三メートルの世界 <2>(から地下一メートル)
『「あなたは臆病者と思われてるのよ」
「そうではないが、勇気を見せびらかす必要もないだろう」』
【大いなる西部】より
今日は仕事が全然捗らない。寝不足の頭をスッキリさせるために、私は給湯室へと向かい、自分のマグカップを棚から取り出し、お気に入りのドリップ珈琲をセットし、お湯を落とす。
「わぁ~良い香りだね」
デザイン課の河瀬夏美さんが、入ってきて綺麗に揃ったボブの髪を揺らしてニッコリ私に笑いかける。着物が似合いそうな楚々とした美しさをもった彼女は、我が社には珍しい上品なお嬢様タイプの女性。その為、男性社員にとって憧れの存在にもなっていて、高嶺の花な空気を漂わせている。私の名前はむしろ彼女の方が似合いそうである。私と違って社内で彼女の苗字や名前は『ちゃん』づけで言われることもなく、みな敬意をこめて『さん』と呼ぶ。
「でしょ! なんと今日はコメダのドリップ珈琲なの! 河瀬さんもいる?」
私は冷凍庫から、もう一パックドリップ珈琲を出して渡すと、河瀬さんはフフっと笑いながら嬉しそうに受け取る。
彼女と私は、月とスッポン(この場合、私がスッポン)、百合と道ばたのクローバー(この場合、私がクローバー)くらいタイプの違う二人だけど共通点がいくつかある。
一つは、同期であるということ。ウチの会社において数少ない社内恋愛未経験者であること。そしてもう一つは――。
イソイソと、自分のマグカップを出している河瀬さんの背中に、私はコッソリ声をかける。
「あのさ、神保町に素敵な喫茶店見付けたんだ! 飲みに行かない?」
河瀬さんは振り返り、私の顔をハッとしたように見返す。そして真剣な表情で一回頷く。
「じゃあ、今週中に時間作るね」
小さい声で、そっと返してくる。
本当に素敵な喫茶店を見付けたわけではない、これが二人の秘密の合図の一つ。
二日後、細い下り階段の先にある『隠れ家』という名の喫茶店に私はいた。洞窟を思わせるボコボコした壁で埋め込みの棚に、お宝ちっくに小物が飾られるという感じの内装のお店。一つ一つのテーブルがそんな壁に囲まれるように区切られていて、本当に隠れ家っぽい。その壁に囲まれた感じがなんとも落ち着く喫茶店で結構気に入っている。私は埋め込みの棚に物々しく置かれている、アンティークな古書の背表紙の革の凹凸をシゲシゲ眺めていた。
ドアが開く音がして、息を切らせた河瀬さんが私のいるテーブルにやってくる。
「ごめん 百合ちゃん、待たせた?」
「いやいや、夏美ちゃん忙しいのにゴメンね」
オカシイことに、私たちは社内では苗字で呼び合い、プライベートでは名前で呼び合っている。私達、実は会社の人には内緒の秘めた友情関係を築いている。深い意味はないけど、そうする事を楽しんでいた。
「ううん! 原稿が遅れてしまったから、仕事が色々ズレて、逆に今日は丁度良い感じではあったの。でも細かい事が手間取ってしまって」
夏美ちゃんは、そういって困った顔をした。だいたい原稿が遅くなっても、仕事のお尻は変わらないために受けて作業する方は大変になる。今週末の彼女の仕事がそれだけ大変になるという意味になる。
「そうか~それはキツイね~」
「そんな事はどうでもいいのよ、それより、大丈夫? 何かあったの?」
自分の飲み物が運ばれてきたタイミングで、夏美ちゃんは、優しい声で聞いてくる。
その優しい声に、ついホロっときそうになったけど、私は努めて明るい顔をした。
「日曜日にね……無事、恋愛に終止符が打てました」
彼女は、息を一瞬止め私の顔をまじまじとみて、そして静かに息を吐く。
「そっか……。よかったね、おめでとう! 百合ちゃんはこれで、前進めるわね」
