婚約者に『君より彼女が好きだ』と捨てられた私、実家の野いちご農園で再起したら、元婚約者が破産して『やり直そう』と泣きついてきた件〜もう遅いです、私には最高の理解者がいますので〜
「もう君には飽きた」
その言葉を聞いた瞬間、世界が音を失った。
東京・表参道のカフェ。日曜の午後、穏やかな陽射しが差し込むテラス席。私たちのいつものデートコース。なのに今日、蓮司の目は氷のように冷たかった。
「聞こえなかった? もう一度言おうか」
蓮司が紅茶のカップを置く。かちゃり、という音が妙に大きく響いた。
「君には、飽きたんだ」
「ちょっと待って、蓮司。何を言って……」
「彼女の方がずっと魅力的なんだ。悪いけど、婚約は解消させてもらう」
彼女?
頭が真っ白になる。何を言っているの、この人は。
「彼女……? 誰のこと?」
「ごめんね、柚月ちゃん」
聞き覚えのある声。振り向いた瞬間、心臓が凍りついた。
白石真理亜。同じ会社の同期。いつも「柚月ちゃんの彼氏、素敵だよね」と笑っていた女が、蓮司の隣に立っていた。
「真理亜……? なんで、あなたがここに」
「蓮司と私、本気なの。ずっと隠してて、ごめんね?」
悪びれもしない笑顔。そして——蓮司の腕に絡みつく、白い指。
「……嘘、でしょ」
「嘘じゃないよぉ。ね、蓮司?」
「ああ。真理亜とはもう三ヶ月になる」
三ヶ月。
その言葉が、鋭い刃となって胸を貫いた。
「三ヶ月……私が、あなたの会社のために貯金を全部……」
「それがどうした?」
蓮司が眉を上げる。その目には、五年間一度も見たことのない冷酷さがあった。
「君がそうしたくてしたんだろ。俺は頼んでない」
「頼んで……ない? あなたが資金が足りないって、困ってるって言うから……!」
「だから感謝しろって?」
蓮司が鼻で笑う。
「そもそも君って、尽くしてる自分に酔ってただけじゃない?」
「っ……」
「重いんだよ、正直。息が詰まりそうだった」
「蓮司、言い過ぎ〜」
真理亜がくすくす笑いながら、蓮司の腕を叩く。庇うふりをしながら、その目は完全に勝ち誇っていた。
「まあ、そうだけど。柚月ちゃんに魅力がなかっただけでしょ? 蓮司は正直に自分の気持ちに従っただけ。責められないよね?」
——ああ、そうか。
この人たちには最初から、私の五年間なんてどうでもよかったんだ。
会社を辞めて起業したいと言った蓮司を、私は全力で支えた。生活費は全部私が払った。休日返上で彼の仕事を手伝った。友達との約束も、実家への帰省も、全部後回しにして——
それが『重い』? 『飽きた』?
五年間を、たった一言で終わらせるの?
「……わかった」
震える声を、必死で絞り出す。
「婚約解消、受け入れる」
「あら、意外と物分かりいいじゃん」
「でも、一つだけ聞かせて」
テーブルの上に置かれた蓮司のスマートフォン。画面に通知が光った。
『今日で終わりにできてよかったね♡ これで堂々とデートできる』
真理亜からのメッセージだった。
「あなたのスマホ、今、通知が来たみたいだけど」
「は?」
「『今日で終わりにできてよかったね。これで堂々とデートできる』……って」
「ちょっ……なんで見てんの!?」
真理亜の顔が引きつる。
「見えただけ。……そう。最初から、そういうことだったんだ」
立ち上がる。足が震えていた。でも、泣くもんか。こんな人たちの前で。
「柚月、待て。話を——」
「もういい。聞きたいことは聞いた」
「逃げるの? みっともな」
真理亜の声を背中で聞きながら、私は歩き出した。
「……さようなら、蓮司。お幸せに」
「柚月!」
振り返らない。
カフェを出て、角を曲がって、人気のない路地に入った瞬間——膝から崩れ落ちた。
「……っ、」
声にならない叫びが、喉を引き裂く。
