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婚約者に『君より彼女が好きだ』と捨てられた私、実家の野いちご農園で再起したら、元婚約者が破産して『やり直そう』と泣きついてきた件〜もう遅いです、私には最高の理解者がいますので〜

作者: uta
掲載日:2026/06/03

「もう君には飽きた」


 その言葉を聞いた瞬間、世界が音を失った。


 東京・表参道のカフェ。日曜の午後、穏やかな陽射しが差し込むテラス席。私たちのいつものデートコース。なのに今日、蓮司の目は氷のように冷たかった。


「聞こえなかった? もう一度言おうか」


 蓮司が紅茶のカップを置く。かちゃり、という音が妙に大きく響いた。


「君には、飽きたんだ」


「ちょっと待って、蓮司。何を言って……」


「彼女の方がずっと魅力的なんだ。悪いけど、婚約は解消させてもらう」


 彼女?


 頭が真っ白になる。何を言っているの、この人は。


「彼女……? 誰のこと?」


「ごめんね、柚月ちゃん」


 聞き覚えのある声。振り向いた瞬間、心臓が凍りついた。


 白石真理亜。同じ会社の同期。いつも「柚月ちゃんの彼氏、素敵だよね」と笑っていた女が、蓮司の隣に立っていた。


「真理亜……? なんで、あなたがここに」


「蓮司と私、本気なの。ずっと隠してて、ごめんね?」


 悪びれもしない笑顔。そして——蓮司の腕に絡みつく、白い指。


「……嘘、でしょ」


「嘘じゃないよぉ。ね、蓮司?」


「ああ。真理亜とはもう三ヶ月になる」


 三ヶ月。


 その言葉が、鋭い刃となって胸を貫いた。


「三ヶ月……私が、あなたの会社のために貯金を全部……」


「それがどうした?」


 蓮司が眉を上げる。その目には、五年間一度も見たことのない冷酷さがあった。


「君がそうしたくてしたんだろ。俺は頼んでない」


「頼んで……ない? あなたが資金が足りないって、困ってるって言うから……!」


「だから感謝しろって?」


 蓮司が鼻で笑う。


「そもそも君って、尽くしてる自分に酔ってただけじゃない?」


「っ……」


「重いんだよ、正直。息が詰まりそうだった」


「蓮司、言い過ぎ〜」


 真理亜がくすくす笑いながら、蓮司の腕を叩く。庇うふりをしながら、その目は完全に勝ち誇っていた。


「まあ、そうだけど。柚月ちゃんに魅力がなかっただけでしょ? 蓮司は正直に自分の気持ちに従っただけ。責められないよね?」


 ——ああ、そうか。


 この人たちには最初から、私の五年間なんてどうでもよかったんだ。


 会社を辞めて起業したいと言った蓮司を、私は全力で支えた。生活費は全部私が払った。休日返上で彼の仕事を手伝った。友達との約束も、実家への帰省も、全部後回しにして——


 それが『重い』? 『飽きた』?


 五年間を、たった一言で終わらせるの?


