14.予定
ふらつくような足取りで何とか自室まで辿り着き、シャワーを浴びてすっきりした後。パジャマ姿になった私は、ベッドの上で日課のストレッチをする気力も起きず、枕に突っ伏して顔を埋めた。気どった場所での食事でも、ましてや取引先との会食に参加したわけでもないのに、妙な緊張感に支配されていたと、帰宅した後に気付く。
私が選んだ所ならどこでもいい――そう言った専務を、私は自分が行きたい場所に連れて行った。それは高級フレンチとか老舗料亭とかではなく、どこにでもある居酒屋のチェーン店。まさか居酒屋を選ぶとは思っていなかった専務は、一瞬呆気にとられた顔をした。
『……本当にここでいいのか?』
『ええ、もちろんです。初めは近くの蕎麦屋に行こうと思っていたんですが、生憎今日は定休日でお休みだったので』
無言で戸惑う空気を流す専務に微笑んで、私はさっさと店内に入った。案内されたテーブルで、ビールやおつまみ、専務の好みと自分が食べたい物を一通り頼み、乾杯する。人が多く賑やかな場なら、変に緊張する事もロマンティックなムードになる事もない。
仕事の話はなしで、と言った専務の言葉通り、彼は一切仕事の話題を持ち出さなかった。完全なるプライベート。恐らく社内の人間がこの場を通りかかっても、専務がいるとは思わないだろう。纏う空気も厳しさが少し取れて、リラックスした表情で私を窺う。その眼差しは、強いのに優しい。
『よくこういった場所に来るのか』
『よくではないですが、まあ、たまに。もっぱら幼馴染とその彼氏で来る事が多いですけど』
タコと海藻のサラダをつまみ、咀嚼する。程よい塩加減が絶妙な焼き鳥も出されて、それらはあっという間になくなった。
交わした会話は、他愛ない話だったと思う。お互いが歩み寄る為の会話。休日の過ごし方、よく行く場所、好きな料理に今ハマっているマイブーム。専務は車の運転でストレスを発散させる事があるらしい。少し遠くまで行って海だけ見て帰ってくる事もあるのだとか。海に行けない時は、プールで泳ぐ。きっと高級ホテルの会員制プール(又はジム)などに通っているのだろう。
自宅前まで送り届けた彼は、車から降りようとした私の手を引っ張り、こう告げた。
『君は男慣れしているようでしていない。隙を見せるのは、俺の前でだけするように』
射抜くような強い眼差しと、蠱惑的に微笑む口許。ふいに見せる捕食者の光に身体が硬直し、反応が遅れた。その一瞬で、彼は私の頬に口づけを落とした。人を魅了する笑みを浮かべ、低いバリトンで囁く。
『今はこれで我慢しよう。唇を奪うにはまだ早いだろう?』
ふっと口角を上げて笑った彼は、『お休み。いい夢を』と最後に残して去って行った。呆然と車を降りた私は、ちゃんとお礼を言えたのかすら怪しいまま、帰宅して今に至る。触れられた頬が、何だか熱を持っているように、熱い。
「――って、中学生じゃあるまいし!!」
頬にチューだけで何なのこの破壊力は! キスくらい経験あるわよ!! そりゃもう、普通にディープで濃いやつだって、経験済みよ!!
