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File.1『手を繋ぐ話』

 ……時は放課後。授業を終え、庵優斗は昇降口から外へ出てすぐに首元のタイを少しだけ緩め、ふぅっと一息吐いて、空を見上げる。

 冬の肌寒さが、まだ少しだけ残る三月。その月は卒業式や学年末テストなど行事がぎっしりの月。そして今日は終業式。

 クラスメイトの全員が、担任から貰った一枚の藁半紙を放り投げ、飛び出す様に教室を出て行った。その残骸を、教師に捕まった優斗は全て処理してから帰る事になったのである。

「走れないのも、考えものだなぁ」

 楽しいから良いけど、と優斗は苦笑がちに呟いて、トントン、と革靴の爪先でコンクリートの地面を叩いてから、

「帰りますか」

 また呟いた。

 そのまま校門へとゆったりとした歩調で歩いていく。

 と、親の車を待っているのか、それか誰か友人を待っているのか。唇を尖らせ、それはもうつまらなさそうな表情で立ち尽くす少女が一人。

 その綺麗な黒い髪は腰まで届いていて、その髪は桜の花弁と一緒に風に揺れる。

 乱れるのを抑える為か、軽く手で自分の髪をまとめていた。

「空」

 優斗はその少女の名を呼んだ。

 空、と言われた少女は、名前を呼ばれるなりはぁっと小さく溜息か、それとも安堵の息かを吐いて、そして右腰に手を当てて振り返った。

「遅かったじゃない」

「ごめん。ちょっと、掃除をね」

「またいつもの事後処理? よくやるわね、ホント。待たされる身にもなって欲しいわ」

 そう言われると何も言い返せない。優斗は本当に申し訳なさげに苦笑を浮かべて頭を下げた。

 庵優斗はお人好し。それはこの学校では常識だった。

 普段は誰よりものんびり屋であり、優しくもある優斗は、究極的なものでない限り、人に頼まれたら断れない。

 その分報酬は貰っては居るが、それでもボランティア精神あふれる彼の事。幼馴染の日下空にとっては、彼に仕事が舞い込んで来る度に気が気ではない。

 そして彼も連絡一つ寄こさずに頼まれ事を引き受けるので、毎度の事ながら自分との約束をすっぽかされた空は、自宅へと帰った優斗を、鬼の形相で待ち構えているのである。

 近所の人にとってそれは暗黙の了解。これはもう、彼らの生きてきた十七年間の恒例行事だからである。

 普通だったら空もそんな優斗に呆れる所だが、この関係は今でも続いていた。

「罰として鞄持ちなさい」

「どうせ何も入れてないんでしょ」

 はい、と優斗は腕を伸ばして、肩の位置に頭の来るほどの背の高さである空は、鞄を持つ腕を上げてそれを手渡した。

「ん、何か入ってる?」

「昨日買った教科書。優斗に持って貰おうと思って」

「……最初から計画してたんだね」

 優斗は溜息を吐くと、さて、帰ろうと言って自分の鞄と空の鞄を一緒に持ち、空の手を取った。


       ◇


 優斗の両親は共働きである。

 よって、小さい頃からよく空の家で厄介になっていた。

 空との付き合いはそれからである。

 保育園も一緒に通い、家も道路を挟んだ斜め前。一分圏内でいけるそこは凄く便利で、優斗にとって《二つ目の家》とも思しき温かい家庭だった。

 そしていつしか、その両親は優斗にサプライズという事で二人は海外へと赴任する事を優斗が高校入学するまで黙っており、一人暮らしの高校生活という慌ただしい日々をプレゼントされた優斗は、高校へ入学してから二年間、自宅に居る時間よりも、空の家に居る時間が多くなっていた。

