病弱な幼馴染なんていない
『親愛なるナタリー・オルコット嬢へ。直前で済まないが、幼馴染が急に熱を出したため、本日の夜会はエスコートできなくなった。また連絡する。ヴィンセントより』
優美な筆致の、手紙というより走り書きのような紙片を読み上げて、わたしはふうと溜め息をついた。
「またドタキャンですわね、セバス」
「またドタキャンですね、姉さん」
メイドのセレナと従僕のセバスが、紙片を覗き込みながら煽りを入れてくる。
「いちいち言わなくても分かってるわよ」
イラっときたわたしは、思わず紙片を握りつぶしてしまった。
わたしが慌てて紙片を手のひらで伸ばすのを見て、双児たちは目を見合わせた。
「立ち居振る舞いも麗しく、まるで生まれながらの貴族のようなお嬢様が」
「優美にして可憐、そして豪胆なお嬢様が」
少し皺っぽくなってしまったヴィンセント様からの手紙を、薔薇の箔押しのされた文箱にそっと滑り込ませる。
積み重ねられた手紙を見て、ふたりは呆れたようにため息をついた。
「そんな非の打ち所がない僕たちのお嬢様が」
「まさか、こんなに男を見る目がないなんて」
「ちょっとあんたたち、仮にも主家のご令嬢に対する敬意はないの?」
このメイドと従僕がこんなにも不敬なのには理由がある。
ついこの間までわたしは庶民で、同じ長屋の双児たちとは猫の仔みたいにまとめて育った。
いわゆる幼馴染というやつだ。
山師だった父が一山当て、破綻寸前の男爵領を金で買ったのだ。
そこでふたりとは縁が切れるかと思いきや、どうせ働くなら気安いところがいいと、気付けば我が家の使用人におさまっていた。
「最初のドタキャンのときはショコラーデだったよね、姉さん」
とん。
セバスがなにやら茶色い紙袋を持ち出した。
「ええ、2時間待ちの限定品だったわ、セバス」
セレナは思い出したようにうっとり頷いた。
「その次のドタキャンは、髪飾り」
「そうね、センスは悪くないですが、庶民でも買える屋台の品ですわ」
言うとセレナがわたしの髪にちらりと目をやった。
「——そしてこちらが、今回の詫びの品でございます」
セバスが恭しく紙袋から取り出したのは——
「……オレンジね」
「オレンジですわ」
オレンジだった。
「仮にも男爵家のご令嬢への贈り物が、紙袋に入ったオレンジって」
「舐められていますわ。もしくは、鴨られていますわ」
「え、でも見てよ、このオレンジ。傷ひとつないよ、形もまんまるで。ヴィンセント様はよほどの目利きに違いないわ」
皮はよく干してサシェにでも入れようか。
わたしはつやつやしたオレンジに顔を寄せて、甘やかな香りを吸い込んだ。
「……お嬢様のお相手は八百屋でしたっけ、姉さん」
「たしか貴族のご令息だった気がしますわ、セバス」
「いいじゃないの、だって」
わたしがヴィンセント様と出会ったのは、ふた月ほど前のこと。
新興貴族として顔つなぎのために出席した夜会にいたのが、ヴィンセント・フォン・ヒルシュヴァルト様。
気分転換にと出た中庭に彼がいたのだ。
目を輝かせて草花について語る彼の姿に、わたしはひと目で恋に落ちた。
「——だって、顔がいいんだもの‼」
お月さまを煮溶かしたような金髪。夜露を集めたような瞳。気取っていないのに優美なしぐさは、動く端から花が咲くようで。
無垢な笑顔は透き通るようで、宗教画から抜け出した天使かと思うほど。
そんな彼といま、ちょっといい感じになってきているのだ。
お近づきになりたい。あわよくば恋人になりたい。
恋する乙女は狩人なのだ。
「聞きまして? セバス。最近王都では、結婚詐欺というものが流行っているんですって」
「聞きましたよ、姉さん。顔のいい男が裕福な家の子女を誘惑して、金品をだまし取るとか」
「うるさいわよ、双児共。あんな浮世離れした天使みたいな詐欺師がいるもんですか」
そもそもあの夜会に招かれていたってことは、それなりの家格である証。
もちろんそのあと古書店で貴族名鑑を立ち読みして、ヒルシュヴァルト家が伯爵家であることも確認済みだ。
とはいえ、会えないのではふたりの仲もいかんとも進展しがたい。
