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17.過去との決別

 「はかどらない……」


 自宅に篭り、目の前に広げられたノートとテキストを眺め、私はぽつりと独り言を呟いた。

 土日の空いた時間で、秘書検定の勉強をしている。今の現状で満足なんてしてられない。常に上を目指さないと、いつまでたっても一人前にはなれないのだ。学生時代の時より資格熱は鎮まっているが、出来るだけ新しいことにも挑戦したいと思っている。仕事と両立はなかなか難しいけど、仕事に関する資格なら会社から補助も出るのだ。

 一通りの買い物とたまっている掃除に洗濯などを終えた土曜日。夕食を食べ終えた時間にテレビを消してデスクに向かうが、集中しようと思っても文字がすべってしまう。かれこれ30分は経過しているだろうが、一向に頭に入ってこない。

 軽く嘆息した私は、椅子から立ち上がってお湯を沸かすことにした。何か頭をすっきりさせる飲み物でも作ろう。

 ヤカンに水を入れながら、ふと昨夜の記憶をさかのぼる。自信満々に告げたあの男の発言……嫌いと言っても通用しないあいつを思い出して、ふつふつと怒りが腹の底からくすぶり始めた。


 何なの、あれは! 私が憎しみの眼差しを向けるのは、未だにあいつが好きだから!? そんなふざけた話あるわけないじゃないのよ!!


 沸騰する直前にヤカンの火を消して、息を吐く。いかん、折角昨日はバッティングセンターでストレス発散させたのに、また思い出して苛立ったら駄目じゃないの。


 「……やめた。お茶じゃ駄目だ、お酒にしよう」


 二日連続でアルコールを摂取するなんて、いつもならしないけど。私はカロリーが制限されたビールを冷蔵庫から出すことにした。アルコールって糖分高いのよね……。カロリーは気になる、でも飲みたいって時は、なるべくカロリーオフされているのを選ぶ。味はまあ、飲めなくはない。当然、普通のやつの方がおいしいとは思う。


 プシュ、と缶を開けて、ソファに腰掛ける。勉強はひとまずやめだ。テレビをつけて、適当なバラエティ番組にチャンネルを回した。今流行りのタレントやお笑い芸人が数名出ては、なにやら盛り上がっている。がちゃがちゃと騒がしい。何も考えずにいられるかと思ったけども、何故だか余計疲れが増した気分になった。

 リモコンを操作してニュースに回す。孤独死したお年寄りや、通り魔に切りつけられた若い女性の事件などが出て、何だかとてつもなく悲しい気分に浸る。

 冷たいビールを飲みながらふと考えた。もし自分が結婚できなかったら、私も孤独死するのだろうか。誰かに本気で恋することや、愛する気持ちもわからないまま、資格を取り仕事だけをバリバリこなして生きて行く。それも一つの生きる道で、きっと充実した毎日を送れると思う。でも、誰も愛さないで生きることは、無性に悲しくて、寂しい人生にも思えた。

 

 ああ、でもその前に、ニュースで流れた彼女みたいな事件に巻き込まれてしまうことだってあるかもしれない。被害者の女性は一命は取り留めたけど、襲われて亡くなる人もいるだろう。忙しいのに迎えに来たり、自宅に着いたら連絡するよう言ってくる専務が過保護だ、なんて思っていたけど。身内でもない赤の他人がそんな風に心配してくれるなんて、ありがたいことじゃないの。大げさすぎるなんて思ってごめんなさい、専務。


 ちびちびとビールを飲みながら、ついそんな事を考えてしまう。何故だか無性に感傷的な気分になるのは、私の心が情緒不安定だからか。

 心の中がざわざわして落ち着かない。昨夜は確かにすっきりできたはずなのに、一日経っただけでこれとは。何とも情けない。


 「暗いニュースばかり見てるからいけないのよ。明るくハッピーなドラマでも見れば、」


 チャンネルを回そうと再びリモコンを手に取り、幸せなカップルのラブストーリーを思い浮かべてはため息がこぼれた。多分今は何見ても、虚しく感じそうで、チャンネルは回すことなくテレビの電源を切る。