 ……もしくは、甘えているのかもしれない。

「……………」

 春休み初日。優斗は自宅の自室で本を読み耽っていると、唐突に相手が空だと解る着信音が鳴った。

 一度本に栞を挿して閉じ、優斗は携帯電話を取った。

「ん、もしもし?」

『わたし。今貴方の家に居るの』

「うそぉ!?」

 ガタッと音を立てて椅子から立ち上がる優斗。慌てて階段を駆け下りるなり、香ばしい、トーストにバターの塗られた匂いがした。

「おはよ。もう少しで出来るわよ」

「ってか、なんで空が朝食を?」

 丁度これから朝食の準備に取り掛かろうとしていた時にこれだった。

「お父さんとお母さん、今日から居ないのよ。旅行って言ってたでしょ」

「……えっ?」

「春休みだから、わたし達家にいるだろうし、って事で、置いてかれたの。……聞いてないの?」

「うん、初めて聞いた」

「……………」

 空は今此処には居ない誰かさんへと向かって、呪う様に「バカ」と呟いた。

「それで、何処に行ったの? おじさんとおばさん」

 優斗は自分のマグカップと、空用のマグカップを食器棚から取り出し、コーヒーを淹れる。

 豆はすでに挽いて、コーヒーメーカーに入れてあり、すでに準備は出来ていたので、双方のマグカップに練乳を投入。

 ベトナムコーヒーなので、現地に沿った飲み方で頂く。

「んー、京都だったかしら。一日目は名古屋だーって言ってたけど」

「……空、貯金とかある?」

「ある事はあるけど。……何よ、行くつもり?」

 まさか、と言った視線で優斗を見るが、優斗は顔を横に振ると、ほっとしたように息を吐く。

「パスポートは?」

 と聞くと、空はリビングのテーブルに二人分バターの塗られたトーストと、ベーコンとデミグラスソースが掛けられたスクランブルエッグを置いて、

「……へ? 海外?!」ぎょっとした顔で優斗を凝視した。

「うん、父さんから四人分チケット送られてきたんだ。春休み入ったら誘おうと思ったんだけど、失敗したなぁ」

 もっと早く言っておけば良かった、とばかりに優斗は後ろ頭を掻いた。

「海外って、何処に?」

「父さん達、結構転々としてるみたいでさ。今確か、イタリア」

「……だからこのコーヒー、ベトナムなのね」

「……うん」

 二人してずず、と練乳入りのベトナムコーヒーをすすり、カップを置くと、空は顔を横に振った。

「流石に、未成年の二人だけで海外に行くっていうのは、少し危険よ。残念だけど、帰ってからに……」

「そうだね。帰ってきたら改めて聞いてみよう」

 時期が悪かった。そう説明すればきっと父さん達も理解してくれるはずだ。と、優斗は内心切に願いながら朝食に手をつけ始めた。


       ◇


 事件は唐突にやってくる。

 けたたましく鳴り響いた『着信音1』に優斗は眉根を寄せ、通話ボタンを押した。

「もしもし?」

『あー、もしもし? あたし――』

「新聞の勧誘はお断りです」

『あ、おい待てッ! なんでそうなるっ?!』

 通話終了ボタンを押しかけるなり、抗議の叫びが上がった。

「こんにちは実乃里。今日もいい天気だね」

『そうだねえ! こちとら昼間からいい冷や汗かかせてもらったわ!』

「話しはそれだけかい」

『そうは問屋が卸さねーぞ!?』

「さて、下らないやりとりは此処までにして。……どうしたんだい? 電話なんて珍しいね」

 優斗は掃除機を掛ける空にジェスチャーで「一旦消して」と言い渡すと、空はスイッチを切って優斗の許へ歩み寄って来た。

「何かあったの?」

 空の言葉に優斗は頷くと、電話を続ける。

「それで、何があったんだい」

『学校内で盗難だ』

 その一言で、優斗はスイッチが切り替わったように唐突に立ち上がり、リビングの出入り口にかけてある上着を取って着込む。

 空もそれに倣い、迅速で掃除機を片付け、ソファに置いたままのストールを羽織った。

「今行く。とりあえず現場に居る人は全員確保しておいて。あと盗難の所には誰にも触らせないように。警察も呼んで置いた方がいい」

『解った。待ってるぜぃ』

 その声を幕切れに優斗は電話を切り、その上着をどこぞの刑事ドラマのようにバッと翻しながら着込んだ。


       ◇


「身体は大人頭脳は子供。その名は迷探偵庵優斗」

「出オチやめなさい」

 ぺしっと空に肩を叩かれ、優斗はその上着に付けられた《腕章》を見せ、騒然とする生徒達の中へと入って行き、ポケットから手袋を取り出して現場を見た。

「来たか」

 茶髪のセミロングの女子生徒――稲村実乃里。優斗と空が入っている同好会の同期であり、校内にはとどまらずこの市にまで《情報屋》と呼称されている。

 優斗と空は無言で頷き、その下駄箱の方へと歩み寄った。

「……被害者は?」

「一年七組の遠山皐月。発見時は今日の昼時。部活の帰りにはもう無くなっていたらしい」

「なるほど……一年生か」

「んま、詳しい事は部室で話すぜ。とりあえず皆はどうする」

「全員クラスと出席番号、名前を聞いてから身元を確認しておいて」

「あいよぅ」

 そういって実乃里は立ち上がり、「よーし、今日は事情聴取はなし。クラスと出席番号、名前を此処書いたら帰ってオーケー。手間かけたな」と言いながらギャラリーの対応を始めた。

「……まぁ、下駄箱だし、大したキーワードはなさそう………」

 優斗は小さく呟くと、事務室からセロハンテープを取って来た空からそれを受け取り、ペタペタと下駄箱の取っ手に張り付けて行く。

 その上でようやく中を開き、状態を確認する。

 中には一足の学校指定の運動用の靴があり、仕切りが出来ていて上下に靴を一足ずつ格納する事ができるスペースがあった。

 これはどこの学校も同じ造りである。

(運動靴の中は……っと)

 手探りで運動靴の中を探る。……途端、

「っ」

 鋭い痛みが右手の中指に奔った。

「優斗?!」

 慌ててひっこめると、じわりと白い手袋に血が滲み始め、空が心配気に優斗の右手を取った。

 優斗は気にせず左腕の手で、右の運動靴の中を見、そして揺すると、ころん、と画鋲が転がって来た。

(――画鋲?!)

 そこで察しがつく。……なるほど、イジメか。

 一度運動靴を置くと、下駄箱の中を手で探る。

「優斗、また怪我したら……」

「大丈夫、奥までは入れないから」

 そうなだめつつ、優斗は運動靴の置いてあったところをこすると、少しデコボコとした感覚があった。

(これは……やっぱり)