「……わかった」


 震える声を、必死で絞り出す。


「婚約解消、受け入れる」


「あら、意外と物分かりいいじゃん」


「でも、一つだけ聞かせて」


 テーブルの上に置かれた蓮司のスマートフォン。画面に通知が光った。


『今日で終わりにできてよかったね♡ これで堂々とデートできる』


 真理亜からのメッセージだった。


「あなたのスマホ、今、通知が来たみたいだけど」


「は?」


「『今日で終わりにできてよかったね。これで堂々とデートできる』……って」


「ちょっ……なんで見てんの!?」


 真理亜の顔が引きつる。


「見えただけ。……そう。最初から、そういうことだったんだ」


 立ち上がる。足が震えていた。でも、泣くもんか。こんな人たちの前で。


「柚月、待て。話を——」


「もういい。聞きたいことは聞いた」


「逃げるの? みっともな」


 真理亜の声を背中で聞きながら、私は歩き出した。


「……さようなら、蓮司。お幸せに」


「柚月!」


 振り返らない。


 カフェを出て、角を曲がって、人気のない路地に入った瞬間——膝から崩れ落ちた。


「……っ、」


 声にならない叫びが、喉を引き裂く。


 五年。五年間だ。


 蓮司の夢のために、自分のキャリアを後回しにした。昇進のチャンスも断った。友達付き合いも減らした。全部、全部、彼のために——


『君がそうしたくてしたんだろ』


 ——ああ、もう無理だ。


 翌日、私は会社に辞表を出した。


 真理亜と同じ空間にいられるわけがない。蓮司の会社に渡した三百万円の貯金は戻ってこない。東京で暮らし続ける理由も、気力も、もう残っていなかった。


『柚月、何かあったら帰っておいで』


 一年前に亡くなった祖母の声が、ふと蘇る。


 おばあちゃん。私、帰る場所なんてあるのかな。


 スマートフォンを開くと、真理亜のSNSが目に飛び込んできた。蓮司とのツーショット。『#新しい恋 #運命の人 #幸せすぎる』というハッシュタグ。


 ——もう、いいや。


 画面を閉じて、新幹線のチケットを予約した。


 行き先は、祖母が遺した小さな農園がある、長野の田舎町。


 何もかも捨てて、逃げるように東京を離れる。


 惨めだった。情けなかった。


 でも、それ以上に——空っぽだった。


         *


 長野の小さな駅に降り立つと、東京とは全く違う空気が肺を満たした。


 澄んでいて、少し冷たくて、土と緑の匂いがする。


「……帰ってきちゃった」


 誰に言うでもなく、呟いた。


 駅前のバス停から乗り合いバスに揺られること三十分。『高瀬』というバス停で降りると、見覚えのある風景が広がっていた。


 子供の頃、夏休みのたびに来ていた場所。おばあちゃんと一緒に野いちごを摘んだ、あの小道——


 でも。


「……うそ」


 記憶の中の農園と、目の前の光景があまりに違いすぎて、言葉を失った。


 雑草が腰の高さまで伸びている。いちごの畝があったはずの場所は草に埋もれ、おばあちゃんが大切にしていた小屋は壁の塗装が剥がれ、屋根には苔が生えていた。


「おばあちゃん……」


 一年前、祖母は亡くなった。都会での仕事を言い訳に、私は葬儀にすら参列できなかった。


 蓮司の会社が大変な時期だから、と。


 ……馬鹿だ。私は本当に馬鹿だ。


 鍵は郵送されていた。震える手で小屋のドアを開ける。


 中は埃だらけだったけれど、おばあちゃんの気配がまだ残っていた。使い込まれた鍋。窓辺に並んだジャムの空き瓶。そして——テーブルの上に置かれた、古い革表紙のノート。


『柚月へ』


 おばあちゃんの字だ。


 震える手でページを開く。


『この日記を読んでいるということは、柚月がこの農園に来てくれたのですね。嬉しいです。おばあちゃんは、ずっと待っていました』


 涙が勝手に溢れた。


『この野いちご農園は、おじいちゃんと一緒に始めました。小さな畑だけれど、おばあちゃんの宝物でした。野いちごの小径——覚えていますか? あなたが小さい頃、よく一緒に歩きましたね』


 覚えてる。覚えてるよ、おばあちゃん。


 赤い野いちごが両脇に実る細い小道。おばあちゃんの手を握って、一粒ずつ摘んだあの夏の日を。


『この小径を、いつか誰かと一緒に歩いてほしい。大切な人と。それが、おばあちゃんの願いです』


 大切な人。


 五年間、蓮司がそうだと思っていた。でも、彼は私を『重い』と言って捨てた。


「……おばあちゃん、私、失敗しちゃった」


 日記を胸に抱いて、声を上げて泣いた。


 誰もいない小屋の中で、ようやく泣くことができた。東京では泣けなかった分、全部。


 どれくらい泣いただろう。


 涙が枯れた頃、日記の続きを読んだ。


『野いちごの世話は、最初は大変かもしれません。でも、土は裏切りません。丁寧に向き合えば、必ず応えてくれます』


 土は裏切らない。


 人は裏切るけど? ——そんな皮肉が頭をよぎった。


『P.S. 秘密のレシピは、きっとあなたなら見つけられます。おばあちゃんの野いちごジャム、地域の皆さんに愛されていたんですよ。いつか、あなたも作ってみてね』


 秘密のレシピ?


 日記をめくるけれど、具体的なことは書かれていない。どこかに隠してあるのだろうか。


 窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。


 荒れ果てた農園。朽ちかけた小屋。なんの当てもない、これからの生活。


 でも——不思議と、東京にいた時よりも息がしやすかった。


「……やってみよう、かな」


 おばあちゃんの農園を、もう一度。


 そう決めた瞬間、玄関のドアがノックされた。


「——誰?」


 警戒しながらドアを開けると、そこに立っていたのは——見知らぬ男だった。


 身長が高い。日焼けした肌。無造作に伸びた黒髪。切れ長の目。表情は、ほとんど読み取れない。


「……帰ってきたのか」


 低い声。愛想のかけらもないトーン。


 でも、その声には聞き覚えがあった。


「え……もしかして、凪……くん?」


 幼馴染の、水無瀬凪。


 十年ぶりの再会は、想像もしていなかった形で訪れた。


         *


「……久しぶり」


 凪くんはそれだけ言って、私の横をすり抜けて小屋の中に入ってきた。


「ちょ、ちょっと待って、勝手に——」


「芳江さんの農園、見に来てた」


 私の抗議を無視して、凪くんは窓際に立ち、外の荒れた畑を見つめる。


「……ひどい状態だ」


「わかってるよ、そんなこと……」


 思わず声が尖る。


 わかってる。おばあちゃんの農園をこんな状態にしたのは、一年間一度も来なかった私のせいだ。


「責めてない」


 凪くんが振り向く。無表情だけど、目だけがどこか柔らかい。


「……お前が帰ってきて、芳江さんも喜んでる」


 そう言って、凪くんは作業着のポケットから何かを取り出した。


 古い紙。折りたたまれた、少し黄ばんだ紙。


「これ」


 差し出されたそれを開くと——子供の絵だった。真っ赤な野いちご。緑の葉っぱ。下手くそだけど、一生懸命描いたのがわかる。そして隅に、『ゆづきより』と書かれた文字。


「……これ、私が描いた?」


「十年前。お前が東京に帰る日に、俺にくれた」


 記憶が蘇る。


 中学最後の夏休み。毎日おばあちゃんの農園で遊んだ。凪くんは当時、泣き虫で引っ込み思案な男の子だった。年下の私にすら上手く話しかけられなくて、でも、いつも遠くから見ていて——