わたしは次の逢瀬に向けて策を巡らせた。
***
「先日は申し訳ないことをしたね、オルコット嬢。妹のローズが急に熱を出してしまって」
果たして今度こそ約束は守られ、ヴィンセント様は昼下がりの陽光を浴びながら、わたしの前で微笑んでいた。
オルコット家のサンルームだ。
「妹? たしか、幼馴染とお伺いしたような」
「……ああ、兄弟のように育ったんだ」
明るい日差しの下でヴィンセント様の金髪は甘やかに艶めき、蜜蜂が誘われてきそうなほどだ。
瞳はちょうど、今日の青空をくりぬいたかのよう。
「ああ、そうそう。これを君に」
あまりの美しさにわたしが嘆息していると、ヴィンセント様は懐からなにやら取り出した。
「これを、わたしに……?」
可愛らしい小箱に、胸が高鳴る。
ヴィンセント様に促されて、わたしはそっと蓋を開けた。
「…………オレンジの、皮」
背後からゴフ、と笑いを噛み殺す音が聞こえた。
「そう、君からの手紙で、オレンジの香りを気に入ってくれたようだったから」
ヴィンセント様は混じりっけなしの純粋な笑顔を輝かせた。
「よかったら、食べてみてくれないか」
「え……食べるんですの、これ」
オレンジの皮を?
言われてみれば、確かに糖衣かなにかを纏っていて、菓子のように見えなくもない。
「失礼、お毒見を」
さっき変な音を立てていたメイドがさっと進み出て、ひと切れ摘むと口に放り込んだ。
「……これは」
セレナがもうひと切れつまんで口に運んだ。
「ちょっと、毒見に2口目は要らないでしょう?!」
「念のためです、念のため」
慌ててわたしもひとつ食べると、口のなかに爽やかな香りが広がった。
「……おいしい」
まわりには砂糖がまぶされていて、しゃりっとした食感の奥に、舌の根がキュンとするような酸っぱさがあって、ついついまた手が伸びる。
「そうだろう? 手間を惜しまず何度も茹でこぼすのがコツでね。砂糖もたくさん使うから料理人に怒られて、夜中にこっそり……」
ヴィンセント様は嬉しそうに、前のめりになって頷いた。
「え、まさか、ヴィンセント様の手作りですの?!」
「失礼」
言うが早いか、後ろから伸びた手がまたひと切れ攫っていく。
「あっ、セバスまで。毒見は何人もいらないのよ、もう!」
そんな無礼な使用人の振る舞いを、ヴィンセント様は目を丸くして見ていた。
「……君たちは、随分仲がいいんだね」
わたしは咳払いでふたりを少し下がらせると、取り繕った令嬢に戻った。
「躾のなっていない使用人でお恥ずかしいですわ。実は、子供の頃から幼馴染のように育ちまして」
「幼馴染……」
ヴィンセント様は、ぱち、ぱち、と丸い目で瞬きをしてから、
「それは、いいね」
と、眩しげに微笑んだ。
***
ひととおりお茶を楽しんだあと庭の散策に誘うと、ヴィンセント様はとても喜んだ。
「とても個性的な庭だね。男爵のご趣味かい?」
葉っぱをめくって裏側を透かし見たり、匂いを嗅いでみたり、明らかに浮かれているのがわかる。
「いえ、実はまだ買ったばかりで、庭には手を入れられていないんですの」
「そうなのか。ほら、この花なんかここいらでは見かけないが、実は根が絶品なんだ。前の家主は余程の食いしん坊だったに違いないよ」
ヴィンセント様の植物に関する知識は確かなようで、あれは食べられる草、あれは薬になる実と楽しげに説明していく。
まったく、どちらが庭の主かわからないほどだ。
触れると痒くなる樹については、札を立てておくようセバスに指示まで出していた。
「せっかくの面白い庭だ。よければ、果樹に詳しい庭師を紹介しよう」
などと申し出てくれたりもして、伝手の少ない新興貴族としては有難い。
「是非お願い致しますわ。できれば、造作についてもヴィンセント様にご助言いただければ嬉しいのですけれど」
というわたしのお願いもふたつ返事で請け負ってくれた。
そして、ヴィンセント様がとりわけ興味を示した紫色の小さな実をお土産に包むと、次に会うときにジャムにしてきてくれると約束して帰っていったのだった。
