私より妹を選んだのですから、どうぞ最後まで責任を取ってください
「君との婚約を破棄して、妹君と結婚したいと思っている」
伯爵令嬢エレオノーラ・ヴァレンシュタインは、婚約者であるオスカー・フォン・リヒテンベルクの言葉を聞いて、静かに紅茶を置いた。五年間にわたって婚約関係にあった彼が、妹のセシリアに心を奪われていることには以前から気づいていた。最近では、茶会の席でも妹の話題ばかりを口にするようになっていたからである。
オスカーは二十四歳になる侯爵家の嫡男で、エレオノーラより三歳年上だった。これまで二人の関係は良好で、彼女も穏やかな結婚生活を思い描いていた。もっとも、相手の気持ちが離れているのであれば、無理に引き止めるつもりはなかった。
「……妹と、ですか?」
「ああ。セシリアは素晴らしい女性だ。あれほど美しく、純粋で、愛らしい令嬢には出会ったことがない」
「そうですか」
「君には申し訳ないと思っている。だが、愛のない結婚をすることは、互いにとって不幸だろう?」
「そうですね。それでは、婚約破棄の手続きを進めましょう」
あまりにもあっさりした返答に、オスカーは拍子抜けした様子だった。エレオノーラはそんな彼を見ながら、一つだけ確認しておきたいことがあると思った。妹の本当の性格を知らずに結婚するのであれば、彼は相当な苦労をすることになるだろう。
エレオノーラは、婚約者であるオスカーとの日々にすっかり疲れ果てていた。五年間の婚約生活において、彼女は常に彼の立場を尊重し、将来の侯爵夫人として恥ずかしくない振る舞いを心がけてきた。ところが、妹のセシリアが社交界にデビューしてからというもの、オスカーの関心は次第に妹へと移っていった。月に一度の茶会ではセシリアの話題ばかりが持ち上がり、彼女の美しさや愛らしさを褒める言葉を何度も聞かされた。時には、姉なのだから妹のように華やかな装いをしてみてはどうかと勧められたことさえあった。それでもエレオノーラは婚約者としての務めを果たそうと努力してきたが、自分の気持ちを顧みることのない彼に、いつしか期待することさえなくなっていた。
「オスカー様は、セシリアのことをどれほどご存じなのですか?」
「何を言っているんだ。彼女とは何度も会っている。優しくて、少し寂しがり屋で、誰よりも愛情深い女性だ。僕が必ず幸せにする」
「そうですか。それなら安心いたしました」
エレオノーラは静かに微笑んだ。彼がそこまで言うのであれば、これ以上口を挟む必要はないだろう。今さら妹の問題行動を説明したところで、嫉妬した姉が悪口を言っていると受け取られる可能性もあった。
何より、彼女はもう疲れていた。幼い頃から妹の問題を解決し、周囲との関係を取り持ち、家族が困らないように振る舞ってきた。今回の婚約破棄は、エレオノーラにとって思いがけない形で訪れた解放でもあった。
◇
セシリア・ヴァレンシュタインは、誰もが認める美しい令嬢だった。今年十八歳になる彼女は、腰まで届く柔らかな金髪と、澄んだ青い瞳を持っている。その美貌は社交界でも評判だったが、性格には大きな問題があった。
セシリアは幼い頃から、自分の望みが叶わないという状況を理解できない少女だった。欲しいものが手に入らなければ泣き叫び、気に入らないことがあれば使用人に物を投げつける。両親はそんな娘を叱ることもあったが、結局は涙に負けて要求を受け入れてしまうことが多かった。
十六歳のときには、父親の許可も得ずに金貨三百枚もする首飾りを購入した。父親が叱責すると、セシリアは涙を浮かべて反論した。
「だって、お父様は私が幸せになることを望んでいるのでしょう?あの首飾りがあれば幸せになれるのに、どうして買ってはいけないの?」
結局、父親は代金を支払い、エレオノーラが宝石商に事情を説明することになった。妹が引き起こした問題の後始末は、いつも姉の役割だった。使用人への謝罪、壊した品物の弁償、怒らせた友人の家族への手紙。エレオノーラが問題を大きくしないよう対処してきたため、セシリアの本性を知る者は少なかった。