 半分ほど減ったビールの缶をコーヒーテーブルに置いて、ソファになだれ込んだ。上半身をクッションにダイブさせ、もう一つのクッションをギュッと抱きしめる。もう何も考えたくない……。私の意思に関係なく、ぐるぐると勝手に回る思考を止める術は、寝てしまう以外にはないのかも。

 思考が重く沈みかけた時。携帯の着信音が鳴った。それは昨夜バッティングセンターに付き合わせた専務だった。


 「……はい、もしもし」

 『俺だ。今大丈夫か?』


 いつもと変わらない落ち着いた声。ソファに寝そべったまま喋ることはできないので、上半身を起こした。電話をかけてきても、相手の都合をちゃんと訊いてくる専務は優しい。

 問題ないと告げれば、私の声に覇気がないことに気づいたのか。専務が私の様子を窺ってくる。きっと電話の向こうでは、訝しい顔をしているんだろう。

 弱音を吐くのは嫌い。情けないところを見せるのも嫌い。でも、既にこの人にはいろいろ見られている。その事を覚えているから、普段は絶対他人に見せないような弱くて脆い自分を、彼になら見せても幻滅されない気がした。


 『昨夜は勇ましくバットを振り回す姿を見せていたが、随分今日はテンションが低いな。俺はハイヒール姿でホームランを打った女性を初めて見たぞ』


 さぞや目を引いたでしょうよ。いや、私自身に引かれたかもしれない。


 「引きましたか。憤怒の形相でボールを打ちまくる女なんて」

 『いや? 溜まったストレスをバッティングセンターで解消だなんて、男前だと感心したくらいだ』

 「それ、褒めてます?」


 男前なんて言われたの初めてなんだけど。

 柔らかく笑う声が電話越しに伝わった。


 『いい女だと惚れ直したよ』


 そんな事を言われて、照れと同時に胸の奥が締め付けられる。昨夜の私が彼に好まれるのなら、今の私を見ればやはり幻滅されてしまうのだろうかと。愚痴なんて言いたくない、でも今の本音がぽろりと漏れた。


 「いい女はぐじぐじと悩んだり、情けない声出したりなんてしないですよ」


 気分は迷宮を彷徨い歩く幼子のようだ。出口が見えない、答えがわからない。きっぱりはっきり拒絶の色を示したのに、一人の時間になれば嫌いな相手のことを考えてしまう。振り回されるなんて嫌なのに。私の意思とはお構いなしに、心が逆方向に動いて行く。自分がどうしたいのかわからないと弱音を吐けば、黙って耳を傾けてくれた専務は、一言「そうか」と言った。


 「すみません、情緒不安定なんです。ニュースを見れば孤独死した老人や、通り魔事件に遭った女性を見て、余計悲しさが増長したと言うか。私もいつ事件に巻き込まれるかわからないし、このまま誰も愛せないまま死んだりしたら、私絶対あの世で後悔する……」


 恋をこじらせて愛がわからない。リハビリを始めてすぐに恋する気持ちが取り戻せるはずもなくて、いつか専務にも愛想をつかされてしまったらと考えると怖くなった。何かが足りない欠陥人間のまま亡くなることを考えれば、余計怖い。

 いつから自分はこんなにも臆病になったの。身内にだってこんな事言わなかったのに、電話越しだからか、普段は絶対に言わない事まで言っている。甘えているとも言えるかもしれない。

 呆れられてしまっただろうか、と思い始めた頃。専務の声が耳に届いた。


 『君は強いのに弱いんだな。いや、タフなのに繊細と言うべきか。我が道を突っ走り、常に毅然とした姿勢でいるイメージが強いが、時折頼りなさげな姿を見せる』

 「……すみません、」と謝れば。彼は謝る事じゃないと優しく告げた。いろんな姿を見せて欲しいと思っていると続けられ、思わず息を呑んでしまう。


 『人の心は、誰かに言われたからってそう簡単に変わる物じゃない。長い時間ずっと同じ感情を抱きつづけていたのなら、尚更だ。だが、誰かを嫌いで居続けるよりも、もし君が変わりたいと願うのなら。相手を赦すというのも、一つの強さじゃないか?』


 ……赦すのも強さ?