なのに、どうして相手が専務ってだけで、こんなにも動揺してしまったのか。目には見えない色気とフェロモンを意識的にか無意識的にか振りまいているあの人は、いろんな意味で油断大敵なお人だった。
今は我慢するって何、我慢する必要がなくなれば奪う気か。徐々に私の意識が傾き出した頃を狙って、ガッツリ唇を頂こうという魂胆か。
「男だろうと女だろうと、隙は見せないに越したことはないわ。常にアンテナ張り巡らせて、警戒を怠らないようにしなきゃ」
いつどこで天敵に会うともわからないのだから、余計気を引き締めないといけない。
ふう、とため息を吐いてから、ベッドに座り直す。ゆっくりとむくみを取るように脚のストレッチをしつつ、思考をめぐらせていたら。ふいにメールの受信音が響いた。開いてみれば、それは大学時代の友人からだった。
「サークルのメンバーと久しぶりに集まるから飲みに行こう……、って本当久しぶりね」
卒業してそんなに経っていないのに、学生時代の友人に会うのは数年ぶりに感じる。仲の良かった友人からのお誘いメールをスクロールさせれば、日時と場所が記されていた。手帳を見て、その時間と場所なら問題なく動けそうだと確認する。
たまには参加するのもいい気分転換になりそうだわ。社会人になってからメールで近況を教えたりはしていたけど、仲のいいメンバーと集まれる時間は意外と少ない。土日が休みじゃない友人もいるとなれば、なおさらだ。
専務の仕事について行くことも多い私も、大概その”忙しい人間”のくくりに入っているのだろうけど。参加メンバーが女の子だけなのを再度確認して、一つ頷く。別に学生時代の友人(同性)と会うことを、リハビリ相手で交際を申し込まれている専務に報告する必要はないわよね。
私は一言参加すると返信した。
◆ ◆ ◆
急ぎの案件はなく、比較的平穏な一週間が過ごせた。秘書課がある自分の縄張りのフロアをほとんど出ない日が続き、他部署に顔すら出してない。歩き回る頻度が少なければ少ないほど、天敵諫早と接触する確率も下がる。その代わり、専務と接している時間が延びるわけだが。
終業時間を迎えて専務室を退室しようとすれば。一礼してドアへ向かう私を、彼は背後から呼び止めた。
「今日は何曜日だ?」
「金曜日ですね」
「それで君はこのまま帰るわけか。随分と消極的な姿勢だな?」
何がだ、リハビリに対してか。一度食事に行った後、お昼ご飯を一緒に食べても、夜にまた誘われたことはなかった。どうやら彼は、私から誘ってくるのを待っていたらしい。
面白くなさそうに頬杖しながら私をじっと眺めてくる専務に、私は今夜の予定を告げた。
「すみません、生憎ですが今夜は大学の友人と集まる予定が入ってまして」
「友人と集まる?」
「はい、サークルのメンバーで飲みに行こうと誘われてて」
今日は空いていないと告げれば。同じ姿勢のまま見つめてくる顔がどこか思案気に曇る。冷静な眼差しはそのままで、彼は私が懸念していた通りの質問を投げた。
「男もいるのか」
「いません」
きっぱりはっきり言い切れば、すっと眼差しが細められた。嘘を吐いていれば100%動揺を見せてしまいそうになるほど、その視線の鋭さにはドキッとさせられるが。私は別に嘘ついてないし。余裕の笑顔でその視線を受け止めた。
「何も心配される事はありませんよ? 親しい仲間と会うだけですし、異性の友人は来ませんから」
「別に疑っているわけじゃないが。遅くなるようだったら連絡しなさい。迎えに行く」
「専務……過保護すぎです」
お父さんか、と言ったらまた怒られるだろうな……。私に兄はいないけど、お兄さんっぽくもある。
そんな視線で彼を見つめ返したからだろうか、どことなく拗ねた顔で姿勢を正した専務は、一言「父親にも兄になったつもりもない」と呟いた。
「恋愛対象外の肉親と同列に見なされるのは困るからな。妙齢の若い女性同士の集まりでも、心配するなという方が無茶だ。君は目立つ。不埒な輩に目をつけられないとは限らない。君はもっと自分の魅力を自覚するべきだ」
「それは……ありがとう、ございます?」
「……何で疑問系なんだ……」
はあ、と脱力気味に専務はぼやいた。魅力的だと褒めてくれたことに対してお礼を言ったまでなんだけど……
「ご心配ありがとうございます。でも目立つのは私だけじゃないから大丈夫ですよ。今夜会う友人たちも、有名でしたから」
いろんな意味で。単に容姿がキレイだというわけじゃないが。(見た目は目立つけど)。安心させる為にそう言ったのに、専務の眉間には更なる皺が刻まれた。
「逆にもっと心配になるだろうが。目立つのが何人も集まれば、人目につく。厄介ごとに巻き込まれたら大変だ。やはり迎えに、」
「あ、急がないと送れちゃう! それでは、お先に失礼します!」
若干、かなり? 失礼だとは思ったが、専務の言葉の途中で会話を遮り、私はそのまま部屋を飛び出した。そして秘書課に向かった後、更衣室で着替えを済ませダッシュで出る。
追いかけてはこないと思うけど!
何に焦っているのかわからないまま、私は待ち合わせ場所となった店へ急いで向かった。
なかなか、話が進んでいなくてすみません…




