【競作】再会
『ずっと一緒にいようね』
美由紀は、拾ってきた猫を抱きしめて、そう言った。美由紀に猫を飼うことを許した両親は、微笑んでその様子を見ていた。
美由紀は目を覚ます。いつの間にかうたた寝していたらしい。もう、20年も前の事を、夢に見ていた。
うんざりするほど暑い夜。
拓人とのドライブも、暑さに押されて口数が少なくなっていた。うたた寝も、そのせいか。
その暑さのせいか、美由紀が目を覚ますと拓人がいやなことを言い出した。
「あそこ行こうぜ」
「あそこって?」
「洞窟」
自分がそういうのを嫌いなことを知っていて、意地が悪いと美由紀は思う。
拓人の言う『洞窟』は、町の東南の外れにある。岡と呼ぶには大きすぎ、山と呼ぶには微妙に小さな隆起の麓にある、小さな亀裂のことだ。大人が軽く屈んで通るのが精一杯のその亀裂に入り込むと、死者に会うことが出来ると、町では言い伝えられていた。ただ、出会える死者が、自分の望む相手とは限らない。
死んだおじいちゃんに会って説教されたとか、虐めで自殺した子に追いかけられておかしくなった元いじめっ子がいるとか、噂は絶えない。しかし、美由紀の周りで実際に入ったことのある人はごく少数だったし、その人達は「誰にも会わなかった、ただのお伽噺だよ」と笑った。
「美由紀は、そういうもの怖いくせに、素直に怖いって言わないよな。非科学的だ、とか言ってさ」
「うるさいな。いやなものはいやなの。別に、怖くたって嫌いだって、どっちでも困らないでしょ?」
拓人のからかうような言葉に、美由紀はついムキになってしまう。美由紀の身内は、みんな元気だった。『会いたい死者』などいないし、ましてや『会いたくない死者』に会ってもしょうがない。
美由紀の言葉を無視して、拓人は洞窟へ向かって車を走らせる。本気なの?美由紀は不愉快になる。
「悪い冗談はやめようよ」
「いいじゃん、ユーレイとか信じてないんだろ?遊びだよ、遊び」
拓人はそう言って、車を進めた。肝試しなんて、子供の遊びだと美由紀は思う。
車は住宅地からどんどん遠ざかって、街灯がまばらになる。道はどんどん暗くなっていく。
「やめようよ、ねえ、帰ろうよ」
「折角ここまで来たのに?」
拓人は、何が何でも行く気らしい。
洞窟が近づいてくる。不意に拓人が車のスピードを落とした。
「どうしたの?」
「空」
拓人に促されるままに美由紀はフロントガラスから空を眺めた。星が空一面に広がっていた。
「うわぁ」
美由紀は思わず声を上げた。町の灯りが届かないと、こんなにも星が見えるのか。
来て良かったかもしれないと、美由紀がちょっとだけ思ったそのとき、ヘッドライトの中に、何か塊が映し出された。
拓人がハンドルを思い切り右に切った。前輪は塊をよけた。そもそもスピードは出ていない。二人が安心したのもつかの間、左後輪が塊に乗り上げた。車体が大きく揺らぐ。拓人は車を止めた。
「石、だよな」
拓人がおそるおそる言った。
「狐じゃない?」
この辺にはよく出る。美由紀はわざとそう答えた。いやがるのを分かってて洞窟に来ようとした罰だ。
二人で車を降りて確かめる。それは、石でも狐でもなかった。
「…猫か」
拓人が、いやなものを轢いた、という口調で言った。自分の不注意で生き物を死なせておいて、その言い方はないだろうと美由紀は思う。夜目にもそれと分かるほど、アスファルトが黒く染まっていた。小さな生き物は、少しの出血で失血死してしまう。
美由紀は猫に手を伸ばした。
「ちょっと、何してんの」
拓人が、いやそうな、というより少し怯えた声で言った。いざとなったら男は血に弱い。どっちの肝が試されてるんだか、と美由紀は内心呆れる。
「このままにしておけないでしょ、狐に食べられちゃう。じゃなきゃ、ほかの車にまた轢かれるかも」
美由紀は着ていたパーカーを脱いで、それに猫をくるんで抱きかかえた。猫はまだ温かく、しかし全身から力が抜けていて抱えづらかった。
「それ、車に乗せるの?」
拓人が訊いた。
「当然でしょ、あと、それじゃない。猫は物じゃなく生き物。戻るよ、この子を保健所に連れてかなきゃ」
拓人が渋々、助手席のドアを開けた。車のルームランプがついて、美由紀は猫の顔をちゃんと見ることが出来た。