「覚えてたんだ」


「……忘れるわけない」


 凪くんの声が、少しだけ低くなった。


 その意味を理解する前に、彼は話題を変えた。


「農業コンサルタントやってる。今は」


「え、凪くんが?」


「……意外か?」


「ううん、そうじゃなくて」


 十年で、こんなに変わるものなのか。泣き虫だった少年が、今は背が高くて、日焼けした肌で、寡黙で——でも、不思議と安心する声をしている。


「農園、再生する気あるか?」


 単刀直入な質問だった。


「……わからない。やりたいとは思うけど、私、農業の知識なんてほとんどないし」


「教える」


「え?」


「……手伝う。暇だから」


 暇だから。


 それが凪くんなりの優しさなのだと、なぜかわかった。


「本当に、いいの?」


「芳江さんに世話になった。その恩返し」


 凪くんはそう言って、外を見る。


「明日から始める。朝五時に来い」


「朝五時!?」


「農作業は朝が基本だ。……寝坊するなよ」


 それだけ言って、凪くんは小屋を出て行った。


 あっという間の出来事だった。


 取り残された私は、手の中の絵を見つめる。十歳の私が描いた、下手くそな野いちご。


「……十年間、持ってたんだ」


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


 蓮司に捨てられて、ボロボロになって帰ってきた私。


 でも、ここには——ここにはまだ、私を待っていてくれた人がいた。


 スマートフォンが鳴る。真理亜からのSNS通知。『新しいジャム専門店で蓮司とデート♡ 幸せ〜』という投稿。


 画面を見つめて、そっと通知をオフにした。


「……もう、いいや」


 明日は朝五時。凪くんが来る。


 私にはやることがある。蓮司たちのことなんて、考えてる暇はない。


 おばあちゃんの日記を胸に抱いて、私は古いベッドに潜り込んだ。


 明日から、新しい生活が始まる。


 ……土は裏切らない。


 おばあちゃんの言葉を信じて、目を閉じた。


         *


「……遅い」


 朝五時五分。小屋の前に立っていた凪くんの第一声がそれだった。


「五分だけじゃない……!」


「五分あれば、苗に水をやれる」


 反論の余地がなかった。


 こうして始まった農園再生の日々は、想像以上に過酷だった。


 まず、雑草を抜くところから。腰まで伸びた草を一本一本引き抜く作業は、都会育ちの私の体力をあっという間に奪っていった。


「……休むか?」


 凪くんが水筒を差し出す。私が息を切らしているのを見かねたらしい。


「大丈夫。まだ、やれる」


「無理するな。倒れたら意味がない」


「でも——」


「座れ」


 有無を言わせない声だった。


 渋々座ると、凪くんは私の隣に腰を下ろした。無言で水筒のお茶を飲む。


 沈黙。でも、不思議と気まずくなかった。


「……お前の作業、丁寧だな」


 ぽつりと凪くんが言った。


「え?」


「雑草の抜き方。根っこまでちゃんと取ってる。普通、素人は葉だけ取って終わりにする」


「だって、根っこ残したらまた生えてくるでしょ。おばあちゃんがそう言ってた」


「……芳江さんに似てる」


 凪くんの目が、ほんの少し和らいだように見えた。


「その丁寧さがあれば、野いちごは育つ」


 褒められているのだと気づくのに、三秒かかった。


「あ、ありがとう……?」


「別に。事実を言っただけだ」


 凪くんは立ち上がり、また黙々と作業に戻る。


 ——この人、褒めるのも不器用だな。


 そう思いながら、私も立ち上がった。


         *


 二週間が経った頃、農園は少しずつ形を取り戻し始めていた。


 雑草が消え、土が見えるようになった。凪くんが持ってきた野いちごの苗を植え、毎日水をやる。


「土の状態、良くなってきた」


 凪くんが土を手に取り、指で揉む。


「芳江さんが作った土だ。一年放置されても、基礎がしっかりしてる」


「おばあちゃん、すごかったんだね」


「ああ。この辺りで一番の農家だった」


 知らなかった。子供の頃は、ただ美味しい野いちごを食べられる場所としか思っていなかった。


「柚月」


 凪くんが私を見る。


「お前も、できる。芳江さんの血を引いてる」


「……そうかな」


「俺が言うんだから間違いない」


 また、不器用な励まし。


 でも、その言葉が嬉しかった。蓮司は一度も——私の能力を認める言葉なんて、言ってくれなかった。


『君がそうしたくてしたんだろ』

『重いんだよ、正直』


 ふと、蓮司の声が頭をよぎる。


「——どうした」


 凪くんが私の顔を覗き込む。


「顔色悪い。何か思い出したか」


「う、ううん。何でもない」


 嘘だと見抜かれたのか、凪くんは眉をひそめた。でも、追及はしてこなかった。


 代わりに、


「今日はここまでにしよう。昼飯、食べていけ」


 そう言って、彼は小屋の方へ歩いていった。


 テーブルの上に並んだのは、おにぎりと味噌汁。凪くんが作ったらしい。


「……料理、できるんだ」


「一人暮らし長いから」


「彼女とかいないの?」


 聞いてから、なんでそんなこと聞いたんだろうと後悔した。


 凪くんは箸を止めて、じっと私を見た。


「……いない」


「そ、そう」


「お前は」


「え?」


「彼氏。いたんだろ」


 心臓が跳ねた。


「……いた。でも、もう別れた」


「そうか」