 ガムだった。それも固くしてから削り取ったような手触り。それでさらに彼女へのイジメに確信が持てた。

「……実乃里」

「ン? どした?」

 全員から名簿を取っていた実乃里に声を掛け、実乃里が寄ってくる。

「一年七組の人、居たら残しておいてくれ」

「解った、七組だな?」

 反復して確認する実乃里に、優斗は頷いた。

 それを見て実乃里は持ち場へと戻り、優斗の右手を処置した空はその仕切りを外した。

「……これ、イジメの一つよね」

「間違いないだろうね。ガムや画鋲が入ってるんだ、自分でやるにしてもガムまではいかないと思う」

「思う、って言うのは確定じゃないわ。その点もしっかり探らないと」

「そうだね」

 優斗は頷き、ふと顔を上げると、昇降口から青い服を着た大人が入って来た。

「ようやくお出ましだ」

 背には地元警察署の名前。

「お、庵じゃねーか」

「ご無沙汰してます、升形さん」

 久しぶりだな、と優斗の肩を叩くのは、升形英治。

 優斗の父、兵馬の古い友人であり、優斗がこの様な『同好会活動』を始めてからというもの、かなりの力になってくれる人物である。

「指紋はどうした」

「多分、取っ手よりかは周りの指紋を採った方が適切かと。一番下なんで、上を全面的に採れば指紋も見えてくるんじゃないですかね」

「解ってるな」

「恐縮です」

 よし、と肩に下げたバッグから機材を取り出し、優斗はそのバッグに手を突っ込んで、パックを取り出す。

「ん、どうしたその指」

「……画鋲が入ってまして」

「………そいつも入れといてくれ。あと、空ちゃんに絆創膏貼ってもらいな」

「もう貼って貰いましたよ」

「んじゃーあれだ、舌で――」

「やめましょう。仕事中です」

「なんだよぅ」と不満の声を上げる升形に、優斗は仏頂面になった。

「その、人が居ない所でなら……」

「空は、とりあえず実乃里の手伝いに行って」

「あ、うん」

 もう聞く耳持たない。と優斗は決め込み、空を突き離すように実乃里の方へと送る。

「………。……ギャラリーはどう対処してる?」

 升形は送り出された空の背中を眼で追うのを止め、優斗に聞いた。

「一応、全員の名簿を作らせてます。……空の《能力》に頼る事になるかもしれませんけど」

「それを使わせる前に、お前さんが謎解きしねえとな」

 頼りにしてんぞ、と頭に手を乗せられ、数秒間が空き、そして優斗は「善処します」と確かに頷きながら答えた。


       ◇


「……一年七組、遠山皐月。出席番号二十七。クラス内では特別目だった事は無く、友人関係は女子に偏っている。趣味はバスケで、今入部しているバスケ部と関連がある。今じゃ二年を追い抜いてレギュラー入りだそうだ」

「クラス内のイジメという線はなさそうね」

「みたいだ。……部活内の雰囲気は?」

「あたしも一度体験してきたからよくわかるんだが、印象はそこそこ良かったと思うぞ。先輩と後輩もフレンドリーだったし」

「プライドとかそう言うのは?」

「そこら辺は女にとっては付き物よ。人によって広い狭いあるけど」

 そう空に言われ、優斗は唸った。

「……部活内、に絞り込むか……いや、それとも………」

「あたし的にはちょっぴり気になるトコがあるんだよな」と、実乃里は挙手しながらそう言った。

「それ、早く言ってくれない?」

「おぅ、悪い悪い」

「気になる所、って言うのは?」

「――その子、自分の意思でバスケ部に入ったわけじゃないんだ」

 その不自然さに空が声を上げた。

「いやでも、趣味バスケなんでしょう? それで自分の意思じゃないって……どういう」

「趣味と部活は別。そう区別する人も多くはないよ」

「……優斗?」

「空は走るのが好きだよね」というと、空はうん、と小さく頷き、そこで合点がいったようだった。なるほど、と空は続ける。

「わたしみたいに、趣味としては好きだけど、あえて部活に入ろうとする人は少ないのね」

「そう。自分の好きなように、のびのびとプレイ出来る環境が近くにあるのに、それを何故、あえて学校でやらなければならないのか。っていうのが、彼女の考え方だったんだろうね」

「……うん。それで、実乃里。じゃあなんで彼女バスケ部に?」

「それがなー、友人に誘われたみたいなんだ」

「友人? クラスメイト?」

「ま、普通に考えるならそういうんだろうなぁ。けど、違うんだなこれが。……他校の人間だ」

「他校って。此処まで入ってこれるわけないわよね?」

「ああ。基本的に別の高校の生徒が他の高校へと無許可で入って良いわけがない。だからあたしもあえて言おうとは思わなかったんだけどな」

「実乃里。その人と繋がりがある被害者の知り合いは居るかい」

「……少ないが、居る。合計四名ほどと少ないが、絞り込むにしてはかなり減ったんじゃねーか?」

「………あまり、こういうのは負担かかるからやらせたくないんだけど」

 ちら、と優斗は空を見た。

 空は溜息を吐いて、「平気よ」と短く言いながら優斗の肩に手を置く。優斗はその手を優しく握りしめた。

「……よし、行こう」

 思い立ったが吉日。優斗は空の手を握ったまま、二人を連れて部室を辞した。


       ◇


 ――人の精神をリンクさせる。

 それが日下空の《能力》だった。

 小学校二年生のある日、彼女はその能力があるという事を、優斗は知る。

 それと同時、実の両親から突き離された彼女の記憶は、今はもう……『彼女の中には無い』。

 その記憶は優斗の中に存在する。今ではまるで自分に起こったかのような既視感を覚え、《記憶の融合》という「他人の体験を自分のものにしてしまう」という恐ろしい事が起りかけているのだ。