まさか、と思った。
「ここ、まだ『洞窟』じゃないよね?」
美由紀は思わずそう聞いた。そっくりとまではいかないけれど、よく似ている。白地に、キジトラ模様の斑。とりすましたような、それでいて不機嫌そうな貌。
あの子は、2年前に死んだ。18才。猫としては、ずいぶんな長寿だ。死んだときには、『子』じゃなくて『おばあちゃん』だろう。
少なくとも、美由紀は『洞窟』で、人間以外にも会えるとは聞いたことがなかったし、そもそも『洞窟』に入っていない。
腕の中にいる猫は、あの子よりずっと若い。斑の位置も色目も、ちょっとずつあの子と違うように思う。それでも美由紀は、あの子とまた会えた、という気がしてならなかった。
「アパートまで、送ってくれるよね?」
「保健所じゃなくて?」
「洗ってあげなきゃ、血まみれのままじゃ可哀想だよ」
「気持ち悪くないの?」
「うーん、抱きづらいとは思うけど。生きてれば、いつかは死ぬんだし。だいたい、拓人が殺したんだからね」
「ごめんなさい」
「私じゃなく、猫に」
「ごめんなさい」拓人がもう一度、今度は猫に言った。『洞窟』行きは、なくなった。
美由紀のアパートに着いた。深夜に近かったけれど、階下の住人は看護師で、今日は夜勤だと言っていた。水を、遠慮なく流せる。
拓人を帰して、猫をバスルームへ連れて行く。死んだ猫のいいところは、水をいやがらないことだ。あの子はお風呂が大嫌いだった。猫を洗いながら、美由紀は視界が揺れていることに気づく。
「ごめんね」
死んだ猫を洗いながら、美由紀は泣いてくり返し謝っていた。
猫をタオルで拭いて、ドライヤーで乾かす。毛並みは悪くない。飼い猫かも知れないと美由紀は初めて思い至り、いるかどうか分からない飼い主に申し訳なく思う。飼っている生き物は、家族の一員だ。それが突然いなくなってしまうことの意味は、美由紀もよく知っていた。
通販の段ボール箱に古新聞を敷き、その上にお気に入りのバスタオルを広げ、猫を寝かせる。バスタオルの両端を猫にかぶせる。猫を入れた段ボールを、美由紀は寝室に持ち込んだ。朝になったら、保健所へ連れて行くつもりだった。
夜明け前、美由紀は何かの気配で目を覚ました。温かな、ふわりとした感触。目を開けると、そこに猫がいた。あの猫が生きていたのかと美由紀は驚く。猫が、当然の権利のようにすり寄ってきた。あの猫じゃない。もっと、若いというか、小さい。まだ仔猫だ。
どこから入ってきたのだろう。窓を閉め忘れただろうか?
美由紀は改めて猫を見る。
あの子だ。拾ってきたときの、小さなあの子。
段ボールに目を移すと、そこに猫はいなかった。
もしかして、この子はわざわざ自分から、『洞窟』から出てきてくれたんだろうか?自分に会いに。美由紀は、仔猫を抱きしめる。
「こんどは、ずっと一緒にいようね」
美由紀は、仔猫を抱きしめてそう言った。仔猫がどこからやって来たかなど、どうでも良かった。
抱きしめられた仔猫が、満足げに小さく鳴いた。
翌朝、拓人は美由紀を迎えに来た。自分が轢いた猫のために、彼女を一人で保健所に行かせる気には、拓人はなれなかった。インターホンのスイッチを押す。美由紀は出ない。まだ眠っているのか。拓人は合鍵を使って、中に入る。本当は迎え入れられるのが好きなのだが。
部屋に入ると、不快な臭いがした。死んだ動物の臭い。
「ああごめん、来てたんだ」
美由紀が寝室から出てきた。猫を抱いている。夕べ、自分が轢いた猫の死骸だと拓人は一目で理解する。
「美由紀、お前、それ」
「ん、ああ、拓人、初めてだった?この子ね、あたしが子供の頃に拾ってきたの。お母さんに飼っていいって言われて、それから、ずっと一緒だったんだよ」
美由紀は、幸せそうに猫の死骸をなでる。
拓人には、美由紀に掛ける言葉が見つからなかった。どうして昨夜、『洞窟』へ行こうなどと思ったのだろう。
「朝ご飯、食べてないでしょ?一緒に食べる?」
美由紀が笑いかける。いつもと同じだ。猫の死骸を抱いている以外は。たった一つの異質なものが、音を立てて日常を切り崩していく。
『ずっと一緒にいようね』
再会とともに、その約束は守られた。猫の死骸の曇った目が、勝ち誇った視線で拓人を見ていた。
猫は愛です。