 凪くんはそれ以上何も聞かなかった。


 ただ、「味噌汁、冷めるぞ」とだけ言って、自分の食事に戻る。


 その優しさが——追及しないという優しさが、今の私には沁みた。


         *


 農園再生を始めて一ヶ月。


 野いちごの苗は順調に根付き、小さな白い花を咲かせ始めていた。


「いい感じだ。この調子なら、秋には収穫できる」


 凪くんの言葉に、思わず顔がほころぶ。


「本当? 嬉しい……!」


「……ああ」


 凪くんが目を逸らす。耳が少し赤い気がするのは、日焼けのせいだろうか。


 その夜、私は久しぶりにスマートフォンを開いた。


 真理亜のSNSは見ないようにしていた。でも、農園のことを調べようとインスタを開いた瞬間——


『田舎に逃げた負け犬の末路www』


 タイトルを見て、血の気が引いた。


 真理亜のストーリー。私の写真——いつの間に撮られたのか、農作業をしている後ろ姿——が載せられていた。


『五年も尽くして捨てられて、今は畑仕事とかwww 哀れすぎて笑える』

『まあ蓮司みたいなエリートには不釣り合いだったよね。私の方がふさわしいに決まってる』


 コメント欄には、真理亜の友人たちからの「ウケるw」「田舎で泥まみれとか終わってる」という言葉が並んでいた。


 手が震えた。


 ——なんで。なんで、放っておいてくれないの。


 私はただ、静かに暮らしたいだけなのに。


『蓮司の会社、すごく順調なの♡ 真理亜の実家が出資してくれて、オフィスも広くなったんだ〜』


 追い打ちをかける投稿。蓮司と真理亜のツーショット。高級レストランでの食事風景。


 五年間、私が貯金を削って支えた会社。それを今は、真理亜の実家のお金で回している。


『柚月ちゃんに魅力がなかっただけでしょ?』


 真理亜の声が頭の中で響く。


「……私が、悪いの?」


 涙が溢れた。


 自分が惨めで、情けなくて、どうしようもなかった。


 あの人たちは東京で華やかに暮らしている。私は田舎で泥まみれになっている。客観的に見たら、負け犬なのは——私の方だ。


「……っ、」


 嗚咽が漏れる。小屋の中で一人、膝を抱えて泣いた。


 どれくらい経っただろう。


 コンコン。


 ドアがノックされた。


「……誰」


 声が掠れている。


 返事はない。代わりに、ドアの隙間から何かが差し込まれた。


 ——瓶?


 手に取ると、それは野いちごジャムだった。手作りの、小さな瓶。ラベルには『水無瀬』と書かれている。


 凪くんが作った?


 ドアを開けると、凪くんの後ろ姿が見えた。月明かりの中、畑の方へ歩いていく。


「凪くん!」


 呼び止めると、彼は振り向いた。


「……食べろ。芳江さんのレシピで作った」


「なんで——」


「顔見ればわかる」


 凪くんは無表情のまま、でも静かに言った。


「お前が泣いてる時の顔。昔から変わってない」


 子供の頃のことを言っているのだと気づいた。私が蛙を踏んでしまって泣いた時も、凪くんは何も言わずにハンカチを差し出してくれた。


「……何があったか知らない。聞かない。でも」


 凪くんが一歩、近づく。


「お前の作る野いちごは、昔から特別だった。それだけは、忘れるな」


 月明かりの下、凪くんの目がまっすぐ私を見ていた。


「芳江さんも言ってた。『柚月の野いちごは、愛情がこもってる』って」


「おばあちゃんが……」


「ああ。だから、誰に何を言われても関係ない。お前は——お前のままでいい」


 涙が、また溢れた。


 でも、さっきとは違う涙だった。


「……凪くん」


「ジャム、食べろ。美味いから」


 それだけ言って、凪くんは歩いていった。


 手の中の小さな瓶を胸に抱いて、私は小屋に戻った。


 スプーンですくったジャムは、甘酸っぱくて、優しい味がした。


 ——ああ、おばあちゃんの味だ。


 スマートフォンの画面を見る。真理亜の投稿は、まだそこにあった。


 でも、もう泣かない。


 私には、野いちごがある。おばあちゃんの農園がある。そして——凪くんがいる。


『お前のままでいい』


 その言葉を、何度も心の中で繰り返した。


         *


「秘密のレシピ……どこにあるんだろう」


 おばあちゃんの日記を何度読み返しても、具体的なレシピは書かれていなかった。


『秘密のレシピは、きっとあなたなら見つけられます』


 見つけられる? どこに?


 小屋の中を探し回った。棚の上、引き出しの中、古い本の間。


 見つからない。


「何してる」


 凪くんが小屋に入ってきた。朝の作業を終えて、お茶を飲みに来たらしい。


「おばあちゃんのレシピを探してるの。日記に『秘密のレシピ』って書いてあるんだけど——」


「ああ、あれか」


「知ってるの!?」


「芳江さんのジャム、地域で有名だった。俺の親父も『レシピを教えてくれ』って何度も頼んだけど、笑って断られてた」


「じゃあ、凪くんも知らないんだ……」


「ああ。でも——」


 凪くんが窓の外を見る。野いちごの畑の向こう、小さな小道が続いている。


「芳江さん、いつもあの小径で何かしてた。朝早く、一人で」


 野いちごの小径。


 私とおばあちゃんが一緒に歩いた、あの道。


「行ってみる」


 走り出した私を、凪くんは無言で見送った。


 小径は、記憶よりも狭かった。子供の頃は広く感じた道が、今は両肩に葉が触れるくらい。


 野いちごの実が、道の両脇に赤く輝いている。


 おばあちゃん、ここで何をしてたの?