五年。五年間だ。
蓮司の夢のために、自分のキャリアを後回しにした。昇進のチャンスも断った。友達付き合いも減らした。全部、全部、彼のために——
『君がそうしたくてしたんだろ』
——ああ、もう無理だ。
翌日、私は会社に辞表を出した。
真理亜と同じ空間にいられるわけがない。蓮司の会社に渡した三百万円の貯金は戻ってこない。東京で暮らし続ける理由も、気力も、もう残っていなかった。
『柚月、何かあったら帰っておいで』
一年前に亡くなった祖母の声が、ふと蘇る。
おばあちゃん。私、帰る場所なんてあるのかな。
スマートフォンを開くと、真理亜のSNSが目に飛び込んできた。蓮司とのツーショット。『#新しい恋 #運命の人 #幸せすぎる』というハッシュタグ。
——もう、いいや。
画面を閉じて、新幹線のチケットを予約した。
行き先は、祖母が遺した小さな農園がある、長野の田舎町。
何もかも捨てて、逃げるように東京を離れる。
惨めだった。情けなかった。
でも、それ以上に——空っぽだった。
*
長野の小さな駅に降り立つと、東京とは全く違う空気が肺を満たした。
澄んでいて、少し冷たくて、土と緑の匂いがする。
「……帰ってきちゃった」
誰に言うでもなく、呟いた。
駅前のバス停から乗り合いバスに揺られること三十分。『高瀬』というバス停で降りると、見覚えのある風景が広がっていた。
子供の頃、夏休みのたびに来ていた場所。おばあちゃんと一緒に野いちごを摘んだ、あの小道——
でも。
「……うそ」
記憶の中の農園と、目の前の光景があまりに違いすぎて、言葉を失った。
雑草が腰の高さまで伸びている。いちごの畝があったはずの場所は草に埋もれ、おばあちゃんが大切にしていた小屋は壁の塗装が剥がれ、屋根には苔が生えていた。
「おばあちゃん……」
一年前、祖母は亡くなった。都会での仕事を言い訳に、私は葬儀にすら参列できなかった。
蓮司の会社が大変な時期だから、と。
……馬鹿だ。私は本当に馬鹿だ。
鍵は郵送されていた。震える手で小屋のドアを開ける。
中は埃だらけだったけれど、おばあちゃんの気配がまだ残っていた。使い込まれた鍋。窓辺に並んだジャムの空き瓶。そして——テーブルの上に置かれた、古い革表紙のノート。
『柚月へ』
おばあちゃんの字だ。
震える手でページを開く。
『この日記を読んでいるということは、柚月がこの農園に来てくれたのですね。嬉しいです。おばあちゃんは、ずっと待っていました』
涙が勝手に溢れた。
『この野いちご農園は、おじいちゃんと一緒に始めました。小さな畑だけれど、おばあちゃんの宝物でした。野いちごの小径——覚えていますか? あなたが小さい頃、よく一緒に歩きましたね』
覚えてる。覚えてるよ、おばあちゃん。
赤い野いちごが両脇に実る細い小道。おばあちゃんの手を握って、一粒ずつ摘んだあの夏の日を。
『この小径を、いつか誰かと一緒に歩いてほしい。大切な人と。それが、おばあちゃんの願いです』
大切な人。
五年間、蓮司がそうだと思っていた。でも、彼は私を『重い』と言って捨てた。
「……おばあちゃん、私、失敗しちゃった」
日記を胸に抱いて、声を上げて泣いた。
誰もいない小屋の中で、ようやく泣くことができた。東京では泣けなかった分、全部。
どれくらい泣いただろう。
涙が枯れた頃、日記の続きを読んだ。
『野いちごの世話は、最初は大変かもしれません。でも、土は裏切りません。丁寧に向き合えば、必ず応えてくれます』
土は裏切らない。
人は裏切るけど? ——そんな皮肉が頭をよぎった。
『P.S. 秘密のレシピは、きっとあなたなら見つけられます。おばあちゃんの野いちごジャム、地域の皆さんに愛されていたんですよ。いつか、あなたも作ってみてね』
秘密のレシピ?