 それはいわば《爆弾》ともいえる。もし彼の記憶と、その精神リンクによって切り離した彼女の記憶とが完全に混ざり合った場合……。

 予想できる事は、彼自身の両親をまず「親と判断しない」だろう。

 それほど、空は酷い扱いをされたのを優斗は知っている。知っているからこそ、その記憶を自分が持ち続けることを決めた。

 そしていつか、この記憶が必要となった時。その時まで、彼はこの《爆弾》を抱え続ける。自分の子の様に。赤子を抱きしめるかのように。

 しかし何故、彼女がこうも普通に過ごせているのか。その《部分》を取り除き、彼女の両親にもしっかりと話した上で、平和に過ごす事を優斗が約束させたからである。

 優斗は空に、自分自身に都合の良い記憶を構成させ、その《癌》とも言えるそれを優斗の身体へと空に《移植》させた。

 これが、彼らが互いから決して離れられない理由であり、現状、一緒に居る事の出来る唯一の手段だった。


       ◇


 優斗達は《彼女の友人》の家を訪ねていた。

「……なるほど、そういう事ですか」

 かちゃ、とティーセットをテーブルの上に置いた彼女は、遠山皐月の友人。バスケ部の部員である如月美咲という一年生だった。

「単純な推理ですね。でも、なんで私だと?」

「色々と調べさせて貰いました。僕らへの苦情は市の警察署が受けてくれますよ」

「……………。犯人は?」

「未だ捜査中です。しかし、その犯人の容疑者の中に貴女の名前があるというのは確かです。今日の午前八時から午後一時まで、どこに居ましたか?」

「ここでアリバイを聞きますか。嘘を吐くかもしれませんよ?」

「それは後々どうとでもなるのでご心配なく」

「……………」

 優斗の発言には重みがあった。それを汲んだ如月もようやく話す気になったのか、解りました、と短く言ってソファの背もたれに身体を預けながら話し始めた。

「……正直、私は彼女に少しだけ嫉妬を感じてます。一年でたった一人レギュラー入りしたんですもん。誰でも恨みますよ」

「それでも、貴女は遠山さんの靴を盗もうとは思わなかった、と」

「盗んでどうなるんですか? その子が困るのは一時的なものだけでしょう」

「それが連鎖的に起きたらどうしようもないんです。だからこそ、貴女の本心を聞きたくて此処に来たんですよ、如月さん」

「……とにかく、私はやっていません」

 そこは頑なに譲らなかった。優斗は少し黙り、「解りました」と言って一口紅茶を頂くと、

「それでは質問を変えましょう。――誰がやったのか、と」

 そう言うと、空と実乃里の顔は驚きに歪み、如月の手さえもピクッと大きく震えた。

「えっ!?」

「おいおい優斗! 直球過ぎだぜそりゃあ!?」

「此処まで話して冷静さを欠かない。そういう時のパターンは三つある。よっぽど肝が据わっているか、それとも犯人を知りつつも隠そうとしているのか。それとも……」

「――どれにも当てはまりません、先輩さん」

「……と、言うと?」

「犯人は教えましょう。けど、その証拠は貴方達だけで捜し出してください。ヒントもあげません」

 その一言に優斗は面食らった。

「良いのかい? もしかしたら、犯人の子が退学になるかも知れないんだよ?」

「構いませんよ。たかが嫉妬で盗みを働く人間なんか、小学校のレベルからやり直すべきだと私も思いますし」

「…………」

 ふふ、と冷静に笑って見せる如月に、優斗は眼を丸くして様子をうかがった。

「……つまり、貴女は犯人グループとは何ら関係ないと」

「関係が無い、といったら嘘になりますね。友人という関係では繋がっていますから」

「なるほど」

「それに、こちらも条件があります」

「と、言うと?」

「私から聞いたという事は絶対に公表しないでください」

「それは勿論。人を疑う事しかできない僕にも、責任感というものはありますよ。安心してください」

「それはよかった」

 彼女は嬉しそうに笑って見せると、一呼吸置いてから衝撃の言葉を放った。

「犯人は居ません」

「…………」

 一瞬、優斗はやはりか、と思った。しかし――

 ――バンッ!!

「っざけんじゃねえ! さっきまでの溜めはなんだ!? ええ、おい?!」

 優斗の友人だけは黙ってはいなかった。

 他人の家のテーブルという事も向う見ずに思い切り叩くと、机上のティーセットが揺れて自分の眼の前のティーカップから大量のミルクティが床へとぶちまけられた。

「実乃里、止めろ」

「優斗!」

「実乃里!!」

「……っ。すまん、熱くなりすぎた」

(――いや、お前は良く言ってくれたよ)

 優斗は懐からハンカチを取り出し、実乃里へ手渡す。実乃里は、仏頂面のままそれで床へと撒き散らされたミルクティを拭き始めた。

「それで、居ないというのは?」

「それは貴方達の仕事です」

「これは手厳しい。……でも、ありがとう。予想が確信に変わったよ」

「こちらこそ、お会いできて光栄でした。《お人好し》の庵優斗先輩」

 空の手を取って立ち上がり、振りかえりざまに優斗はそう言うと、帰って来た後輩の言葉に虚を突かれて口ごもった。

 そのまま苦笑して誤魔化し、「お邪魔しました」と頭を下げて出て行った。

「あっ、おい! あたしは!? ねえっ、あたしはぁぁ!?」


       ◇


 ――午後六時。

 長期休業中は、基本的にこの時間に校舎が閉まる。

 時間ギリギリというタイミングに、一人の《影》がスッと昇降口の扉を潜って入って来た。

 薄暗い昇降口に、フードを被って。

 その手にはレジ袋にも似た袋が握りしめられており、ガサガサと探りながら『それ』を取り出し、とある下駄箱の中へ――

 ――カチッ。

『!』

 唐突に光を灯したLEDライトは《彼女》の顔と、その手に握られた《それ》を照らした。

「……遠山皐月さん、だよね」

 優斗の声が廊下に響くと同時、昇降口の蛍光灯が一気に発光する。

 ヘッドフォンを首に掛け、深くフードを被った少女。その黒くくすんでしまった瞳は優斗を見ては居なかった。

 いや……視えていないのかもしれない。

「――ッ!」

 遠山は唐突に靴を優斗へと向かって放り投げた。

「おっ――」

 ――ごっ。

「ぃてっ!」

 避けられる『はずだった』。それでも、その《何か》は確実に優斗へと衝突した。

 ――唐突の出来事に、優斗は一瞬頭が真っ白になる。

 もう履く事ができない位にぐしゃぐしゃになった革靴が放り投げられた直後。それは重力や速度の法則を無視して直線的に優斗の額、そして腹部に襲いかかった。

(これは――!?)

 よろめき、尻もちをついた優斗は遠山の方を見る。

 が、そこには誰も居なかった。

 昇降口のスイッチがある柱から空が飛び出し、扉を潜って外へ駆けだす。

「優斗! 裏門の方に行った!」

「解った!」

 額を押さえながら、優斗も校舎内用の上履きのまま外へと飛び出し、遠山を追い掛けたであろう空とは反対側の、正門側の方へと走る。

 外に出られたらそこで終わりだ。

「間に合ってくれよ……っ!」

 優斗は歯がみしながら、さらに足に力を入れた。


       ◆


「――待ちなさいっ!」

 空が遠山を追い掛ける。距離は一向に縮む事は無く、むしろその距離をキープしている……いや、されているような感覚を空は感じていた。

 そして、薄暗い中、一つの門が見えてきた。

 それは――

(――正門!)