 小径の終点には、小さな祠があった。昔からあったけれど、中を見たことはなかった。


 扉を開ける。


 中には、古い木箱が一つ。


「……これ」


 震える手で蓋を開けると——ノートが入っていた。表紙には、おばあちゃんの字で『野いちごジャムのレシピ』と書かれている。


「あった……!」


 ページをめくる。そこには、詳細なレシピが記されていた。


『材料:野いちご 500g、砂糖 200g、レモン汁 大さじ1、はちみつ 大さじ2、そして——愛情をたっぷり』


 最後の一文に、思わず笑った。おばあちゃんらしい。


 でも、続きを読んで息を呑んだ。


『大切なのは、野いちごを摘む時間です。朝露が乾く前、朝の五時から六時の間に摘んだ野いちごが一番甘い。そして、ジャムを煮る時は、心を込めて。誰に食べてもらいたいか、想像しながら。その想いが、味になります』


 心を込めて。誰に食べてもらいたいか、想像しながら。


『私はいつも、柚月のことを想いながら作っていました。この子が食べてくれる時の笑顔を。だから、このレシピを「秘密」にしていたのです。だって、愛情の量は人には教えられませんから』


 涙が頬を伝った。


 おばあちゃんのジャムが美味しかった理由。それは、特別な材料でも技術でもなく——私への愛情だったのだ。


 ノートの最後のページには、こう書かれていた。


『柚月、あなたにも、愛情を込めて作れる相手ができますように。その時、このレシピが役に立てば嬉しいです。おばあちゃんより』


 愛情を込めて作れる相手。


 凪くんの顔が、ふと浮かんだ。


 ——え、なんで?