日記をめくるけれど、具体的なことは書かれていない。どこかに隠してあるのだろうか。
窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。
荒れ果てた農園。朽ちかけた小屋。なんの当てもない、これからの生活。
でも——不思議と、東京にいた時よりも息がしやすかった。
「……やってみよう、かな」
おばあちゃんの農園を、もう一度。
そう決めた瞬間、玄関のドアがノックされた。
「——誰?」
警戒しながらドアを開けると、そこに立っていたのは——見知らぬ男だった。
身長が高い。日焼けした肌。無造作に伸びた黒髪。切れ長の目。表情は、ほとんど読み取れない。
「……帰ってきたのか」
低い声。愛想のかけらもないトーン。
でも、その声には聞き覚えがあった。
「え……もしかして、凪……くん?」
幼馴染の、水無瀬凪。
十年ぶりの再会は、想像もしていなかった形で訪れた。
*
「……久しぶり」
凪くんはそれだけ言って、私の横をすり抜けて小屋の中に入ってきた。
「ちょ、ちょっと待って、勝手に——」
「芳江さんの農園、見に来てた」
私の抗議を無視して、凪くんは窓際に立ち、外の荒れた畑を見つめる。
「……ひどい状態だ」
「わかってるよ、そんなこと……」
思わず声が尖る。
わかってる。おばあちゃんの農園をこんな状態にしたのは、一年間一度も来なかった私のせいだ。
「責めてない」
凪くんが振り向く。無表情だけど、目だけがどこか柔らかい。
「……お前が帰ってきて、芳江さんも喜んでる」
そう言って、凪くんは作業着のポケットから何かを取り出した。
古い紙。折りたたまれた、少し黄ばんだ紙。
「これ」
差し出されたそれを開くと——子供の絵だった。真っ赤な野いちご。緑の葉っぱ。下手くそだけど、一生懸命描いたのがわかる。そして隅に、『ゆづきより』と書かれた文字。
「……これ、私が描いた?」
「十年前。お前が東京に帰る日に、俺にくれた」
記憶が蘇る。
中学最後の夏休み。毎日おばあちゃんの農園で遊んだ。凪くんは当時、泣き虫で引っ込み思案な男の子だった。年下の私にすら上手く話しかけられなくて、でも、いつも遠くから見ていて——
「覚えてたんだ」
「……忘れるわけない」
凪くんの声が、少しだけ低くなった。
その意味を理解する前に、彼は話題を変えた。
「農業コンサルタントやってる。今は」
「え、凪くんが?」
「……意外か?」
「ううん、そうじゃなくて」
十年で、こんなに変わるものなのか。泣き虫だった少年が、今は背が高くて、日焼けした肌で、寡黙で——でも、不思議と安心する声をしている。
「農園、再生する気あるか?」
単刀直入な質問だった。
「……わからない。やりたいとは思うけど、私、農業の知識なんてほとんどないし」
「教える」
「え?」
「……手伝う。暇だから」
暇だから。
それが凪くんなりの優しさなのだと、なぜかわかった。
「本当に、いいの?」
「芳江さんに世話になった。その恩返し」
凪くんはそう言って、外を見る。
「明日から始める。朝五時に来い」
「朝五時!?」
「農作業は朝が基本だ。……寝坊するなよ」
それだけ言って、凪くんは小屋を出て行った。
あっという間の出来事だった。
取り残された私は、手の中の絵を見つめる。十歳の私が描いた、下手くそな野いちご。
「……十年間、持ってたんだ」
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
蓮司に捨てられて、ボロボロになって帰ってきた私。
でも、ここには——ここにはまだ、私を待っていてくれた人がいた。
スマートフォンが鳴る。真理亜からのSNS通知。『新しいジャム専門店で蓮司とデート♡ 幸せ〜』という投稿。
画面を見つめて、そっと通知をオフにした。
「……もう、いいや」
明日は朝五時。凪くんが来る。
私にはやることがある。蓮司たちのことなんて、考えてる暇はない。
おばあちゃんの日記を胸に抱いて、私は古いベッドに潜り込んだ。
明日から、新しい生活が始まる。
……土は裏切らない。
おばあちゃんの言葉を信じて、目を閉じた。
*
「……遅い」
朝五時五分。小屋の前に立っていた凪くんの第一声がそれだった。
「五分だけじゃない……!」
「五分あれば、苗に水をやれる」
反論の余地がなかった。
こうして始まった農園再生の日々は、想像以上に過酷だった。
まず、雑草を抜くところから。腰まで伸びた草を一本一本引き抜く作業は、都会育ちの私の体力をあっという間に奪っていった。
「……休むか?」
凪くんが水筒を差し出す。私が息を切らしているのを見かねたらしい。
「大丈夫。まだ、やれる」
「無理するな。倒れたら意味がない」
「でも——」
「座れ」