「優斗―――――――っ!!」

 空が絶叫すると同時、物影から一人の少年が姿を現し、走る遠山の腕を見事に取ると、瞬時に『担いだ』。

 一本背負い。コンクリート上でやるものではないが、それでも《隙》を造るには充分だった。

「……空っ!」

「うん!」

 急ブレーキを掛けようともせず、空は優斗の懐へ飛び込んだ。

 同時に、空の右手と優斗の左手が触れ合う。そこから淡い緑色の光が灯り、空はもう片方の左腕で皐月の頭に触れた。

「――行って、らっしゃい」

 どんっ! と優斗の身体と空の小さな背中がぶつかりあい、それによって優斗の身体がまるで投げ飛ばされた人形の様に吹っ飛ぶが、それでも繋がった手は離れる事は無かった。

 あとは、彼がなんとかしてくれる。

 その信頼は、今、『彼女の中に居る少年』へと向けられていた。


       ◆


 ――意識が戻るなり、優斗は重い衝撃を身体に受けた。

(――ぐっ!?)

「テメェ、皐月! 酒持ってこいっつってんだよ! 酢じゃねえ!」

「………ごめん、なさい」

 息が詰まる。きっと肺を潰されたのだろう。『自分の声ではない声』が、自分の身体から出た。

 そのまま自分の意思とは関係なく動く身体に、優斗は全てを任せる。

 酢と書かれた瓶を抱きしめ、台所へと走って行く。

 そこは見るに堪えない状況だった。

 食器すら洗われてなく、床にはコンビニでも買う事ができるパックご飯の残骸があり、他にも生ごみで埋まっている状況だった。

 その中に躊躇なく入って行く。そしてその中から大きなプラスチック製のボトルを見つけ、焼酎と書かれているのを確認すると、その取っ手を掴んで引き摺るように持って行った。

(……これが、この子の幼少期か)

