月。私は新たな決意を抱いて、飲み会に参加表明を出した。
誤字脱字訂正しました。