「……どうよ、詐欺師なんかじゃなかったでしょう?」
淑女らしくヴィンセント様を見送ってから、わたしは双児に胸を逸らした。
「庭師でしたね、姉さん」
「ええ、庭師だったわ、セバス」
セレナとセバスは頷き合って声をそろえた。
「少なくとも、貴族のご令息ではありませんでした」
「もう! 多彩な才能をお持ちなのよ!」
憤るわたしをよそに、セレナは庭をぐるりと見まわした。
「それにしても、この庭が食材の宝庫だったとは驚きですわ」
「前男爵はだいぶ食い詰めていたと聞きましたし、実際に食べていたのかもしれませんよ」
目を輝かせるセレナにわたしは釘を刺した。
「だめよ、セレナ。ヴィンセント様に言われたでしょう。食べるときは一緒にって」
ここには少ないとはいえ、かぶれるような植物もある。素人判断で口にしてはいけないと、きっちり約束させられた。
とにかく、攻略の糸口は見えた。
浮世離れした森の精霊、捕まえてやろうじゃないの。
恋する乙女は狩人なのだ。
***
「来ませんね、お嬢様」
「来ませんわね、お嬢様」
ヴィンセント様を引っ張り出すには、植物のある場所に行けばいい。
コツをつかんだおかげでドタキャンも減り、わたしたちは順調に距離を縮めていた。
ヴィンセント様は庭づくりにも積極的で、先日も花の種を持ってきてくれた。
海外交易から帰港したロックフィール商会の商船が持ち帰ったばかりの、かなり珍しい品らしい。
外国の植生やスパイス文化などについて、サファイアの瞳を輝かせて語っていた。
これはもう交際していると言っても過言ではないのではなかろうか。
相変わらず夜会や観劇の前には幼馴染が熱を出すが。
「そんなこと言って、来てないじゃないですか、実際」
「縮まっていませんわね、距離」
わたしは今、現地集合のパブリックパークの前で待ちぼうけを食っている。
「ちょっと遅れてるだけじゃない。出がけにお腹が痛くなったとか、靴ひもが切れたとかで」
乗ってきた馬車を返してしまったので、立っているしかできないのも所在ない。セレナがわたしに日傘を差しかけてくる。
「人目につくとまずい理由でもあるんじゃないですか、詐欺師とか」
「成金貴族と一緒にいるのを見られたくないですとか」
辻馬車を捕まえて帰ろうとするセバスと押し問答をしていると、ヴィンセント様が小走りに駆け寄ってきた。
「オルコット嬢! お待たせして申し訳ない、来る途中に少々あって」
「いいのですわ。ローザ様にまた何かあったのかと、心配しておりましたの」
「ああ、いや。ローザではないんだ。実は……」
目の前に立ったヴィンセント様の姿を見たわたしはつい、きゃっと叫んで話を遮ってしまった。
「ヴィンセント様……クラヴァットはどうなさいましたの?」
クラヴァットがないせいで、シャツの胸元がはだけている。
わたしは慎ましく手で顔を覆うふりをしながら、シルクのシャツから覗く鎖骨をしっかりと堪能した。
庭仕事をするせいなのか、天使のような容貌に反して、意外と引き締まった身体をしている。
ヴィンセント様は乙女のように頬を染めながらシャツの襟をかき寄せた。
「す、すまない……。実は、来る途中で人に遣ってしまって。不快にさせて申し訳ない。公園はまたの機会にでも」
「いいえ、それには及びませんわ」
せっかくここまで来てくれたのに、逃がしてなるものか。わたしは自分の帽子に結んでいた緋色のリボンをしゅるりと解いた。
「お嫌でなければ、使ってくださいませ。セバス、結んで差し上げて」
「すまない……。ありがとう」
素直にリボンを結ばれながら、ヴィンセント様がはにかんだ。
線の細い美少年が、背伸びするようにして美青年の首にゆるくリボンを巻いていく。
ちょっと艶っぽいその光景に、通りすがりのご婦人たちも頬を染めて立ち止まっている。
眼福だ。
公園で絵を描いている画家がいたらすっ飛んで来るだろう。
「それで、どうしてクラヴァットを人に?」
並んで公園を歩きながら、気になっていたことを聞いてみる。
「いや、荷紐が切れて往生しているご婦人がいてね。結ぶのに使ってしまったんだ。そうだ、お礼にサンドウィッチをもらったよ。一緒に食べよう」