 優斗が体験しているのは、遠山皐月という少女の幼い頃の記憶の断片。その中の《最も黒い部分》に今、こうして触れている。

 人の記憶というのは、トラウマや嫌な事はとても鮮明に覚えているものだ。それが大きな物ほど現在の自分にも影響する。

 それを取り除く。それは相手の記憶を盗むというに等しい事だが、それは本人が決める事。

 そんな《荒治療》を、優斗と空はしているのだ。

 勿論、実乃里にはこの事は話していない。それでも察しては居るのだろう。嫌な顔一つせず付き合ってくれている。

 そんな事を思い耽っていると、場面が変わった。

 知らない大人が自分……いや、遠山皐月の身体を嗚咽を漏らしながら抱きしめていた。

 そこで補足事項が頭の中へと入ってくる。

 子供の取り違いだったという。それによって実の両親の居る、一般の家庭に入る事はなく、荒んだ両親の許で彼女は産まれてから四年間、過ごしていたという。

 やがて実の両親に引き取られ、そこで今まで育てられた両親の子と一緒に過ごす様になっていた。

 それでハッピーエンド、というわけにはならなかった。

 その子供はやはり気性が父親にそっくりであり、いきなり土足で家に入って来た皐月を良くは思わなかったという。そこから義妹の攻撃が始まったようだ。

 対処すら知らない皐月に色々な手法を知っている義妹。戦う前からして義妹の勝利が確定していた。

 小学校から中学へ上がる頃。その義妹からの攻撃は日に日にエスカレートしていた。学校のクラスメイトに広めるには留まらず、義妹の居ない中学にもその悪評は広まった。

 そして偏見を持たれ、差別やいじめさえもが始まった。

 そこで、彼女の記憶は途切れている。


       ◆


「―――……っ」

 意識が空中に浮遊している感覚。それを優斗は引き戻しながら意識を覚醒させていくと、不意に目尻に涙が伝った。

「優斗……?」

「あ、……ごめん」

 ぐし、と袖で涙を拭うと、気絶した遠山の頭を撫でた。

 ――なんて、悲しい過去だろう。

 世間からしてみれば、もっと悲惨な過去を背負っている人々も居るだろう。それでも、彼女の過去は優斗にとっては充分な程に重い過去だった。

 優斗は毎度と同じ様に自己嫌悪を抱きながら、

「……多分、手加減はしたから気絶しただけだと思う。一旦、僕の家に連れて行こう」と話を変えた。

「……うん」

 優斗は空に、《彼女》の過去を言う事はしない。この《記憶》は優斗だけが保有しておくべき事だから、である。

 優斗は痛む腹部を押さえながら立ち上がり、意識を失っている遠山を抱き上げて、負ぶさりながら家へと帰る事にした。

 ……………。

 …………。

 ………。


       ◇


 整った寝息が、主の居ない書斎に、静かに響いていた。

「………空」

「言いたい事は解る。けど、それはこの娘が決める事よ」

「……………」

 優斗の考えを止めさせるように、空は言葉を遮った。

「見たんでしょ。彼女の《能力》」

 その一言に優斗は肩を震わせた。そして小さく頷く。

「どんなものかは僕も解らない。けど……普通に投げた靴が直線的に飛んできたんだ」

「……わたしも。追い付けるはずの速さだったのに、距離を縮められなかった」

「距離を?」

「うん」

「………まぁ、彼女の《能力》を考えるのはやめよう。こんな近くに《能力者》が居たとは予想外だったけど」

「その《能力者》のためだけに同好会立ち上げたのは何処の誰よ?」

「はい」

 溜息混じりの空の声に優斗は軽快な声を上げて挙手した。すると空は呆れたようにがっくりと肩を下げ、ソファへと腰かける優斗の上にちょこんと乗った。

 優斗は空が落ちない様に手を回す。

「助けたい、って気持ちはある。けど……この娘の意見も聞かずに事を進めるのは……僕としても、控えた方がいいんじゃないか、って思った」

「そうね。優斗にしてはよく考えた」

「それ、褒めてる?」

「褒めてるようで褒めてないわ」

「ひでぇ……」

 優斗は溜息を吐いてベトナムコーヒーを一口飲んだ。

「とりあえず、今は寝かせておきましょ。起きたら聞けばいい事よ」

「……そうだね。一応、升形さんに電話しておくよ」

「実乃里にも、彼女の親子関係をもう一度確認した方が良いかもしれないわね」

「あ、そういえばどうなったかな? 放ってきちゃったけど」

「大丈夫でしょ。実乃里だし」

 実乃里って信用があるのか無いのかどっちだろう。

 優斗は実乃里を冷たく突き放した空に吹き出し、一階のリビングへと戻った。



『……そうか。犯人は居なかったか』

「というか升形さん、一つ聞きたい事があったんですけど」

『ん、なんだ』

「通報者は誰なんですか?」

『……ああ。妹さんからだそうだ』

「……そうですか。有難うございます」

『とりあえず、この件はもう終わりって事でいいんだな?』

「いや、まだです」

『おいおい……調書にどう書けってんだ』

「それは僕も手伝いますから。解決したらお知らせします」

『………お前さん、刑事よか探偵寄りだぜ』

「それはどうも。……夜遅くすみませんでした。おやすみなさい」

 そういって優斗は電話を切り、一息ついた。

 先ほど実乃里から聞きだした情報と、升形から聞いた情報が見事に合致した。

 遠山紡。それは本来皐月に付くべきだった名前であり、その名は彼女の義理の妹を指す。

 親子関係は見事に紡寄りで、皐月が高校に入ってからは殆ど無視だったそうだ。

「………はぁ」

 これからどうしよう。等を考えていると、……ぎい。と階段が軋む音が鳴った。

「……空かな?」

 そう呟いてリビングを出ると、階段を下りてくる少女が一人。

 遠山皐月。その人だった。

「身体の方は大丈夫かい」

「っ!?」

 囁くように優斗がそう言うと、皐月は身を翻しながら、様になっているボクシングの構えを取った。

「大丈夫、もう投げる事なんてしないから」

 コーヒーでもどう? と、手に持ったマグカップを見せながら優斗は聞くと、その闘志の無さを感じ取ったのか、皐月は小さく頷いた。

「あーでも、夜中だし紅茶の方がいいか」

「…………それで良い」

 短く、冷ややかな声を、優斗は聞き取り、大きく頷いた。

 優斗は一足早くリビングへと入り、食器棚からマグカップを一つ取ってコーヒーを注ぐ。

「ベトナムコーヒーでね。砂糖とかじゃなくて練乳を入れるんだ」

 どうぞ、と言って優斗はテーブルの前に直立不動になっている皐月の前にマグカップと、冷蔵庫から取り出した練乳を置いた。

「…………」

「量は好みだね。入れすぎると逆に甘いから注意で」

 皐月は練乳とコーヒーをまじまじと見ると、口を一文字から小さく歪ませて練乳のキャップを取り、入れた。

「よくかき混ぜてね」

「………ん」

 ティースプーンを差し出し、それを受け取ると皐月はキャップを締めて混ぜ始める。

 そして一口。

「…………」

「どう?」

「美味しい……」

「それは良かった」

 優斗は小さく微笑み、自分のコーヒーを一口。

「……さて、遠山さん。僕としては一つ、聞きたい事があるんだよね」

「………?」

 いきなり話の線を切り替えたからか、皐月は訝しげな視線で優斗を見つめた。

「君は今の家族と、どうしたい?」

「………どうにも」

 明らかに瞳を泳がせ、コーヒーを飲む皐月。優斗はそれに溜息を吐いた。

「質問の仕方が悪かったかな。……それじゃあ、どうして貰いたい? どういう態度を取って欲しい?」

「……普通に」

 ――普通に。それを聞いた時、優斗は席を立っていた。

「それは本当に、君の本心と受け取ってもいい?」

 優斗は皐月へと問いかけると、皐月は大きく頷く。

「……そう、か」

 優斗は安心しきった様に自分の席へと座り、ぐでっとテーブルに突っ伏した。

「………今日は泊まってきな」

「え……?」

「ああ、別に襲う気はないから。命掛けるよホント。幼馴染が般若のお面持ちだから」

「般若?」と聞き返す皐月に、優斗は苦笑した。

「うん。怒ると凄く怖いって事。鬼の形相ってやつ?」

「なるほど」

 そこで合点がいったらしい。皐月が小さく頷いた。

「それで、明日僕も君の両親に会いに行く」

「………」

「策があるんだ」

 訝しげに優斗を見る皐月へとそう言うと、テーブルの下から一つのアイテムを取り出した。


       ◇


「すみませんねえ、ホント」

「いえ、泊まって行け、と言ったのは僕ですから」

 遠山宅。皐月はすでに自室へと戻り、優斗は彼女の母親から話を聞いていた。

 母親からの皐月の視点はかなり偏ったものだった。

 まず手を迫らせると逃げたり払ったりする。時々行動が理解不能等々……彼女をまるで精神障害者の様に見ていた。

 そんな中で十数年間というのは、かなりきつい物があるだろう。優斗はそう思った。

 今では姉である皐月を無視して、妹の紡だけを溺愛しているという。ただ子供の取り違いで此処まで差が出る事に優斗は戦慄さえ覚えた。

「はあ……。あの、夜中は大丈夫でしたか?」

「と、いいますと?」

「あの子、毎晩悲鳴をあげるんですよ。ご近所さんからも苦情がきててねえ……」

「……つかぬ事を伺いますが、皐月さんと妹さんのお部屋は………?」

「一緒です。一番の被害者は紡ですね。あんな子と一緒に寝てるんですもの」

「…………」

 優斗は内心で勝ちを確信した。

「なるほど、解りました。……ところで提案なのですが………」

「はい?」

「よろしければ、皐月さんを僕の家で預かる事はできませんか」

「預かるって。……貴方、まだ高校生よね? そんな事……」

「大丈夫です。お宅の娘さんの生活は保障します。妹さんもそれで苦労しているようであれば、こちらで預かるのも良いかと思いまして。来年は受験でしょう。なら尚の事です」

「ちょっ、ちょっと待って下さい。なぜそんな――」

「――奥さん。はっきり言っておきますよ」

 途端、優斗の声音は温かいものから冷たいものへと切り替わった。

「子育てには公平さが必要です。……といっても、僕はまだ子供も居ませんし。恋人も居ませんが。――それでも、目に見えるほどに公平さが保たれて居ない子育てと言うのは、僕としては許せません。たとえどんなに才能や努力の差があったとしても、彼女らは貴方のお子さんなんですよ」