有無を言わせない声だった。
渋々座ると、凪くんは私の隣に腰を下ろした。無言で水筒のお茶を飲む。
沈黙。でも、不思議と気まずくなかった。
「……お前の作業、丁寧だな」
ぽつりと凪くんが言った。
「え?」
「雑草の抜き方。根っこまでちゃんと取ってる。普通、素人は葉だけ取って終わりにする」
「だって、根っこ残したらまた生えてくるでしょ。おばあちゃんがそう言ってた」
「……芳江さんに似てる」
凪くんの目が、ほんの少し和らいだように見えた。
「その丁寧さがあれば、野いちごは育つ」
褒められているのだと気づくのに、三秒かかった。
「あ、ありがとう……?」
「別に。事実を言っただけだ」
凪くんは立ち上がり、また黙々と作業に戻る。
——この人、褒めるのも不器用だな。
そう思いながら、私も立ち上がった。
*
二週間が経った頃、農園は少しずつ形を取り戻し始めていた。
雑草が消え、土が見えるようになった。凪くんが持ってきた野いちごの苗を植え、毎日水をやる。
「土の状態、良くなってきた」
凪くんが土を手に取り、指で揉む。
「芳江さんが作った土だ。一年放置されても、基礎がしっかりしてる」
「おばあちゃん、すごかったんだね」
「ああ。この辺りで一番の農家だった」
知らなかった。子供の頃は、ただ美味しい野いちごを食べられる場所としか思っていなかった。
「柚月」
凪くんが私を見る。
「お前も、できる。芳江さんの血を引いてる」
「……そうかな」
「俺が言うんだから間違いない」
また、不器用な励まし。
でも、その言葉が嬉しかった。蓮司は一度も——私の能力を認める言葉なんて、言ってくれなかった。
『君がそうしたくてしたんだろ』
『重いんだよ、正直』
ふと、蓮司の声が頭をよぎる。
「——どうした」
凪くんが私の顔を覗き込む。
「顔色悪い。何か思い出したか」
「う、ううん。何でもない」
嘘だと見抜かれたのか、凪くんは眉をひそめた。でも、追及はしてこなかった。
代わりに、
「今日はここまでにしよう。昼飯、食べていけ」
そう言って、彼は小屋の方へ歩いていった。
テーブルの上に並んだのは、おにぎりと味噌汁。凪くんが作ったらしい。
「……料理、できるんだ」
「一人暮らし長いから」
「彼女とかいないの?」
聞いてから、なんでそんなこと聞いたんだろうと後悔した。
凪くんは箸を止めて、じっと私を見た。
「……いない」
「そ、そう」
「お前は」
「え?」
「彼氏。いたんだろ」
心臓が跳ねた。
「……いた。でも、もう別れた」
「そうか」
凪くんはそれ以上何も聞かなかった。
ただ、「味噌汁、冷めるぞ」とだけ言って、自分の食事に戻る。
その優しさが——追及しないという優しさが、今の私には沁みた。
*
農園再生を始めて一ヶ月。
野いちごの苗は順調に根付き、小さな白い花を咲かせ始めていた。
「いい感じだ。この調子なら、秋には収穫できる」
凪くんの言葉に、思わず顔がほころぶ。
「本当? 嬉しい……!」
「……ああ」
凪くんが目を逸らす。耳が少し赤い気がするのは、日焼けのせいだろうか。
その夜、私は久しぶりにスマートフォンを開いた。
真理亜のSNSは見ないようにしていた。でも、農園のことを調べようとインスタを開いた瞬間——
『田舎に逃げた負け犬の末路www』
タイトルを見て、血の気が引いた。
真理亜のストーリー。私の写真——いつの間に撮られたのか、農作業をしている後ろ姿——が載せられていた。
『五年も尽くして捨てられて、今は畑仕事とかwww 哀れすぎて笑える』
『まあ蓮司みたいなエリートには不釣り合いだったよね。私の方がふさわしいに決まってる』
コメント欄には、真理亜の友人たちからの「ウケるw」「田舎で泥まみれとか終わってる」という言葉が並んでいた。
手が震えた。
——なんで。なんで、放っておいてくれないの。
私はただ、静かに暮らしたいだけなのに。
『蓮司の会社、すごく順調なの♡ 真理亜の実家が出資してくれて、オフィスも広くなったんだ〜』
追い打ちをかける投稿。蓮司と真理亜のツーショット。高級レストランでの食事風景。
五年間、私が貯金を削って支えた会社。それを今は、真理亜の実家のお金で回している。
『柚月ちゃんに魅力がなかっただけでしょ?』
真理亜の声が頭の中で響く。
「……私が、悪いの?」
涙が溢れた。
自分が惨めで、情けなくて、どうしようもなかった。
あの人たちは東京で華やかに暮らしている。私は田舎で泥まみれになっている。客観的に見たら、負け犬なのは——私の方だ。
「……っ、」
嗚咽が漏れる。小屋の中で一人、膝を抱えて泣いた。
どれくらい経っただろう。
コンコン。
ドアがノックされた。
「……誰」
声が掠れている。
返事はない。代わりに、ドアの隙間から何かが差し込まれた。
——瓶?