 慌てて首を振る。違う、今はそんなこと考えてる場合じゃない。


「柚月」


 後ろから声がした。振り向くと、凪くんが立っていた。


「見つかったか」


「うん。おばあちゃんのレシピ、ここにあった」


「……そうか」


 凪くんはノートを覗き込み、最後のページを見て——少しだけ、目を細めた。


「芳江さんらしい」


「うん。おばあちゃんらしい」


 二人で小径を歩いて戻る。


 野いちごの実が、朝日を浴びてキラキラ輝いていた。


「凪くん」


「なんだ」


「私、このレシピでジャムを作る。おばあちゃんの想いを、ちゃんと継ぎたい」


「ああ」


「だから——これからも、手伝ってくれる?」


 凪くんは足を止めた。私も立ち止まる。


 長い沈黙の後、彼は言った。


「……当たり前だ」


 その声が、朝の空気の中で、優しく響いた。


         *


「完売!?」


「ああ。開始三十分で」


 地元のマルシェ。初出店。


 おばあちゃんのレシピで作った野いちごジャムは、あっという間に売り切れた。


「嘘……信じられない」


「信じろ。お前が作ったんだ」


 凪くんが、珍しく口角を上げている。笑顔——とまでは言えないけれど、この数ヶ月で一番柔らかい表情だった。


「お嬢さん、このジャム最高だったよ! 芳江さんの味を思い出したわ」


 常連らしいおばあさんが声をかけてくる。


「芳江さんの孫なんでしょう? やっぱり血は争えないねえ」


「ありがとうございます……!」


 頭を下げる私の横で、凪くんが静かに頷いている。


「次はいつ出店するの? また買いに来るから!」


「来月も来ます! もっとたくさん作ってきます!」


 マルシェが終わる頃には、SNSで『幻の野いちごジャム復活!?』という投稿が拡散され始めていた。


「すごい……本当に」


 小屋に戻り、スマートフォンの画面を見つめる。


『芳江さんのジャム、孫娘が継いだらしい』

『あの味が復活するなら買いたい!』

『どこで買えるの? 通販は?』


 予想もしていなかった反響だった。


「柚月」


 凪くんが一通の封筒を差し出す。


「これ、親父から」


 開けてみると、名刺が入っていた。東京の百貨店バイヤーの名刺。


「……え?」


「マルシェの様子を見てたらしい。『ぜひ取引したい』と連絡があった」


「百貨店……? 私のジャムが……?」


「芳江さんのジャムは、昔から業者が狙ってた。でも芳江さんは断り続けてた。地域の人のために作りたいから、って」


 凪くんが窓の外を見る。


「でも、お前が決めることだ。どうする?」


 百貨店との取引。それは、大きなチャンスだ。でも——


「考えさせて。おばあちゃんが大切にしてたこと、守りたいから」


「ああ。それでいい」


 凪くんは頷いて、立ち上がった。


「今日は疲れただろ。早く寝ろ」


「凪くんは?」


「……帰る」


「あ、あの」


 凪くんを呼び止める。


「今日、ありがとう。凪くんがいなかったら、私——」


「お前の力だ」


 遮る声は、でも優しかった。


「俺は手伝っただけだ。ジャムを作ったのも、売ったのも、お前だ。それを忘れるな」


「……うん」


「じゃあな」


 凪くんが去っていく。月明かりの中、その背中を見送った。


 ——私の力、か。


 五年間、蓮司は一度も言ってくれなかった言葉だ。


『君がそうしたくてしたんだろ』

『俺は頼んでない』


 蓮司にとって、私の努力は当たり前のこと。感謝される対象ですらなかった。


 でも、凪くんは違う。


 私の力だと、認めてくれる。私がやったことだと、言ってくれる。


 その違いが、今ならわかる。


 スマートフォンに通知が来た。


 見ると、真理亜からのDMだった。


『ジャム売れたんだ〜 よかったね。でも、所詮田舎の趣味でしょ? 蓮司の会社は億単位の取引してるけどね♡』


 一ヶ月前の私なら、傷ついていただろう。


 でも今は、ただ——哀れだと思った。


 億単位の取引? それが何だというのだろう。私が作ったジャムで、誰かが笑顔になった。『芳江さんの味を思い出した』と、喜んでくれた人がいた。


 そんなお金で測れない価値が、どこにあるか。真理亜には一生わからないだろう。


 DMを既読スルーして、私は画面を閉じた。


 窓の外では、月が野いちご畑を照らしている。


 小さな成功。でも、確かな一歩。


「おばあちゃん、見ててね」


 空に向かって、呟いた。


         *


 秋。


 野いちごの収穫が本格化し、私は毎日畑と小屋を往復する日々を送っていた。


 百貨店との取引は、「地域優先」という条件付きで引き受けることにした。おばあちゃんの想いを守りながら、農園を大きくしていく。それが、私の選んだ道だった。


「今日で今季の収穫は終わりだ」


 凪くんが畝の間から立ち上がる。日焼けした顔に、汗が光っている。


「凪くん、本当にありがとう。半年間、ずっと手伝ってくれて」


「……礼はいらない」


「でも、凪くんの仕事もあるのに——」


「言っただろ。暇だからって」


 嘘だ。凪くんがどれだけ忙しいか、この半年で嫌というほどわかった。県内の農家を回って、コンサルティングをして、それなのに毎日私の農園にも来て。


「ねえ、凪くん」


「なんだ」


「なんで、そこまでしてくれるの?」


 凪くんの手が止まった。


 長い沈黙。


 夕日が、野いちごの小径を橙色に染めている。


「……歩くか」


 凪くんがそう言って、小径の方へ歩き出した。私も後を追う。


 野いちごの葉が、風にそよいでいる。収穫を終えた畑は、でも来年に向けてすでに準備を始めていた。


「十年前」


 凪くんが口を開いた。


「お前が東京に帰る日、俺——言いたいことがあった」


「言いたいこと?」


「……言えなかった。臆病で」


 凪くんが足を止める。私も立ち止まった。


 振り向いた彼の目が、夕日に照らされて、琥珀色に光っていた。


「好きだった」


 心臓が跳ねた。


「十年前から。いや——多分、もっと前から」


「凪くん……」


「お前が東京で幸せなら、それでいいと思ってた。だから、何も言わなかった。でも——」


 凪くんの手が、ゆっくりと私の頬に触れた。


「お前が泣いて帰ってきた時、思った。俺は——ずっと後悔してた」


「後悔?」


「あの時言えなかったこと。お前を行かせたこと。ずっと、ずっと——」


 凪くんの目が、真っ直ぐ私を見ている。


「お前が幸せなら、それでいいと思ってた。でも——お前を幸せにするのが、俺じゃないってのが、ずっと苦しかった」


 涙が溢れた。


 蓮司は、五年間一度も——こんな風に、私を見てくれなかった。


「凪くん、私——」


「返事はいらない」


 凪くんが首を振る。


「今は、農園を軌道に乗せることが先だろ。俺は——待てる。十年待ったんだ。これからだって」


「……馬鹿」


 私は、凪くんの胸に顔を埋めた。


「待たせすぎだよ。十年も」


「……柚月?」


「私も」


 顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔を、でも見せたかった。


「私も、凪くんのこと——好き、かもしれない」


「かも、かよ」


「だって、まだわかんないもん。でも——凪くんといると、安心する。凪くんの言葉は、信じられる。凪くんが作ったジャムは、おばあちゃんの味がする」


 凪くんの腕が、私を包んだ。


「……それで、いい」


「え?」


「ゆっくり、わかっていけばいい。俺は逃げない。今度こそ」


 夕日が沈んでいく。野いちごの小径は、今は二人の影を落としていた。


『この小径を、いつか誰かと一緒に歩いてほしい』


 おばあちゃんの言葉が、胸に蘇る。


 ——おばあちゃん、見つけたよ。一緒に歩く人を。


 凪くんの温かさに包まれながら、私は静かに涙を流した。


         *


 凪くんとの関係が変わってから、毎日が少しだけ眩しくなった。


 相変わらず彼は無愛想で口数が少ないけれど、時々見せる柔らかい目線や、不器用に握ってくる手のひらの温かさに、胸が高鳴る。


「……何にやけてる」


「にやけてないよ」


「嘘つけ」


 凪くんが鼻を鳴らす。でも、その耳は赤い。


 平和な日々。幸せな日常。


 でも——その静けさを打ち破るニュースが、飛び込んできた。


「園部さんの会社が倒産?」


 耕一さん——凪くんのお父さんが、険しい顔で言った。


「東京で話題になってたベンチャー、あっという間に潰れたらしい。出資してた白石さんのとこが手を引いたんだと」


 白石——真理亜の実家だ。


「なんで手を引いたんですか?」


「さあなあ。噂じゃ、社長の女遊びが原因だとか。白石さんの娘と付き合ってたのに、また別の女に手を出したらしい」


 蓮司が、真理亜以外の女性に手を出した?