また、セシリアは極端に嫉妬深かった。気に入っている男性が別の女性と会話するだけで不機嫌になり、相手を問い詰める。自分への返事が遅れれば、誰と何をしていたのかを詳しく聞き出そうとした。
「だって、愛しているんだもの。好きな人が私だけを見てくれないなんて、おかしいでしょう?」
セシリアにとって愛情とは、相手の時間も財産も関心も、すべて自分に向けられることを意味していた。エレオノーラは何度も妹を諭したが、彼女が姉の言葉を聞くことはなかった。
やがてエレオノーラは、妹の性格を変えようとすることを諦めた。成人した妹の行動に、いつまでも責任を負う必要はない。そう考えるようになっていたところへ、今回の婚約破棄が持ち上がったのである。
◇
婚約破棄が正式に成立すると、セシリアは屋敷中を駆け回って喜んだ。姉の部屋へ飛び込んできた妹は、オスカーから贈られたという宝石の指輪を嬉しそうに見せびらかした。
「お姉様!オスカー様が私と結婚してくださるんですって!」
「ええ、聞いているわ。おめでとう、セシリア」
「ありがとう!オスカー様ったら、本当に素敵なの。私が欲しいと言ったものは何でも買ってくださるのよ!」
「そう。それはよかったわね」
「ところで、お姉様。私が結婚したら、一緒に来てくださる?」
「……どうして?」
「だって、お買い物のお金を計算してくれる人も必要だし、お客様へのお手紙だって書いてもらわないと」
「それはできないわ。これからはオスカー様と相談して決めなさい」
セシリアは不満そうに唇を尖らせたが、すぐに指輪を眺めて機嫌を直した。エレオノーラはそんな妹を見ながら、自分が長年背負ってきた役割が終わろうとしていることを実感していた。
三か月後、セシリアとオスカーは盛大な結婚式を挙げた。エレオノーラは式への出席を辞退し、伯爵家の領地で静かに過ごした。こうして、五年間にわたる婚約関係は完全に終わりを迎えたのである。
◇
結婚式から一週間が過ぎた頃、オスカーは初めて妻の金銭感覚に疑問を抱いた。侯爵家の執務室に、王都の宝石商から金貨五百枚もの請求書が届いたのである。
「セシリア、この請求書は何だい?」
「ああ、それ?新しい首飾りを買ったの」
「結婚祝いにいくつも宝石を贈っただろう?」
「でも、あれは結婚祝いでしょう?これは普段のお出かけ用よ」
「普段のお出かけに金貨五百枚の首飾りが必要なのか?」
「必要に決まっているじゃない!私、侯爵夫人になったのよ?」
セシリアは当然のように言い切った。オスカーは困惑したものの、新婚早々に妻を泣かせるのもよくないと考え、支払いを認めた。ところが、翌週には新しいドレスが十二着届き、その翌週には外国製の家具が運び込まれた。妻の浪費は収まるどころか、ますます激しくなっていった。
さらに、セシリアは夫が仕事に出かけることさえ嫌がった。領地から来た代官との面会にも同行し、退屈だという理由で帳簿を勝手に閉じてしまった。オスカーが注意すると、彼女は激しく泣き出した。
「酷い!私よりお仕事の方が大切なのね!」
「そういう話ではないんだ。侯爵家を維持するためには、仕事をしなければならない」
「私を愛しているなら、私と一緒にいてくれるはずでしょう!」
その晩、セシリアは寝室に鍵をかけ、オスカーが謝罪するまで扉を開けなかった。彼は一時間以上も説得を続け、最後には翌日の仕事を休むと約束させられた。翌朝、妻は何事もなかったように笑顔で朝食を取り、新しい宝石の話を始めた。
結婚から三か月が過ぎた頃には、使用人たちも次々と辞職するようになった。セシリアは些細な失敗で侍女を叱責し、気に入らなければ物を投げつけた。長年勤めていた家政婦長まで屋敷を去り、侯爵家の運営にも支障が出始めていた。
オスカーはようやく、妻の問題が一時的な我儘ではないことを理解した。彼女は自分の要求が通らないことを許せず、相手の事情を考えようともしない。結婚前には愛らしく思えた振る舞いが、今では毎日の生活を苦しめる原因になっていた。
◇
結婚から半年後、リヒテンベルク侯爵家の財政は深刻な問題を抱えていた。セシリアは夫から買い物を制限されると、今度は侯爵家の名義で勝手に商品を注文するようになった。さらに夜会では、オスカーが挨拶を交わした令嬢に嫉妬し、相手のドレスへ葡萄酒を浴びせる事件まで起こした。