手に取ると、それは野いちごジャムだった。手作りの、小さな瓶。ラベルには『水無瀬』と書かれている。
凪くんが作った?
ドアを開けると、凪くんの後ろ姿が見えた。月明かりの中、畑の方へ歩いていく。
「凪くん!」
呼び止めると、彼は振り向いた。
「……食べろ。芳江さんのレシピで作った」
「なんで——」
「顔見ればわかる」
凪くんは無表情のまま、でも静かに言った。
「お前が泣いてる時の顔。昔から変わってない」
子供の頃のことを言っているのだと気づいた。私が蛙を踏んでしまって泣いた時も、凪くんは何も言わずにハンカチを差し出してくれた。
「……何があったか知らない。聞かない。でも」
凪くんが一歩、近づく。
「お前の作る野いちごは、昔から特別だった。それだけは、忘れるな」
月明かりの下、凪くんの目がまっすぐ私を見ていた。
「芳江さんも言ってた。『柚月の野いちごは、愛情がこもってる』って」
「おばあちゃんが……」
「ああ。だから、誰に何を言われても関係ない。お前は——お前のままでいい」
涙が、また溢れた。
でも、さっきとは違う涙だった。
「……凪くん」
「ジャム、食べろ。美味いから」
それだけ言って、凪くんは歩いていった。
手の中の小さな瓶を胸に抱いて、私は小屋に戻った。
スプーンですくったジャムは、甘酸っぱくて、優しい味がした。
——ああ、おばあちゃんの味だ。
スマートフォンの画面を見る。真理亜の投稿は、まだそこにあった。
でも、もう泣かない。
私には、野いちごがある。おばあちゃんの農園がある。そして——凪くんがいる。
『お前のままでいい』
その言葉を、何度も心の中で繰り返した。
*
「秘密のレシピ……どこにあるんだろう」
おばあちゃんの日記を何度読み返しても、具体的なレシピは書かれていなかった。
『秘密のレシピは、きっとあなたなら見つけられます』
見つけられる? どこに?
小屋の中を探し回った。棚の上、引き出しの中、古い本の間。
見つからない。
「何してる」
凪くんが小屋に入ってきた。朝の作業を終えて、お茶を飲みに来たらしい。
「おばあちゃんのレシピを探してるの。日記に『秘密のレシピ』って書いてあるんだけど——」
「ああ、あれか」
「知ってるの!?」
「芳江さんのジャム、地域で有名だった。俺の親父も『レシピを教えてくれ』って何度も頼んだけど、笑って断られてた」
「じゃあ、凪くんも知らないんだ……」
「ああ。でも——」
凪くんが窓の外を見る。野いちごの畑の向こう、小さな小道が続いている。
「芳江さん、いつもあの小径で何かしてた。朝早く、一人で」
野いちごの小径。
私とおばあちゃんが一緒に歩いた、あの道。
「行ってみる」
走り出した私を、凪くんは無言で見送った。
小径は、記憶よりも狭かった。子供の頃は広く感じた道が、今は両肩に葉が触れるくらい。
野いちごの実が、道の両脇に赤く輝いている。
おばあちゃん、ここで何をしてたの?
小径の終点には、小さな祠があった。昔からあったけれど、中を見たことはなかった。
扉を開ける。
中には、古い木箱が一つ。
「……これ」
震える手で蓋を開けると——ノートが入っていた。表紙には、おばあちゃんの字で『野いちごジャムのレシピ』と書かれている。
「あった……!」
ページをめくる。そこには、詳細なレシピが記されていた。
『材料:野いちご 500g、砂糖 200g、レモン汁 大さじ1、はちみつ 大さじ2、そして——愛情をたっぷり』
最後の一文に、思わず笑った。おばあちゃんらしい。
でも、続きを読んで息を呑んだ。
『大切なのは、野いちごを摘む時間です。朝露が乾く前、朝の五時から六時の間に摘んだ野いちごが一番甘い。そして、ジャムを煮る時は、心を込めて。誰に食べてもらいたいか、想像しながら。その想いが、味になります』
心を込めて。誰に食べてもらいたいか、想像しながら。
『私はいつも、柚月のことを想いながら作っていました。この子が食べてくれる時の笑顔を。だから、このレシピを「秘密」にしていたのです。だって、愛情の量は人には教えられませんから』
涙が頬を伝った。
おばあちゃんのジャムが美味しかった理由。それは、特別な材料でも技術でもなく——私への愛情だったのだ。
ノートの最後のページには、こう書かれていた。
『柚月、あなたにも、愛情を込めて作れる相手ができますように。その時、このレシピが役に立てば嬉しいです。おばあちゃんより』
愛情を込めて作れる相手。
凪くんの顔が、ふと浮かんだ。
——え、なんで?