 言葉を連ねて行くなり、皐月の母親は額に脂汗を滲ませ、ついに俯いてしまった。

 そこでリビングの扉が勢いよく開かれた。

 その人物は――

「……皐月」

 皐月が、唇を一文字に噛みしめ、目尻に涙を浮かべて立っていた。

 その手に握られていたのは、ボイスレコーダー。

「ユート……」

「…………。なんだい?」

 皐月はそのボイスレコーダーを思い切り握りしめると、顔を俯かせて優斗へ近寄って来る。

 そして優斗の長袖を、反対の手できつく握りしめた。

「……ありがとう」

「ん。……と、言うわけで彼女自身の許可は取れたわけですが。親御さんとしてはどうでしょう」

「……………」

 未だ俯き続ける母親を尻目に、優斗は皐月からそのボイスレコーダーを受け取り、再生する。

『ねぇ、お姉ちゃんさぁ。この調子でもう帰って来ないでくれない? アタシ、今年から忙しくなるから』

『………なんで?』

『なんで、って? ――邪魔なんだよっ! アンタはただアタシに殴られてりゃいいの! サンドバッグになってればそれでいいのよ! 疑問を持つなんて百年早いわ!』

 唐突に飛び出した皐月とは違う、別人――紡の幾多もの罵声が響き渡り、同時に殴打音が幾度となく聞き取れた。

「……それとも、これを警察に突き出して貴方達を児童虐待の容疑で訴えても良いんですよ? 別に金銭を要求する気はありませんし、今後の脅迫材料にする気は毛頭ありません。それに加えて貴方達の睡眠時間も劇的に良質なものになるでしょう。……妹さんの精神的なストレスは発散できないかもしれませんが」

 優斗はそのボイスレコーダーを大切にポケットへ仕舞い込み、眼の前で手を組んだ。

「渡す、というのは聞こえが悪いですが……『僕ら』は彼女を引き取りたいだけだ。それ以外は何も要らない」

 数分の沈黙の後、

「………お母さん」

 沈黙を破ったのは、なんと皐月だった。

「……私、この家から出て行きたい」

 そう言った直後、母親はハッとしたように顔を上げた。

「もう、耐えられないの。昨日ユートの家に泊まって良く解った。あそこはとても温かい。段ボールで寝かされる事もない。ふかふかのベッドで寝たのは凄く久しぶりだった。だから……」

「もういいわ」

 母親はうんざり、といった様子で額に手を当てた。

「出て行きたければ出て行けばいいじゃない。その代わり、もう二度と帰ってこないで。私達は紡が一番大切なの。若気の至りで貴女をあの親達から引き取ったけど、貴女は私の思ったような女の子になってくれなかった」

「……ふざけるな………」

 その突き離し方に、皐月よりも早く、優斗の勘忍の緒が切れた。それと同時に優斗はテーブルを思い切り叩いた。

「貴女は自分の子供を何だと思っている!? 自分が腹を痛めて産んだ子を失敗作扱いだと!? ふざけるな!! 貴女に子供を育てる資格はない! 貴女達みたいな親が居るから、いつまで経っても虐待という文字が世間を騒がせるんだ!!」

 優斗は怒りに肩を振るわせ、一呼吸置いてから、冷静に言葉を繋げる。

「……自分の思い通りの子供に育て上げよう。そう考える親は大勢いるでしょう。しかしそれでも、産まれてきた子供たちも貴女と同じ様に、意思を持っているんだ。それを忘れてはいけません。だからこそ人は人で居られるんです。

 たとえ自分の思い通りの子供に育ったとしても、その心の内は、どんなに近しい人間でも解りません。それが親だったとしても、自分の本音をぶつけてしまったら見放されてしまう。そんな不安と、期待というプレッシャーを感じながら子供たちは生活しているんです。それを、解ってあげてください」

「ユート……」

「お邪魔しました。…………皐月。外で待っているから、必要なものだけ持って来るんだ」

 不安げに優斗の袖を握った皐月は優斗の顔を見上げ、優斗は彼女へと優しく声をかけた。


       ◇


 帰りの電車を待つ中、人もまばらな駅のホームで、皐月は唐突に口を開いた。

「…………私」

「え?」

 皐月の荷物の入ったバッグを肩に下げた優斗は、彼女へと向き直った。

「……ちゃんと、人に見られてたんだね………」

「…………。……世の中には、色々な面で悲しみを背負った人がいる。そして、その辛さから逃げたいと、助けて欲しいと、声を上げてSOSを出している人も、大勢いる。君もその一人だった、って事さ」

 優斗はそっと彼女の背に手を回し、優しく撫でる。

「あの下駄箱の事件は、君から僕へ届いたSOSだったんだよ。きっと」

「………うん」

 皐月は小さく頷いた。

「……きっと、これからも……たくさん辛い事がある。痛い事を我慢する事は時によって大切だけど、《心の傷み》だけは、絶対に我慢しちゃいけない。それはいつか、必ず壊れてしまうものだから。身体の怪我よりも、物凄く治りが悪いものだからね」

 優斗は皐月の背中からそっと手を這わせ、軽く頭を撫でた。

「だからそんな時は、いつでも僕に相談していい。頼っていい。……今此処には居ない、空って子や、実乃里っていう僕の親友も居る。……僕らは絶対に、いつまでも君の味方だ。約束する」