 『強いというのは、ちょっと意味が違うか。だが、誰かを赦して初めて乗り越えられる物もある。彼が嫌いだ、嫌いだから考えたくない、なのに考えてしまう。そのループを抜け出す為には、まず根本的な問題から解消した方がいいだろう。時間はあるんだから、焦らずゆっくり考えてみればいい』

 

 柔らかく、落ち着いたバリトンは、私の鼓膜を震わせてすとんと心の奥まで浸透した。ポン、とまるで頭を撫でられたかのような気分に浸る。焦らずゆっくりと言われた言葉に、不安定だった思考と心が次第に落ち着きを取り戻す。

 じんわりと胸の奥から広がる熱は、一体何と言う名なのだろうか。ただ彼の声は、電話で聞いているだけで私の不安定さを払拭させた。


 「……専務の声を聞いていると何だか安心してきました。実は隠れた癒し効果でもあるんですか?」

 『そうか? それは光栄だな。そんな効果があるなんて聞いた事もないが……。

 気分を晴らしたいなら、今度海にでも行くか。明日と言いたい所だが、ちょっと無理だな。来週末なら連れて行けそうだが』

 「海、ですか?」


 ドライブに行こうと告げられる。それだけで気分は晴れやかな物に変わった。電話を切った後の私は、先ほどまでの負の感情がどこかへ流れている。少し温くなったビールの残りをごくりと飲み干して、専務に言われたアドバイスを反芻した。


 「赦すのも一つの強さ……」


 じんわりと染み渡る気持ちのまま、私は自分自身と向き合う決意をする。


 ◆ ◆ ◆


 一週間が過ぎた。先週の今頃は、友人達と会いに行った先で合コンに参加する羽目になったり、天敵諫早に連れ出されたりで散々だったが、時間はあっという間に過ぎていく。だが、考える時間はこの一週間で十分なほどあった。そこから導かれた結論を、今日私は伝えるつもりでいる。


 終業時間を迎えた金曜日の夜。鍵が壊れたビルの屋上で待ち合わせをし、私は彼が来るのを待った。


 「まさか屋上の鍵が壊れているなんてね……。どうして知ってたの?」

 「知ったのは偶然だけど、明日業者さんが来る前に利用させて貰ったのよ。ここなら誰も来ないでしょ」


 背後のドアがパタンと閉じた。

 広い屋上には、私と奴の二人だけ。今日はほとんど風がない。曇っているのに雨が降る気配があるわけでもない、不安定な天候だ。風がないのはある意味良かったと、私は内心で安堵した。


 お互い帰り支度が済んでいる姿で向かい合う。柔和な微笑みを浮かべて私を眺める男を一瞥し、私は肩にかけていたトートバッグに手を差し込んだ。

 取り出したのは、切れ味抜群のハサミ。美容師が使うハサミを出すと、いきなり刃物が出た事に諫早の空気が変化する。

 私は不機嫌とも無表情ともつかない顔で、訝しむ彼を見つめる。胸下まである髪を片手で握り、目を瞠る諫早に視線を向けたまま、ジャキンとハサミで髪を切った。手を髪から離さず、ギュッと握りしめて、その手を前に差し出す。


 突然の奇行に驚愕する諫早を強く見つめ、私は静かに宣言した。


 「今日限りで、私は諫早君から卒業する」


 風がないこの場では、私の声は思いがけずよく通った。

 意味がわからないと、諫早は珍しく綺麗に整った柳眉をひそめる。


 「この黒くて長い髪は、あんたの好みに合わせた物。いつか振り向かせてこっちから振る為に、毎日ケアを怠らず、伸ばしてきた物。でも、そんな自分はもうやめる事にしたの」


 突きつけていた左手を下ろし、髪を床にばらまかないよう気を付けながら、この一週間考えていた事を伝える。 


 「嫌いだとか、憎いとか、そんなのはもうやめる。過去にとらわれ過ぎている自覚はあったけど、結局の所、私は一歩も前に進めていないもの。あんたに追いつきたくて、認められたくて、自分を必死に磨いて努力をしてきた。この12年間、確かに私の心の中心にいたのは、諫早君よ。それは否定できない事実」

 