慌てて首を振る。違う、今はそんなこと考えてる場合じゃない。
「柚月」
後ろから声がした。振り向くと、凪くんが立っていた。
「見つかったか」
「うん。おばあちゃんのレシピ、ここにあった」
「……そうか」
凪くんはノートを覗き込み、最後のページを見て——少しだけ、目を細めた。
「芳江さんらしい」
「うん。おばあちゃんらしい」
二人で小径を歩いて戻る。
野いちごの実が、朝日を浴びてキラキラ輝いていた。
「凪くん」
「なんだ」
「私、このレシピでジャムを作る。おばあちゃんの想いを、ちゃんと継ぎたい」
「ああ」
「だから——これからも、手伝ってくれる?」
凪くんは足を止めた。私も立ち止まる。
長い沈黙の後、彼は言った。
「……当たり前だ」
その声が、朝の空気の中で、優しく響いた。
*
「完売!?」
「ああ。開始三十分で」
地元のマルシェ。初出店。
おばあちゃんのレシピで作った野いちごジャムは、あっという間に売り切れた。
「嘘……信じられない」
「信じろ。お前が作ったんだ」
凪くんが、珍しく口角を上げている。笑顔——とまでは言えないけれど、この数ヶ月で一番柔らかい表情だった。
「お嬢さん、このジャム最高だったよ! 芳江さんの味を思い出したわ」
常連らしいおばあさんが声をかけてくる。
「芳江さんの孫なんでしょう? やっぱり血は争えないねえ」
「ありがとうございます……!」
頭を下げる私の横で、凪くんが静かに頷いている。
「次はいつ出店するの? また買いに来るから!」
「来月も来ます! もっとたくさん作ってきます!」
マルシェが終わる頃には、SNSで『幻の野いちごジャム復活!?』という投稿が拡散され始めていた。
「すごい……本当に」
小屋に戻り、スマートフォンの画面を見つめる。
『芳江さんのジャム、孫娘が継いだらしい』
『あの味が復活するなら買いたい!』
『どこで買えるの? 通販は?』
予想もしていなかった反響だった。
「柚月」
凪くんが一通の封筒を差し出す。
「これ、親父から」
開けてみると、名刺が入っていた。東京の百貨店バイヤーの名刺。
「……え?」
「マルシェの様子を見てたらしい。『ぜひ取引したい』と連絡があった」
「百貨店……? 私のジャムが……?」
「芳江さんのジャムは、昔から業者が狙ってた。でも芳江さんは断り続けてた。地域の人のために作りたいから、って」
凪くんが窓の外を見る。
「でも、お前が決めることだ。どうする?」
百貨店との取引。それは、大きなチャンスだ。でも——
「考えさせて。おばあちゃんが大切にしてたこと、守りたいから」
「ああ。それでいい」
凪くんは頷いて、立ち上がった。
「今日は疲れただろ。早く寝ろ」
「凪くんは?」
「……帰る」
「あ、あの」
凪くんを呼び止める。
「今日、ありがとう。凪くんがいなかったら、私——」
「お前の力だ」
遮る声は、でも優しかった。
「俺は手伝っただけだ。ジャムを作ったのも、売ったのも、お前だ。それを忘れるな」
「……うん」
「じゃあな」
凪くんが去っていく。月明かりの中、その背中を見送った。
——私の力、か。
五年間、蓮司は一度も言ってくれなかった言葉だ。
『君がそうしたくてしたんだろ』
『俺は頼んでない』
蓮司にとって、私の努力は当たり前のこと。感謝される対象ですらなかった。
でも、凪くんは違う。
私の力だと、認めてくれる。私がやったことだと、言ってくれる。
その違いが、今ならわかる。
スマートフォンに通知が来た。
見ると、真理亜からのDMだった。
『ジャム売れたんだ〜 よかったね。でも、所詮田舎の趣味でしょ? 蓮司の会社は億単位の取引してるけどね♡』
一ヶ月前の私なら、傷ついていただろう。
でも今は、ただ——哀れだと思った。
億単位の取引? それが何だというのだろう。私が作ったジャムで、誰かが笑顔になった。『芳江さんの味を思い出した』と、喜んでくれた人がいた。
そんなお金で測れない価値が、どこにあるか。真理亜には一生わからないだろう。
DMを既読スルーして、私は画面を閉じた。
窓の外では、月が野いちご畑を照らしている。
小さな成功。でも、確かな一歩。