「……っ」

「だからもう、現実から目を背けないで。しっかりと目を開いて、前を見るんだ」

 すっと優斗は唐突に指をさした。その先には、これから自分たちの乗る電車が向かってきていた。

「……帰ろう。僕らの家に」

 優斗はもう一度バッグを背負い直すと、その電車へと搭乗するべく黄色いラインへ向かって一歩踏み出す。

「――皐月」

 優斗は皐月へと手を伸ばした。

「………」

 皐月は躊躇した。それは掴んでも良いものなのかと。

 それを掴んでしまったら、この先に数々の不安や、辛いことがたくさんある。それと同時に、楽しい事や嬉しい事もたくさんある。

「……さあ」

 優しく微笑む優斗。皐月は勇気を振り絞って、その手を取った。

 そして、最初の一歩を……今、確かに踏みしめた。


       ◇


「それじゃあ、もう平気なんだ」

「平気、と言うにはまだ危ういけどね。それでも、今までよりかは全然良くなったよ」

 ――そろそろ桜も見慣れてきた四月。いつも通りの学校からの帰り道。優斗と空は馴染みの甘味処へ寄っていた。

 空は白玉ぜんざいを食べ、優斗はそれについてきた熱いお茶を啜る。

 優斗と空は人を待っていた。実乃里もそうだが、あと一人、大切な《新入部員》も。

「いいなぁ、妹。わたしも欲しい」

「空と僕が結婚したら空の妹になるね。義理が付くけど」

「ぶっ!?」

 空は口から小豆を吹き出し、咽てしまった。

「おいおい、大丈夫? 流石に冗談が過ぎたかな」

「ンンッ。……平気。大丈夫。問題ない」

「なんで似た様な事を三回も……」

 顔を真っ赤にした空に優斗はくっくっと笑った。

「んー、でも結婚かぁ。考えてもなかった」

「ちょっと。自分で言い出してそれはないでしょっ!?」

「だって僕ら高校生じゃん。まだ結婚できる歳じゃないし」

「わたしもう十七ですから。結婚できる年齢ですからっ」

「……大変失礼しました。お詫びに代金は僕が払います」

「よろしい」

 と、空が満足げに胸を張っていると、唐突に甘味処の入り口の鈴が鳴った。

『いらっしゃいませー』

「二人で。待ち合わせいます」と人差し指と中指を立てながら店員に笑顔を向けた実乃里は、優斗達を見つけてそそくさと店内へと入ってくる。

 そしてその後ろに続く少女も。

「いやー、疲れたぜぃ。まさか賞状貰えるとはなー」

「別に犯人逮捕したわけでもないんだけどね。升形さんが調書に何て書いたのか不安だよ」

「いいんじゃない? 貰えるものは貰っておく。お金にならなくても自分の糧になったんならそれで」

「おぅ、空が真っ当な事言ってるぜ」

「そこぉ! いつも通りっていいなさいよ!」

「お待たせ、――《お兄ちゃん》」

「ん。お疲れ様、皐月」

 皐月は微笑すると、優斗の前の椅子へと腰かけた。

 ……あれから二週間。「遠山皐月」は「庵皐月」になった。養子として引き取られた皐月は、今では町内の有名人。身なりも正した彼女は『清楚で良い娘ねぇ』とかなり好評だった。

 空の両親も深く気に入り、ようやく重荷の降りた皐月は、よく笑うようになった。

 たった二週間で此処まで変われるのは、人として凄いのではないだろうか。と優斗は思うほどに。

 御蔭で《兄》としてのハードルを高く置かれ、普段の私生活にゆとりが無くなってきたのは、また別の話だ。

 事は全て改善へ向かっている。それを優斗と空は日が経つにつれて感じ取っていた。

 そして四人分のコーラが来、優斗が立ち上がって咳払い。

「それじゃあ、先日の下駄箱事件の解決と、我が妹、皐月の入部を祝いましてー」

「「「乾杯!」」」

 かちゃん、とグラスを合わせてからコーラを飲んだ。

「はいはい、白玉ぜんざいとあんみつねー」

「ありがとうおばちゃん!」

「ありがとうございます」

 知り合いのおばちゃんが、実乃里と皐月の分を持ってきた。

 それを笑顔で受け取る二人を見て、優斗は愉悦に浸っていると、

「あ、これ全部優斗の奢りだから」

「……えっ?!」

「お、マジか!? ゴチになりまーっす!」

「ご馳走様、お兄ちゃん」

「いや、待って!? 僕、空の分は奢るけど二人の分は奢る気はないよ!?」

「じゃあ、これを聞いても言える?」

 ピッ。……『……大変失礼しました。お詫びに代金は僕が払います』『よろしい』

「え、ちょっ、いつ撮った!? ねえ、空ぁ!?」

「女性に年齢の話をするのはタブーよ優斗」

「くそぅ……。あっ、でも部費から――」

「下りるわけねーだろ」「下りるわけないよ」

「逃げ道封じられたぁぁぁぁ」

 おしまいだー、と嘆く優斗。そこで優斗の携帯電話が鳴った。

「誰よ。こんな時に空気の読めない奴ね」

「ん、ちょっと待って」

 そういってブーイングする三人を制して優斗は電話を出る。

「はい。……はい。………解りました。すぐに向かいます」

 優斗は電話を切るなり、背もたれに掛けてあった上着を持った。

「――駅前で窃盗事件だ。行こう」

「解ったわ」

「うん」

「えっ、ちょっとお前ら待とうぜっ? あたしまだ二口しか食べてな――おーいっ!」

 あんみつの器を持って呆然と立ち尽くす実乃里。それを尻目に優斗は会計の所に三千円を叩きつけて、上着を翻しながら外へと駆けだした。




ありがとうございました。

初めての投稿となります、黒崎明夜(クロサキアケヤ)と申します。

同じく、初めてミステリ小説を手がけさせていただきました。いかがでしたでしょうか。

○○が足りていないなど、アドバイスも募集しています。これからも『君の居る街、僕らの街』をよろしくお願いします。

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