夏美ちゃんの全てを知った上で語る慈愛に満ちた言葉と表情に、私は思わずこらえていた涙を流してしまった。この三年間、星野秀明との微妙な関係、会社に勤めてあったいろんな事、正直言うと仕事でも泣きたい事も結構あった。でもそういった事で泣く事が出来たのは彼女の前だけだった。彼女も会社で辛そうな顔したのを見た事なかったけど、私とこのように外で話しているときだけ愚痴をもらしたり、涙を流したりしてきた。
私は、多分世間でも家でも脳天気で、悩みもあまりなくいつもヘラヘラしている人間だと思われていると思う。彼女がのんびりと上品でいつもニコニコして何でも苦なくこなしているように思われているのと同じように。
相手に対してすごくムカつきを感じていても、ショックをうける言葉をうけても、大概の事は笑顔で返せる自信が私にはある。それが頑固で横暴な父と過干渉な母、キツイ兄姉の中で生きてきた私の処世術。末っ子が甘えん坊だというが、それは優しい家族に囲まれての事。我が家のように愛情はあるもののその愛情が激しくキツイ家族に育つと、このようにヘラっとして笑顔を盾にした冷めた人間に育つものである。
社会人初年度の社内旅行の日、たまたま同室になった彼女が宴会でお酒を飲まされて潰れてしまった。同室だということもあり介抱していたとき、いきなり泣き始める彼女。同じように切ない恋をしていて、同じように社会にて不安を抱いているのを私は知る事になる。二人で互いを抱きしめ合って泣いた日から、私達は互いの前だけは全てをさらけ出せる関係になっていた。
二人とも変に意地っ張りで、他人に弱さを見せられないタイプ。会社ではノホホンと二人でどうでも良い、端からみたら浮世離れした平和な話をして笑っている二人に見えるのだろう。
「会いに行ったの? 星野さんに」
やさしく促すように聞いてくる、私は首をふる。夏美ちゃんに、私は日曜日にあった電話でのやりとりを説明する。
「芳光さんとちがって、星野さんは思いやりがいつもあるよね。ブログのコメントもそうだけどさ、本当に最後まで優しいよね」
芳光さんとは、彼女が好きで追いかけている男性の事で、夏美ちゃんに愛されているのを良いことに、都合よく利用しているような感じ。彼女自身もそれを分かっているけれど、好きだから止められないという状況である。
その名を口にする時の夏美ちゃんの、悲しそうな顔に私も切なくなる。そんな私の顔をみて、彼女はフッと優しく笑う。
「私も、百合ちゃん見習って、前に進まないとね! 一緒に幸せつかみましょう!」
「だね!」
私達は文字通り手を握り合って見つめ合い笑い合う。ドラマでしかみないような光景だけど彼女とはなんか、そういうことを平気で出来てしまう。そんな友達なのである。
そう、私は一人じゃない、こうやって一緒に頑張れる友達がいる。だから笑えるし、頑張れるし、前に進める。私は大丈夫だ!
※ ※ ※
その次の週、私は美容院に行く、
「どうされますか? 今日は」
という美容師さんの言葉に少し悩む。星野秀明への愛を完全に諦めた段階でも、過去に一回バッサリ髪を切っている。娘はロングヘアーであるべきと思っていた両親がそのときショートにした私を観て大騒ぎした事を、懐かしく思い出す。なら今回はどうするべきなのだろうか?
鏡の中でこの一年でミディアムショートと言えるくらいの長さになった私も同じように悩んでいる。
「ちょっと、気分変えたくて」
私のつぶやくような言葉に、美容師さんはニコリと笑う
「秋ですものね~なら髪の色少し明るめにして、チョットパーマあててフワっとさせてみるのもいいのではないですか? 女の子らしく可愛くなりますよ!」
「ん……じゃ! それで」
「お客様カラーとパーマ承りました~」
元気な美容師さんの声がお店に響く。
西部劇って古くさいそうに感じるかもしれませんが、なかなかそこにはロマンの世界が広がっています。
草食系男子がもてはやされる今、逆にこういった男臭い世界を楽しむのもいいかもしれませんね!