「因果応報だべ。人を裏切る奴は、いつか自分も裏切られる」


 耕一さんがため息をつく。


「柚月ちゃん、お前もあの男と付き合ってたんだろ? 災難だったな」


「……はい」


 正直、驚きよりも納得の方が大きかった。


 蓮司は最初から、自分の利益しか考えない人だった。私を捨てて真理亜に乗り換えたように、真理亜も——用がなくなれば捨てるのだろう。


「柚月」


 凪くんが私の手を握った。


「大丈夫か」


「うん。大丈夫。もう、あの人たちのことはどうでもいいから」


 本心だった。


 蓮司が成功しようが失敗しようが、もう私には関係ない。私には、私の人生がある。この農園がある。凪くんがいる。


 でも——この平穏が長くは続かないことを、この時の私はまだ知らなかった。


         *


 数日後。


 小屋の前に、見覚えのある車が止まっていた。


 東京ナンバー。高級外車——でも、よく見ると泥で汚れ、ところどころ傷がついている。


 車から降りてきた男を見て、私は息を呑んだ。


「……久しぶり、柚月」


 蓮司だった。


 でも、半年前に見た時とは全く違っていた。


 髪はボサボサ。無精髭。スーツは皺だらけで、目の下には深い隈。


 あの傲慢で自信に満ちた男は、どこにもいなかった。


「なん、で——」


「会いたかったんだ。お前に」


 蓮司が一歩近づく。私は反射的に後ずさった。


「柚月、頼む。俺の話を聞いてくれ」


 その目には、かつての冷たさはなかった。代わりにあったのは——縋るような、惨めな光。


「話? 何の話」


 声が震えないように、必死で保った。


「聞いてるだろ? 会社が——」


「倒産したって。聞いたわ」


「真理亜の実家に裏切られたんだ。俺は被害者なんだよ。あいつらに嵌められた——」


「だから何?」


 冷たい声が出た。自分でも驚くほど。


「それが、私に何の関係があるの」


 蓮司の顔が歪んだ。


「柚月、俺たち五年も付き合ってただろ? 婚約までしてた。その絆は——」


「その絆を切ったのは、あなたでしょ」


「あれは——あれは間違いだった。真理亜に騙されてたんだ。お前の方がずっと——」


「やめて」


 吐き気がした。


「今更そんなこと言われても、何も感じない」


「柚月、頼む」


 蓮司が膝をついた。


 あの傲慢だった男が、地面に膝をついている。


「やり直そう。お前の農園、一緒に経営しよう。俺にはビジネスの知識がある。お前のジャム、全国に広められる。二人でやれば——」


「ふざけないで」


 声が震えた。怒りで。


「あなた、私の農園を利用する気? 自分の会社が潰れたから、今度は私の成功に乗っかろうって?」


「違う! 俺は本当にお前のことを——」


「五年間、私を支えてくれた? 私の貯金を全部持っていったのは誰? 私を『重い』『飽きた』って捨てたのは誰?」


 蓮司が黙った。


「証拠はないと思ってる? あなたのスマホに残ってた真理亜との写真、全部保存してあるの。あの日、私が何も言わずに出ていったと思った?」


 蓮司の顔から血の気が引いた。


「あれを公開されたくなかったら、二度と私の前に現れないで」


「柚月——」


「帰って」


「でも俺には、お前しか——」


「彼女には、俺がいる」


 背後から声がした。


 凪くん。いつの間にか、私の後ろに立っていた。


「誰だよ、お前」


 蓮司が睨む。


「柚月の——」


 凪くんが一瞬言葉を探し、それから静かに言った。


「柚月を、最初から見てた人間だ」


 蓮司の顔が歪んだ。嫉妬? 憎しみ? それとも——ただの惨めさ?


「柚月、お前——こんな田舎者と——」


「田舎者で結構」


 凪くんが私の肩に手を置いた。


「少なくとも俺は、柚月を『飽きた』なんて言わない。一生」


 蓮司が言葉を失った。


 そして——急に笑い出した。


「ははっ、そうか。お前、最初からこいつのことが——」


「違う。私が蓮司と付き合ってる時、凪くんは何も言わなかった。私の幸せを願ってくれてたから」


 凪くんの手に、力がこもる。


「でも蓮司、あなたは違った。自分の幸せのために、私を利用しただけだった」


「柚月——」


「帰って。二度と、来ないで」


 蓮司は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 やがて、重い足取りで車に向かい、エンジンをかけ——去っていった。