ついにオスカーの父親であるリヒテンベルク侯爵が、息子夫婦を厳しく叱責した。侯爵家の評判は傷つき、財政にも無視できない損失が生じていたのである。
「お前は一体、何を考えている!」
「父上、私も何度も話し合おうとしました。ですが、セシリアは……」
「言い訳は聞きたくない。お前が望んだ結婚だ。責任を持って家庭を治めろ!」
オスカーは反論できなかった。エレオノーラとの婚約を破棄し、セシリアとの結婚を強く望んだのは自分自身だったからである。侯爵は息子から家計の管理権を取り上げ、妻の高額な買い物を禁止した。オスカー自身も後継者としての評価を大きく落とした。
その夜、オスカーは久しぶりに一人で夕食を取った。静かな食堂で食事を口に運びながら、ふとエレオノーラのことを思い出した。彼女と過ごした茶会では、こんな騒ぎが起こることはなかった。互いの話に耳を傾け、穏やかに時間が過ぎていった。
彼はその静けさを退屈だと思っていた。セシリアの華やかさと比べれば、エレオノーラは控えめで、感情表現も少なかった。けれど、今になってようやく理解した。エレオノーラが穏やかだったのは、相手の立場を尊重し、自分の感情を適切に扱うことができる女性だったからだ。
◇
一方、エレオノーラは伯爵家の領地で穏やかな日々を送っていた。婚約破棄を機に、以前から興味を持っていた教育事業に携わるようになり、学校の運営や教材の整備を手伝っていた。婚約者のために予定を空ける必要もなく、妹の問題行動に振り回されることもない生活は、想像していた以上に心地よかった。
両親からは何度かセシリアの結婚生活について相談を受けたが、エレオノーラは関与を断った。これまで長年にわたって妹の後始末をしてきたものの、今後も同じ役割を引き受けるつもりはなかったのである。
そんなある日の午後、エレオノーラのもとへ思いがけない訪問者がやって来た。執事から名前を告げられた彼女は少し驚いたものの、応接室へ案内するよう命じた。
「エレオノーラ……久しぶりだね」
現れたオスカーは、以前とは別人のようだった。整えられていた栗色の髪は乱れ、目の下には濃い隈ができている。仕立てのよい上着を身につけているものの、その身体は以前より痩せて見えた。
「お久しぶりです、オスカー様。本日はどのようなご用件でしょうか」
「実は、君に相談したいことがあって……セシリアのことなんだ」
「妹が何か?」
「彼女は毎日のように高価なものを欲しがる。仕事へ行こうとすれば引き止められ、使用人たちとも衝突してばかりだ。何度注意しても聞いてくれないんだ」
オスカーは疲れ切った様子で事情を説明した。妻の機嫌を損ねないように振る舞うだけで疲れ果て、仕事にも集中できなくなっているらしい。彼はしばらく俯いていたが、やがて縋るような目でエレオノーラを見つめた。
「君なら、どうすればいいと思う?」
「私にお尋ねになるのですか?」
「君はセシリアの姉だろう。昔から彼女のことをよく知っている。どうすれば彼女を落ち着かせられるのか、教えてほしいんだ」
「妹の欲しいものをすべて与えず、必要なときには毅然と断ることでしょうか」
「それは何度も試したんだ!だが、彼女は泣くし、怒るし、物を壊す!僕が折れるまで何時間でも騒ぎ続けるんだ!」
オスカーは思わず声を荒らげた。エレオノーラはそんな彼を静かに見つめていた。妹の性格を変える方法があるのなら、自分も長年苦労することはなかっただろう。
「君はどうしていたんだ?昔は、セシリアがこんな問題を起こしているなんて聞いたこともなかった」
「私が後始末をしていたからです」
「……え?」
「妹が怒らせた方々には私が謝罪し、勝手に注文した品物は返品の交渉をしました。使用人たちが辞めないよう事情を説明し、妹が壊したものの弁償も手配していました」
「そんなことを……ずっと?」
「ええ。ですが、もうやめました」
エレオノーラは紅茶を一口飲み、静かにカップを置いた。これまで自分がしてきたことを誇るつもりはなかったし、オスカーに感謝してほしいとも思っていなかった。彼女にとって重要なのは、今後も同じ役割を引き受けるつもりがないということだった。