 今更否定なんてする事もないが。

 見た目も中身も教養も、彼に負けたくなくて、追いつきたくて、気にかけてもらいたくて。そんな風に過ごしてきた12年間は、時間でいうと長いけれどあっという間だった。好きが嫌いに変わり、復讐心を色あせる事なく抱きつづけ、その結果私という人間は、中身はまるで成長できていない子供のままだ。 

 そんな自分に気付いた時。もう終わりにしようと誓った。専務が言うから従うんじゃない、これは自分の意志で選んだ道だ。


 「なんてことをするんだ……」と痛ましい顔で呟く声は、苦さを含んでいた。歪められた表情は、いつもの外面笑みでも、私に向ける不敵に微笑む顔でもない。こいつがこんな顔をするのを初めて見た。レアな表情はきっとこの社員の誰も見たことないだろう。

 バッグの中にあらかじめ持ってきておいたジップロックを取り出す。つかんだままだった私の髪をその袋に入れて、封を閉じた。自分で出したごみは持って帰らないと。床に落ちた数本くらいはまあ、見逃してほしい。

 ハサミも危なくないように再びバッグに仕舞う。不揃いな髪は肩につくかつかないかの長さになった。改めて諫早と向き合い、難しい顔で黙り込む奴に告げる。


 「これは決意表明よ。私があんたから卒業するという意味の」

 「だからと言って、そんな無茶を」


 はあ、と彼はため息を吐き出した。

 そんなに悲惨に見えるのだろうかと一瞬気になったが、すぐに気を引き締める。一定距離を保ったまま、私は言うべきことを伝える為、再度口を開いた。


 「それと、もう一つ。遅くなったけど、この前の謝罪の返事を言いに来たの。諫早君が私に頭を下げた時、私は受け入れることも出来ず拒絶を示した」


 ゆっくりと呼吸を整える。何を言い出すんだと静かに黙りながら問いかける彼を真正面から見つめて、私は己が導き出した答えを言った。


 「私はあんたを赦す」


 ゆっくりと、微かに瞠目する諫早を視界に納めたまま続ける。


 「諫早君はちゃんと謝った。だから私は赦す。元を辿ればヒドイ事を言ったのはあんただけど、これは子供の頃の出来事をいつまでも引きずる私の方に問題があったの。12年も前のことだなんて、普通に考えたらもう時効よ。別に怪我を負ったわけでもないし、心の傷と言えるほど深い物でもない。ずっと根に持って怒りを行動エネルギーに替えるのも、もうやめる。嫌いだ憎いなんて言ってたけれど、これも訂正するわ」

 「訂正?」


 意味がわからないと言いたげに、腕を組んだまま首を傾げる諫早を見て、私は頷いた。


 「ええ、あんたの事は好きじゃないけど、嫌いじゃない。悔しいけど、再会してから意識していたのは事実。嫌いでどうでもいいだなんて、思おうとしても出来なかった。だから、嫌いだと思うこともやめにしたの。だってあんたを憎んだら、あの頃の私の感情まで全否定することになる」


 認めるのは癪だけど、私の初恋相手は確かに諫早だ。子供の頃の貴重な時間を数年間共に歩み、育んだあの時の気持ちに、偽りはない。粉々に砕け散った想いだけど、嫌いだと思い込もうとしてもどうでもいい相手に思えなかった時点で、これ以上もう気づかないフリは出来なくなった。


 「過去、私は確かに恋してた。諫早君は憧れの存在だった。自分にはない物を持ってて、いつも周りから慕われて。羨ましくて眩しかった。あの時も別に自分の恋が実るなんて思ってなかったのよ。ただ伝えたかっただけ。名前を呼ばれた記憶もほとんどなかったけど、引っ越すことが決まってたから後悔だけはしたくなかったの」


 引っ込み思案で、クラスメイトと話すだけでも緊張していた子供時代。あの時振り絞った勇気を、大人になった今でも褒めてあげたい。あれが私の人生を変える決定的な瞬間になったのだから。


 「迷惑だったかもしれないけど、好きだった気持ちは私の物。そしてその過去まで否定するのはこれで終わりにする。今更何をと思うかもしれないけれど、私はあんたに感謝するわ。変えるきっかけを作ってくれて。外に出るのが臆病で、新しいことを始めるのが怖くて、引っ込み思案で内気だった子供の私を変えたのはあんた」

 