「わざとですよね、お嬢様」
にこにことサンドウィッチの袋を覗き込んでいるヴィンセント様には聞こえないよう、セバスが耳打ちしてきた。
「……。何が」
「ローズ様だったはずじゃないですか。幼馴染の名前」
わたしは答えなかった。
「ほんとにいるんですか、病弱な幼馴染なんて」
セバスは唇を尖らせて、ヴィンセント様の後ろ姿を睨みつけた。
***
「絶対に怪しいですって、お嬢様」
花の形のクッキーをつまみながらセバスが憤った。
「絶対に怪しいですわね、お嬢様」
花びらを上品に齧りながら、セレナも同意した。
「あんたたちの言いたいことも分かるわ」
幼馴染の名前を間違えられても、ヴィンセント様は気づきもしなかった。
それに、頻繁な欠席の理由に使われる割には、ローズ様の解像度が低すぎる。それは確かだ。
「でもね……」
わたしは双児の前から皿を取り上げた。
「……文句があるならわたしのクッキーを摘ままないでちょうだい!」
今日のヴィンセント様のおみやげは手作りクッキーだった。丁寧に花形にくり抜かれ、真ん中には紫色のジャムが飾ってある。
ジャムが甘い分クッキー自体の甘さは控えめで、ミルクティーとの相性も抜群だ。
「手間暇かけて詐欺を働くより、菓子屋でも開いた方が一儲けできると思うわ。これだけの腕があれば」
わたしは花びらをもう一枚つまみ上げた。こちらにはオレンジのママレードが乗っている。酸味が強めのオレンジに合わせてか、生地の甘さも絶妙に変えてある。
令息の手慰みにしては手が込み過ぎている。
「お嬢様、貴族というのは自分では働かないものです。お嬢様と違って」
「ええ、お嬢様が歩いた後はぺんぺん草も黄金に変わると噂の男爵令嬢とは違いますわ、普通の貴族は」
「嘘おっしゃい。黄金にも変わらないし噂にもなってないわよ。どこ情報よ」
わたしだって別に働いているわけでもないし、普通の男爵令嬢だ。
父が掘り当てた鉱脈をちょっと転がして男爵位を買ったぐらいで。
「男爵令嬢のわたしに一目惚れして、貴族令息のふりをして近づいた菓子職人という線は……」
「ないですね」
「ないですわ」
一刀両断された。
「仕方がないわね」
わたしは口に残ったクッキーの甘さを紅茶で流し込んだ。
「ちょっと、網を張ってみましょうか」
***
仕掛けは簡単。
ヴィンセント様が断りたくなるような華やかな夜会へ誘いをかける。
断られる。
尾行する。
ヴィンセント様と夜会に行く約束の日、わたしはドレスではなく勝手知ったる庶民服に着替えた。
どこからどう見てもその辺にいる町娘だ。
手紙通りに見舞いだか看病だかに行くのなら、尾けていけば幼馴染の身元も分かるはずだ。
わたしたちはヒルシュヴァルト家の屋敷を見張った。
これでヴィンセント様が我が家に迎えに来てしまったら万事休すだが、幸か不幸か無事ドタキャンされたようで、黒いマントに身を包んだヴィンセント様が裏口から現れた。
「ていうか、なんで歩きなんですかね。伯爵家に馬車がないわけでもないでしょうに」
「そういえば公園にも徒歩で来てたわね。歩くのが好きなのかしら」
「ああ、もっとちゃんとフードを被らないと。その金髪ではやんごとなき身分がバレバレですわ」
ひそひそと囁き合いながら、少し距離をあけてヴィンセント様を尾行していく。すっかり市井に溶け込んだわたしたちのことは誰も振り返らない。
さして周囲を気にする風もなくスタスタと歩いていくヴィンセント様がくぐったのは、なんとも煌びやかな建物の門だった。
「娼、館……」
「娼館ですね」
「娼館ですわね」
重厚な門構え。
上品かつ絢爛。
惜しげもなく煌めく灯りのせいで、宵闇の中に建物がふんわりと浮き上がって見える。
佇まいからして随分と高級そうだ。
「あのクソ男、お嬢様との約束を反故にして、女を……?」
「待って、あの顔面で大枚はたいて女を買う必要ある? 一緒に店先に並んでた方が現実味があるわ」
「幼馴染が夜の蝶だったという可能性も稀によくありますわ」
青筋を立てて怒りだしたセバスを宥めながら途方に暮れる。