「おばあちゃん、見ててね」
空に向かって、呟いた。
*
秋。
野いちごの収穫が本格化し、私は毎日畑と小屋を往復する日々を送っていた。
百貨店との取引は、「地域優先」という条件付きで引き受けることにした。おばあちゃんの想いを守りながら、農園を大きくしていく。それが、私の選んだ道だった。
「今日で今季の収穫は終わりだ」
凪くんが畝の間から立ち上がる。日焼けした顔に、汗が光っている。
「凪くん、本当にありがとう。半年間、ずっと手伝ってくれて」
「……礼はいらない」
「でも、凪くんの仕事もあるのに——」
「言っただろ。暇だからって」
嘘だ。凪くんがどれだけ忙しいか、この半年で嫌というほどわかった。県内の農家を回って、コンサルティングをして、それなのに毎日私の農園にも来て。
「ねえ、凪くん」
「なんだ」
「なんで、そこまでしてくれるの?」
凪くんの手が止まった。
長い沈黙。
夕日が、野いちごの小径を橙色に染めている。
「……歩くか」
凪くんがそう言って、小径の方へ歩き出した。私も後を追う。
野いちごの葉が、風にそよいでいる。収穫を終えた畑は、でも来年に向けてすでに準備を始めていた。
「十年前」
凪くんが口を開いた。
「お前が東京に帰る日、俺——言いたいことがあった」
「言いたいこと?」
「……言えなかった。臆病で」
凪くんが足を止める。私も立ち止まった。
振り向いた彼の目が、夕日に照らされて、琥珀色に光っていた。
「好きだった」
心臓が跳ねた。
「十年前から。いや——多分、もっと前から」
「凪くん……」
「お前が東京で幸せなら、それでいいと思ってた。だから、何も言わなかった。でも——」
凪くんの手が、ゆっくりと私の頬に触れた。
「お前が泣いて帰ってきた時、思った。俺は——ずっと後悔してた」
「後悔?」
「あの時言えなかったこと。お前を行かせたこと。ずっと、ずっと——」
凪くんの目が、真っ直ぐ私を見ている。
「お前が幸せなら、それでいいと思ってた。でも——お前を幸せにするのが、俺じゃないってのが、ずっと苦しかった」
涙が溢れた。
蓮司は、五年間一度も——こんな風に、私を見てくれなかった。
「凪くん、私——」
「返事はいらない」
凪くんが首を振る。
「今は、農園を軌道に乗せることが先だろ。俺は——待てる。十年待ったんだ。これからだって」
「……馬鹿」
私は、凪くんの胸に顔を埋めた。
「待たせすぎだよ。十年も」
「……柚月?」
「私も」
顔を上げる。涙でぐしゃぐしゃになった顔を、でも見せたかった。
「私も、凪くんのこと——好き、かもしれない」
「かも、かよ」
「だって、まだわかんないもん。でも——凪くんといると、安心する。凪くんの言葉は、信じられる。凪くんが作ったジャムは、おばあちゃんの味がする」
凪くんの腕が、私を包んだ。
「……それで、いい」
「え?」
「ゆっくり、わかっていけばいい。俺は逃げない。今度こそ」
夕日が沈んでいく。野いちごの小径は、今は二人の影を落としていた。
『この小径を、いつか誰かと一緒に歩いてほしい』
おばあちゃんの言葉が、胸に蘇る。
——おばあちゃん、見つけたよ。一緒に歩く人を。
凪くんの温かさに包まれながら、私は静かに涙を流した。
*
凪くんとの関係が変わってから、毎日が少しだけ眩しくなった。
相変わらず彼は無愛想で口数が少ないけれど、時々見せる柔らかい目線や、不器用に握ってくる手のひらの温かさに、胸が高鳴る。
「……何にやけてる」
「にやけてないよ」
「嘘つけ」
凪くんが鼻を鳴らす。でも、その耳は赤い。
平和な日々。幸せな日常。
でも——その静けさを打ち破るニュースが、飛び込んできた。
「園部さんの会社が倒産?」
耕一さん——凪くんのお父さんが、険しい顔で言った。
「東京で話題になってたベンチャー、あっという間に潰れたらしい。出資してた白石さんのとこが手を引いたんだと」
白石——真理亜の実家だ。
「なんで手を引いたんですか?」
「さあなあ。噂じゃ、社長の女遊びが原因だとか。白石さんの娘と付き合ってたのに、また別の女に手を出したらしい」
蓮司が、真理亜以外の女性に手を出した?