 静寂。


「……大丈夫か」


 凪くんの声に、張り詰めていた糸が切れた。


「うん……大丈夫」


 涙が、溢れた。


 でも、それは悲しみの涙じゃなかった。


 ずっと心のどこかに刺さっていた棘が、やっと抜けた——そんな感覚だった。


 凪くんの腕の中で、私は静かに泣いた。


         *


 蓮司が去った後、私は小屋の中で凪くんと向かい合っていた。


「……ごめんね、巻き込んで」


「馬鹿」


 凪くんが眉をひそめる。


「巻き込むとか、そういう問題じゃないだろ」


「でも——」


「俺がそばにいたいからいる。お前のせいじゃない」


 不器用な言葉。でも、それが凪くんだった。


「ねえ、凪くん」


「なんだ」


「さっき言ってくれたこと——『最初から見てた』って」


 凪くんの耳が赤くなる。


「……言っちゃったな」


「本当に?」


「嘘つく意味がない」


 凪くんが、まっすぐ私を見た。


「十年前からお前を見てた。お前が東京で誰かと付き合ってる時も、お前が幸せならって——でも、本当は」


「本当は?」


「……苦しかった」


 その一言が、胸に刺さった。


「お前があの男と幸せそうにしてる写真を見るたび、苦しかった。でも、俺には何も言う権利がなかった。告白もせずに見送ったのは、俺だから」


「凪くん……」


「だから今度は逃げない。お前が何を選んでも、俺はそばにいる。お前が俺を選ばなくても——」


「選ぶよ」


 遮る声が、自分でも驚くほど強かった。


「私、凪くんを選ぶ」


「……本気か」


「本気」


 立ち上がって、凪くんの前に立った。


「五年間、私は蓮司のために生きてた。彼の夢のために、自分を殺して尽くしてた。でも、それは愛じゃなかった。ただの依存だった」


 凪くんが息を呑む。


「凪くんは違う。私を見てくれる。私の力を認めてくれる。私のそばにいてくれる——何も求めずに」


「柚月——」


「私には今、私の夢がある。この農園を、おばあちゃんの想いを、守っていきたいって思う。そして——」


 凪くんの手を取った。


「その夢を、凪くんと一緒に叶えたい」


 長い沈黙。


 やがて、凪くんの腕が私を包んだ。


「……十年待った甲斐があった」


「待たせすぎだって、言ったでしょ」


「ああ。だから——これからは、待たせない」


 凪くんの唇が、私の額に触れた。


「俺も、お前と一緒に歩きたい。野いちごの小径を——ずっと」


 窓の外では、夕日が野いちご畑を照らしている。


 おばあちゃんの小径。私と凪くんの小径。


『この小径を、いつか誰かと一緒に歩いてほしい』


 おばあちゃん、約束するよ。


 この人と、ずっと——歩いていくから。


         *


 一年後——。


「いらっしゃいませ!」


 小屋を改装したカフェの扉が開き、お客さんが入ってくる。


『野いちごの小径』。それが、このカフェの名前。


 おばあちゃんのレシピで作った野いちごジャムを使ったスイーツを提供する、小さなカフェ。オープンから三ヶ月、週末は予約が取れないほどの人気になっていた。


「柚月さん、今日のジャムも最高です!」


 常連のお客さんが笑顔で言ってくれる。


「ありがとうございます。おばあちゃんのレシピなんです」


「芳江さんの味、復活させてくれてありがとうね」


 その言葉が、何より嬉しかった。


「柚月、裏に来い」


 凪くんが厨房から顔を出す。相変わらず無愛想。でも、その目は柔らかい。


「どうしたの?」


「いいから」


 手を引かれて、カフェの裏手へ。


 野いちごの小径が、夕日に照らされている。赤い実が宝石のように輝いていた。


「ここで待ってろ」


 凪くんが少し離れたところに立つ。


「何——」


 言いかけた瞬間、凪くんが膝をついた。


「え」


「柚月」


 凪くんの手には、小さな箱。開くと、シンプルな指輪が光っていた。


「十年、待った。一年、隣にいた。これからは——一生、一緒にいたい」


「凪くん……」


「俺と、結婚してくれ」


 涙が溢れた。


「……もう、十一年も待たせたくせに」


「だから、これからは待たせないって言っただろ」


「馬鹿。不器用」


「ああ。不器用だ。だから——言葉じゃなくて、行動で示す。一生」


「……うん」


 頷いた瞬間、凪くんが立ち上がって私を抱きしめた。


「ありがとう」


「こっちこそ」


 夕日が沈んでいく。野いちごの小径は、橙色から紫に、紫から藍色に変わっていく。


 ふと、おばあちゃんの日記のことを思い出した。


「ねえ、凪くん。おばあちゃんの日記、最後のページ——読んでなかった」


「……そうか」


「見てもいい?」


 凪くんが頷く。


 小屋に戻り、日記を開く。最後のページ——今まで気づかなかった、糊付けされた紙を剥がすと、そこには——


『柚月へ。


この日記を最後まで読んでいるということは、あなたは農園を継いでくれたのですね。そして、きっと——凪くんと一緒にいるのでしょう。


おばあちゃんは、ずっと知っていました。凪くんがあなたを見つめる目を。あなたが東京に行った後も、時々農園に来て、野いちごの世話をしてくれていたこと。「柚月のために」と言いながら。


柚月、あなたは愛される資格のある人です。自分を犠牲にしなくても、愛してくれる人がいます。凪くんは——あなたを最初から見ていた人です。


おばあちゃんの願いは、一つだけ。


柚月と凪くんが、この野いちごの小径を、一緒に歩く日が来ますように。


その日を、空から楽しみにしています。


芳江より』


 涙で文字が滲んだ。


「おばあちゃん……最初から、知ってたんだ……」


 凪くんが後ろから私を抱きしめた。


「芳江さんには、敵わないな」


「うん……本当に」


 窓の外では、星が瞬き始めている。


 野いちごの小径は、今は闇に包まれている。でも、明日になればまた——赤い実が輝く道になる。


「ねえ、凪くん」


「なんだ」


「明日の朝、一緒に小径を歩こう」


「……ああ」


「これからも、ずっと」


「——約束する」


 凪くんの腕の中で、私は微笑んだ。


 おばあちゃん、見ててね。


 私、幸せになるよ。この人と——野いちごの小径を、一緒に歩いていくから。




         *




 ——そして、後日談。


 蓮司と真理亜がどうなったか?


 蓮司は実家に逃げ帰ったらしい。借金まみれで、再起の目処は立っていないとか。


 真理亜は、蓮司の浮気がきっかけで実家からも見放され、SNSのアカウントを消して消息不明になったそうだ。


 因果応報、というやつだろう。


 でも、私はもう——あの人たちのことを考える時間はない。


 だって、私には。


 守りたい農園がある。


 継ぎたいおばあちゃんの想いがある。


 そして——隣に、凪くんがいる。


 それだけで、十分すぎるほど幸せだから。




『もう遅いです、私には最高の理解者がいますので』




——完——

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