「娼館じゃあ、わたしたちが入るわけにもいかないし……。そうだセバス、客のふりして偵察してきてくれない?」
「ちょっ、なっ、バッ……っっ‼ できるわけないだろ‼」
真っ赤になって断られてしまった。いい案だと思ったんだけど。
仕方がないので今日は撤収して、謎解きはまた次回に持ち越すことになった。
***
「調べてみましたが、かなりちゃんとした娼館ですね」
手元の書き付けを見ながらセバスが報告する。潜入は諦めたが、つてをたどって情報を仕入れてきたらしい。
「ロックフィール商会の経営で、本来の用途の他にも美食がウリで商談にも使われる、紳士の社交場だとか」
「男娼は……」
「いません」
いないのか。
「お嬢様も幼馴染も放って、娼館へごちそうを食べに……」
やけに「ごちそう」に重きを置いた言い方で、セレナがつぶやいた。
「どんな状況よ、それ」
しかし、女性が目当てと言われるよりも余程ヴィンセント様らしいのも事実。
「……お嬢様」
美食に気を取られていたセレナが、ふと真顔でわたしの視線をとらえた。
「娼館に行かなくたって、お嬢様より幼馴染を優先する時点で最低な男ですわ。どうして見切りをつけませんの」
「もっとお嬢様を大切にしてくれる男が、いくらでもいると思いますけどね」
セバスも同調して頷いた。
わたしはううん、と小首をかしげた。
「もしも幼馴染が病気になったら、わたしだって出かけてなんかいられないもの」
呆けたような顔のふたりに、わたしはにぃ、と笑いかけた。
「セレナが食中りになったときだって、添い寝してあげたでしょう」
「あっ、あれは、セバスが傷んだチーズを放っておくから……‼」
「まさか食べるとは思わないだろ、明らかに青くなってるのに‼」
「ブルーチーズかと思ったんですものっ」
真っ赤になって身悶えるセレナの様子に声をあげて笑っていると、ふたりが急に抱き着いてきた。
「……突き止めましょうね、お嬢様」
たしかに、ヴィンセント様には謎が多すぎる。
娼館にはたまたまではなく、足繁く通っているのか。
何をしに通っているのか。
そこに幼馴染はいるのか。
どちらにせよ、もう少し調べてみる必要がありそうだ。
***
それからわたしたちは娼館まわりを徹底的に洗った。
娼婦はもちろん、下働きの子供の名前や、店のメニューに至るまで。
むしろセレナはメニューに釘付けになっていた。
娼館以外にもヴィンセント様が通う場所の共通点が見つかったが、そのどこにもローズという女性はいなかった。
「大変ですわ、お嬢様‼」
セレナが鈍器のような厚みの書物を抱えて飛び込んできた。
「注文していた貴族名鑑の最新版が届きましたの。そうしたら……」
震える指でセレナが書籍を広げる。
「ヒルシュヴァルト伯爵に、ご子息はいませんわ」
調べれば調べるほど、ますます分からなくなっていくのだった。
「嘘でしょ。ちょっとよく見せてよ……」
詳しく検める前に、今度はセバスが飛んできた。
「お嬢様、ご来客です。……ヒルシュヴァルト様が、ドタキャンの詫びに」
「ああもう、展開が急すぎるわ。情報が追い付かない‼」
髪を乱して天を仰ぎ見るが、もうどうにもならない。
ここはもう正面からぶつかった方が早そうだ。
わたしは覚悟を決めることにした。
慌ただしく身支度を整えて応接室に向かうと、ヴィンセント様がセバスに手土産の説明をしているところだった。
素朴な形のクッキーからはスパイスの香りが漂っていて、お酒に合いそうだ。
わたしが部屋に入ると、ヴィンセント様は顔をあげてぱっと笑顔になった。
「オルコット嬢、いつも約束を反故にしてすまない。実は、ロ——」
「ロックフィール様ですよね」
わたしが遮ると、ヴィンセント様は驚いたように目を瞠った。
「ヴィンセント様と幼馴染なのも、よくお会いになっているのも、ローズ様ではなくロックフィール商会の会頭様でしょう? わたしと誠実に向き合う気があるのでしたら、正直に仰ってください。なぜ、嘘をついてまで夜会を渋るのか」
ヴィンセント様は真っ青な顔で唇を震わせていたが、ついにがっくりと項垂れた。
