11.リハビリテーション
無言を肯定と受け取ったのだろう。咄嗟に何て答えるべきか考えていた私を見て、専務は眉間に皺を刻んだ。
「あの男が12年間君の心を支配し続けて来たというのも、本当か?」
視線を彷徨わせる私を見て、専務は「頷くか首を振るかでいい」と言った。嘘をつくことも出来るが、もうバレている事を否定する為に理由を考えるのも、面倒だ。それに、仕事で尊敬している上司に、プライベートな事でもなるべく嘘はつきたくない。
観念した私は、小さくこくりと頷いた。
一体この人はどこから聞いていたのだろう。昨日の話を全部聞かれていた可能性も高い。絶妙なタイミングで現れたけど、あれは暫く様子を見ていたからなんじゃ……
さ、さっさとここから離れたい! そんな衝動が駆け巡るが、それをしてしまえば昨日の繰り返しだ。答えを先延ばしにするだけで、根本的な解決は一つも出来ない。モヤモヤしたまま月曜日に仕事で顔を合わせるなら、今全部解決させてしまった方がお互いの為ではないか。
「誰とも恋をする気はないというのも、本当か?」
静かな声音が届き、私は俯き加減だった顔を専務に向けた。じっと見つめてくる眼差しは鋭いのに、どこか緊張感を漂わせている。真摯な視線を受けて、私も覚悟を決めた。
「わかりません。私、よくわからないんです」
「何がだ?」
「恋が何なのか、好きという感情が何なのか。この歳でそんな事を言うのはおかしいかもしれませんが、人を好きになる感情がわからないんです。友情や家族とは違った”好き”とはどんな物だったのか。誰かを好きになるのがどういう気持ちなのか、もう思い出せない」
彼氏はいた。交際経験は一応ある。でも、あれらは恋愛ではなくて、恋愛ごっこだったのだ。今考えれば、付き合うという経験が欲しくて交際に了承しただけなのかもしれない。相手を好きになる努力はしたけど、友情以上の気持ちが芽生える事はなくて、誰かを情熱的に愛した経験はない。あいつ以上に誰かに対抗心を燃やして執着した事も。
考えれば考えるほど、自分は欠陥品なんじゃないかと思えてくる。子供の頃の初恋を未だに引きずって、見返してやりたい一心で資格を取りまくり自分を磨いて、挙句には同じ会社に就職を果たすなんて。普通はここまでしない。いくらショックでも時間と共に傷は癒えて、そのうち鼻で笑って「で?」で終わらせられるような笑い話になるだろう。
今までの人生の半分は、諫早の事を考えて行動してきた。進路も趣味も全て、奴が私の生活の中心にいたのだ。半ば意地になっていたと思う。嫌いな相手をそうまでして意識し続けるなんて、どこかおかしいとしか思えない。
自嘲めいた笑みがこみ上げてくる。座っていたベンチから立ち上がり、数歩歩いて専務に振り返った。
「ご存知の通り、私の人生の半分はあの男が支配していました。今もまだ、心のどこかで奴への対抗心が残っている。子供の頃の初恋を未だに根に持って、見返してやりたい気持ちだけでここまで突っ走って。気づけばまともに人を好きになる気持ちを理解できないまま、社会人になった」
黙って耳を傾けてくれている専務を見つめたまま、私はそっと呟いた。
「きっと、恋愛感情をこじらせているんです。こんなバカな女、やめた方がいいですよ」
いくら専務でも、呆れてしまうだろう。こんな風に誰かに執着して自分の人生を決めていたなんて知ったら。
暫く休んで立ち上がると、歩いていた時には感じなかった足の疲労に気付く。ヒールはそこまで高くはないが、慣れない靴を履いているのだ。クッション性も一応あるけど、鈍い痛みが足裏から伝わって来た。先ほどまで時折襲って来ていた睡魔は、今は息を潜めている。
肉体的にも疲れていて、精神的にもいろいろといっぱいだ。心に余裕のない今の自分は、普段仕事で見慣れている秘書の顔ではない。昔の初恋をこじらせて未だに消化できていない、愚かな女に見えるだろう。
必死でなりたい自分を演じて能力を上げて自信をつけても、素顔の私は強くはない。尊敬する上司に、弱くて情けない姿を見せるなんて、今日はどうかしている。もしかしなくても、少し酔っているかもしれない。
「迅さんには、綺麗で頭もいい、大人な女性がお似合いです。私みたいな面倒な女じゃ、釣り合いません」
「それが君の答えなのか?」