「私はセシリアの母親ではありませんし、ましてや夫でもありません。成人した妹の行動に、いつまでも責任を負うつもりはないのです」
「だが、君は彼女の姉だろう!」
「はい。姉です。それが何か?」
「……頼む。せめて一度だけでも、セシリアと話してくれないか」
「お断りいたします」
オスカーは絶句した。エレオノーラは、半年前の会話を思い出していた。彼は妹の美貌と愛らしさを褒め称え、自分が必ず幸せにすると約束していた。その言葉を信じて婚約破棄を受け入れた以上、今さら彼の判断に口を出すつもりはなかった。
「オスカー様は、妹をよくご存じだとおっしゃっていましたよね?」
「それは……」
「私は婚約破棄を受け入れました。お二人の結婚にも反対しておりません。ですから、今さら私に妹の世話を頼まれても困ります」
「……僕は、間違っていたのかもしれない。君と結婚していれば、こんなことにはならなかった」
オスカーは両手で顔を覆った。彼はようやく、自分がどれほど浅はかな判断をしたのかを理解していた。エレオノーラとの婚約生活では、彼女が問題を起こすことなど一度もなかった。だからこそ、その穏やかさが当たり前だと思い込んでいたのである。
「エレオノーラ。もし、もう一度やり直せるのなら……」
「オスカー様。私たちの婚約は、すでに終わっています」
「分かっている。だが……」
「そして、貴方はセシリアと結婚なさったのです」
エレオノーラは、かつて婚約者だった男性をまっすぐに見つめた。彼が妹との結婚生活に苦しんでいることは理解できたが、それは自分が解決すべき問題ではなかった。オスカーには、夫として向き合わなければならない現実があるのだ。
「私より妹を選んだのですから、どうぞ最後まで責任を取ってください」
オスカーは何も言えなかった。その言葉は、怒鳴り声でもなければ、恨みを込めた非難でもなかった。エレオノーラはただ、当然のことを告げているだけだった。だからこそ、オスカーには何も反論できなかった。
◇
その後も、セシリアとオスカーの結婚生活は続いた。リヒテンベルク侯爵は息子夫婦の生活費を厳しく制限し、セシリアが自由に使える金額も定めたという。当然ながらセシリアは激しく反発したが、侯爵は決定を覆さなかった。
オスカーは父親から任されていた仕事の大半を取り上げられ、領地経営を一から学び直すよう命じられた。妻との関係も冷え切っていたが、セシリアは侯爵夫人という地位を手放したくないため、離婚を望んでいなかった。オスカーも自ら望んだ結婚を簡単に解消することはできず、妻との生活を続けることになった。
一方、エレオノーラは教育事業に取り組みながら、穏やかな日々を過ごしていた。妹から助けを求める手紙が届くこともあったが、彼女は夫婦で話し合うよう返事をするだけだった。自分の人生を、これ以上妹の問題に費やすつもりはなかったのである。
その頃、遠く離れたリヒテンベルク侯爵家では、セシリアが新しい宝石を買ってもらえないことに腹を立て、夫に向かって声を荒らげていた。オスカーは疲れ切った表情で妻を見つめながら、かつてエレオノーラに告げた言葉を思い出していた。
『僕が必ず幸せにする』
あのときは、本気でそう思っていた。美しい妻と結婚すれば、幸せになれると信じていたのである。けれど、結婚生活に必要なのは美貌だけではなかった。互いの立場を尊重し、問題が起これば話し合い、責任を分かち合うことが必要だったのだ。
「オスカー様!聞いているの!?」
妻の怒鳴り声に、彼は重い溜息をついた。かつて誰よりも美しいと思ったその顔は、今日も変わらず美しかった。けれど、今の彼には、その美貌を愛おしいと思う余裕さえ残されていなかった。
自分が選んだ結婚なのだから、誰かに代わってもらうことなどできない。エレオノーラに助けを求めたところで、彼女が戻ってくることもなければ、セシリアの問題が解決することもないのだ。オスカーはもう一度だけ深く息を吐き、終わる気配のない妻の要求に耳を傾けるのだった。