「——すまなかった」
「わたしと出かけたくないのでしたら、最初から約束しなければよろしかったのに」
そのまま黙ってしまったのでわたしが畳みかけると、ヴィンセント様は指をもじもじさせながらようやく口を開いた。
「そうではない。そうではないのだが、実は——」
ごく、と喉を鳴らしてからヴィンセント様が打ち明ける。
「——夜会に出る金がない」
「え」
あまりにも予想外の理由だ。
「社交上不可欠の夜会なら家の予算が下りるんだが、訳あって昔20年分の個人資産を前借りしてしまっていてね。ロックフィールに頼んで厨房や荷運びの仕事で小遣い稼ぎを——」
「お待ちになって‼ ということは、娼館名物季節のタルトレットは——⁉」
「あ、ああ。私が作っている」
突然話に割って入った無礼なメイドにちょっと引きつつも、ヴィンセント様は素直に答えている。
「ということは、再現できますの⁉」
「材料を揃えてくれるなら構わないが……」
「ちょっとセレナ、いまはそこじゃないでしょ」
興奮するセレナを押しとどめ、わたしはヴィンセント様に向き直った。
「20年分の個人資産って。たしかヴィンセント様はいま——」
「24歳だ。5歳のときに父と約束したので、来年まで私には自由になる金がない」
聞けば聞くほど訳が分からなくなってくる。わたしは眩暈をおぼえてソファにもたれかかった。
「ほんとうにすまない。来年まで待っていたら、君のような人はすぐに攫われてしまうと思って——」
お。
わたしの中の狩人が目を光らせた。
「つまり、わたしと会うために嘘をついて?」
「え、ああ、まあ…………。はい」
自分の口走ったことの意味に気づいたヴィンセント様が、耳の先まで真っ赤に染まる。もじもじする彼には見えないように、セバスがげえっと舌を突き出した。
「でも、どうして病弱な幼馴染なんて言い訳を?」
ひととおり桃色の空気を堪能したところで、わたしは疑問を口にした。
それがそもそもの混乱の原因なのだ。
「あれはつい、咄嗟に——。いや、」
言いかけて、ヴィンセント様はわたしの手を取って口を引き結んだ。
「会ってくれるかい? 君には、ちゃんと話したい」
金欠のヴィンセント様は徒歩で我が家に来ていたので、オルコット家の御者に行き先を告げて、皆で馬車に乗り込んだ。
胸のつかえの下りたヴィンセント様が透き通るような笑顔でわたしを見つめてくるので、うっとりしている間に目的地に着いてしまった。
「ナタリー、紹介するよ。私の幼馴染だ」
晴れ渡る青空の下で、ヴィンセント様は大きく腕を開いて笑った。
「——ロゼッタ、様」
示された小さな墓石に刻まれた名前を、わたしは呟いた。
「ロックフィールとロゼッタ、私たち3人も幼馴染でね。ロゼッタ——ローズが病に罹ったとき、なんでもするから彼女を助けてくれって父に頼んだんだ。それでローズは最先端の手術を受けて、10歳まで生きることができた」
金欠も幼馴染も、すべての謎がそれで解けた。
ヴィンセント様に、病弱な幼馴染はいない。
今はもう。
「愚かな男と思うかい?」
愚かには違いない。
それでもわたしは、ただ黙って首を振った。
***
「まだ問題は解決していませんわよ‼」
屋敷に戻って皆でスパイスクッキーをつまんでいると、セレナが貴族名鑑を抱えながらヴィンセント様に指を突き付けた。
「最新の貴族名鑑には、ヒルシュヴァルト家にご子息はいないと書いてありますのよ。いったい貴方は何者ですの⁉」
犯人はお前だ! と言わんばかりのポーズを取ったセレナを、ヴィンセント様はぽかんと見つめながら首をひねっていたが、思い出したようにぽんと手を叩いた。
「最新版ならそうかもしれないね。先年、父が亡くなって、いまは私が当主だから」
「な、なんですって……‼」
「先に古本を見てしまったから……‼」
頭を突き合わせて頁をめくる幼馴染たちを眺めながら、ヴィンセント様は眩しげに微笑んだ。
お読みいただきありがとうございました。
活動報告にイラストを置いておきますので、よろしければお越しください。