目の前の視界がすっと陰ったと思ったら、専務はベンチから立ち上がり私との距離を詰めていた。背後にある外灯の明かりが濃い陰影をつけていて、いつも以上に彫が深く精悍な顔立ちに見える。思わずドキッとしてしまった。
そんな私の動揺を見透かされるわけにはいかない。私は正直に「そうですね」と頷いた。
「そうか。だが、そんな答えじゃ納得はできないな」
「え?」
すっと伸びた手が、私の動きを制御する。とその直後、気づいたら逞しい胸の中に身体ごと拘束されていた。はらりとショールが足元に落ちる。むき出しの肩と背中に回った専務の手のひらの体温を直に感じて、私の鼓動が早まった。
「あ、の」
「綺麗で大人な女性が似合うだなんて、誰が決めた? 俺は自分の傍にいてほしい女は自分で決める」
はっきりとした意志を秘めた力強いバリトンが耳元に落とされて、背筋に震えが走った。抱きしめられている腕に力がこもり、落ち着かせなくさせる。
「恋する気持ちを忘れてしまったのなら、ゆっくり思い出せばいい」
「それはどうやって?」
抱きしめられるまま、身体を専務に預けてぽつりと尋ねる。身じろぎ一つ出来ない今、額を専務の肩に乗せて答えを待った。
「思い出す、とは違うか。知っていけばいいんだ。新しく学ぶのは君が得意とする事だろう?」
「……そこは普通、「俺が思い出させてやる」とか言うもんなんじゃないんですか」
可愛げのない言葉を投げれば、専務がふっと笑った気配が伝わった。
「悪いが、そこまで自信過剰にはなれない。君は俺がどれだけ勇気を出して君に告白したのか、わかっていないだろう。10歳も下の女の子に好きだというのに、躊躇わないはずがない。しかも君は俺の秘書だ。30を過ぎた男は、若い頃よりも恋に臆病で慎重になるもんなんだ」
「私にはいつも自信満々に見えますが」
意外な心情を吐露されて、内心少し驚いた。歳なんて気にしないと思っていた専務は、実は結構気にしていたらしい。
「男は虚勢を張りたがる。かっこ悪い所なんて見せたくないじゃないか」
「私も、かっこ悪くて弱い所は見せたくないです」
そう言えば、専務は夜風にあたって冷えて来た私の肩を温めるように、抱きしめる手に力を込めた。子供をあやすみたいにそっと肩や背中を撫でられる。
「これは勝手な言い分だが、男はかっこつけたい生き物で、好きな女性の弱い所は見せて欲しい。当然、自分にだけな。君がいつも背筋を伸ばして胸を張る姿は見ていて清々しいが、ふと肩の力を抜いてありのままの自分でいられる姿も、俺は見たいと思う。弱音を吐いて甘える所も見せて欲しいんだ。少しはプライベートでも頼りなさい」
「最後は命令形とかずるいです……」
年上の余裕という物が見せられた気分だ。こんな風に甘えてもいいと言ってくれる男性が、今まで自分にはいただろうか。別れた元カレ達を思い出しても、皆同年代だった為、包容力というのを感じた事がなかった。
触れられる箇所かた伝わる温もりや、安心感のある声に、頑なだった心が徐々に溶けていく気がする。
「何だか専務ってお父さんみたいですね」
「そこはせめてお兄さんと言いなさい」
ムッとした声音がおかしくて、ついクスリと笑ってしまう。
そんな私を見下ろしていた専務は、一つの提案をした。
「焦って答えを出す必要はないし、恋愛感情もゆっくり知っていけばいい。まずは俺と恋のリハビリを始めないか?」
「リハビリ?」
ふと彼の顔を見上げれば、専務は目尻を下げて穏やかに微笑む。
「ああ、そうだ。忘れてしまったのなら思い出せばいいだろう? 失った感情を再び取り戻す特訓だ。誰かを好きになる気持ちを、俺で試せばいい。俺の事が嫌いじゃないのなら――」
最後にそう付け加えるあたり、この人は本当に優しい人なんだとわかる。無理強いはしないし、選択権は私にある。
その目の奥に走る僅かな緊張を読み取ってしまい、私はふっと肩の力を抜いた。きっと今の提案も、勇気を出した提案なんだろう。
「また、誰かに恋する気持ちがわかりますか」
「そうなるように努力する。もちろん、君が恋する相手は俺であって欲しいがな」
その言葉を聞いて、私は自分からそっと両手を専務の胸元に縋りつく。そしてはっきり、「よろしくお願いします」と答えた。
「ああ、期待していろ」
ポン、と頭に載せられた手とふわりと微笑みかけられた笑顔に、胸の奥がじわりと温まっていく。
もしかしたらこれも、何かの始まりなのかもしれないと、そう頭の隅で思った。