 ほぼ無風だった屋上に、少しずつ風が吹いて来る。切ったばかりの髪が風になびいた。髪の重みがなくなり軽くなった心と共に、私は最後とばかりに言葉をかけた。心からの、とびっきりの笑顔で。


 「私、今の自分は結構好きなの。自分に出来る事を模索しながら挑戦して、常に向上心を抱きながら上を目指す自分が。自分で選んだ道を突っ走って、はっきり意見を主張できるようになった自分も。子供の頃の私からは考えられないほど、私は強くたくましくなった。だから、ありがとう」


 微笑みかけたのに、苦虫を噛み潰したような彼の表情は和らがない。失礼な男ね、と思いつつも私は出口へ歩いていく。数歩歩いて振り返り、言い忘れていた事を告げた。


 「私の初恋はもう終わっているから、あんたも私に構わなくていい。ごめんね、ゆかりが妙な賭けなんて持ち掛けて。その所為であんたもずっと私に囚われたままだった。だからもう、解放するわ。私はこれから自分の道を突き進んでいく。自分で選んだ道を。もう立ち止まって過去ばっか見る時間は終わったから」


 出口の扉に手をかけて、ノブを回した。何かを言いかけて、それでも何て声をかけていいのか迷っている彼に、私は最後の止めを刺す。

 

 「先週言ったあの言葉……あんたが嫌いだって言った言葉。あれ撤回するわ」


 悠然と微笑む私に、諫早は眉間に縦じわを刻みながら視線のみで尋ねてくる。嫌いじゃないけど好きじゃないと言ったじゃないかと目が問うてきた。

 外面笑顔を脱ぎ去れば、案外子供っぽい一面もあるのねなんて思いながら、くすりと笑う。


 「ええ、さっきも言ったように、嫌いじゃないけど、好きじゃない。もう二度とあんたに恋する事はないけれど、諫早君は多分一生私の特別な人のままよ」

 「……は?」

 「良くも悪くも、私の今の人格を形成したのも、影響を与えたのもあんたなのよ? 嫌いだなんて嘘。でも好きには絶対にならない。だから、私の特別」


 じゃあね、と一声かけて扉を閉めた私の足取りは、先ほどまでとは雲泥の差だった。髪を切った分頭も軽くて、気分も清々しいほど晴れている。自分の気持ちに決着をつけ、過去を清算出来た事によって、身も心も軽くなった。

 残された人物が何を感じて何を思ったなんて、その場を去った私が知る事はない――。


 ◆ ◆ ◆


 衝撃に見舞われたかのように身体が動かず、言われた彼女の言葉が棘のように刺さる。最後の見せた笑顔も、「特別」と言った声も。

 彼女がいた時はほとんど風なんて吹いていなかったのに、立ち去った後、まるで自分の心を表したかのように強い風が吹き付ける。ごうごうと風が空を切る音を奏でた。


 「本気で惚れたと同時に失恋するなんて、バカだな俺は……」


 彼女に見せていた執着。それはきっとなかなか手に入らないおもちゃを欲しがる子供と一緒だった。思い通りにいかない、見せる反応が面白いから欲しい。強い関心が湧いていたのも、彼女自身に興味が惹かれていたのも事実。だが、本気で恋に落ちたと気づいた時は、彼女が立ち去る寸前だった。

 ざっくり切られた髪に胸がえぐられ、晴れやかな表情で柔らかく微笑んだ顔に目と心が奪われた。手に入れたいと願った相手は自分の傍から既に離れ、新たな一歩を踏み出そうとしている。

 これ以上関われない。関わる事が出来ない。

 傷つけたのは自分なのに、彼女は変わるきっかけを与えた事へのお礼を告げた。ありがとう、と言った彼女の心に、近づく事はもう叶わない。


 「嫌いじゃないけど、好きじゃない。でも一生特別、か……随分と残酷な事を言ってくれる」


 自嘲めいた笑いと共に吐かれた独り言は、風にかき消されて誰の耳にも届かない。

 思わずその場に座り込んだ爽は、曇天の空を見上げてぽつりとつぶやく。


 「参った……これは、想像以上にクるな……」


 最後に見せた笑顔が、暫く脳裏に焼き付いて離れそうになかった。










 






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