「因果応報だべ。人を裏切る奴は、いつか自分も裏切られる」
耕一さんがため息をつく。
「柚月ちゃん、お前もあの男と付き合ってたんだろ? 災難だったな」
「……はい」
正直、驚きよりも納得の方が大きかった。
蓮司は最初から、自分の利益しか考えない人だった。私を捨てて真理亜に乗り換えたように、真理亜も——用がなくなれば捨てるのだろう。
「柚月」
凪くんが私の手を握った。
「大丈夫か」
「うん。大丈夫。もう、あの人たちのことはどうでもいいから」
本心だった。
蓮司が成功しようが失敗しようが、もう私には関係ない。私には、私の人生がある。この農園がある。凪くんがいる。
でも——この平穏が長くは続かないことを、この時の私はまだ知らなかった。
*
数日後。
小屋の前に、見覚えのある車が止まっていた。
東京ナンバー。高級外車——でも、よく見ると泥で汚れ、ところどころ傷がついている。
車から降りてきた男を見て、私は息を呑んだ。
「……久しぶり、柚月」
蓮司だった。
でも、半年前に見た時とは全く違っていた。
髪はボサボサ。無精髭。スーツは皺だらけで、目の下には深い隈。
あの傲慢で自信に満ちた男は、どこにもいなかった。
「なん、で——」
「会いたかったんだ。お前に」
蓮司が一歩近づく。私は反射的に後ずさった。
「柚月、頼む。俺の話を聞いてくれ」
その目には、かつての冷たさはなかった。代わりにあったのは——縋るような、惨めな光。
「話? 何の話」
声が震えないように、必死で保った。
「聞いてるだろ? 会社が——」
「倒産したって。聞いたわ」
「真理亜の実家に裏切られたんだ。俺は被害者なんだよ。あいつらに嵌められた——」
「だから何?」
冷たい声が出た。自分でも驚くほど。
「それが、私に何の関係があるの」
蓮司の顔が歪んだ。
「柚月、俺たち五年も付き合ってただろ? 婚約までしてた。その絆は——」
「その絆を切ったのは、あなたでしょ」
「あれは——あれは間違いだった。真理亜に騙されてたんだ。お前の方がずっと——」
「やめて」
吐き気がした。
「今更そんなこと言われても、何も感じない」
「柚月、頼む」
蓮司が膝をついた。
あの傲慢だった男が、地面に膝をついている。
「やり直そう。お前の農園、一緒に経営しよう。俺にはビジネスの知識がある。お前のジャム、全国に広められる。二人でやれば——」
「ふざけないで」
声が震えた。怒りで。
「あなた、私の農園を利用する気? 自分の会社が潰れたから、今度は私の成功に乗っかろうって?」
「違う! 俺は本当にお前のことを——」
「五年間、私を支えてくれた? 私の貯金を全部持っていったのは誰? 私を『重い』『飽きた』って捨てたのは誰?」
蓮司が黙った。
「証拠はないと思ってる? あなたのスマホに残ってた真理亜との写真、全部保存してあるの。あの日、私が何も言わずに出ていったと思った?」
蓮司の顔から血の気が引いた。
「あれを公開されたくなかったら、二度と私の前に現れないで」
「柚月——」
「帰って」
「でも俺には、お前しか——」
「彼女には、俺がいる」
背後から声がした。
凪くん。いつの間にか、私の後ろに立っていた。
「誰だよ、お前」
蓮司が睨む。
「柚月の——」
凪くんが一瞬言葉を探し、それから静かに言った。
「柚月を、最初から見てた人間だ」
蓮司の顔が歪んだ。嫉妬? 憎しみ? それとも——ただの惨めさ?
「柚月、お前——こんな田舎者と——」
「田舎者で結構」
凪くんが私の肩に手を置いた。
「少なくとも俺は、柚月を『飽きた』なんて言わない。一生」
蓮司が言葉を失った。
そして——急に笑い出した。
「ははっ、そうか。お前、最初からこいつのことが——」
「違う。私が蓮司と付き合ってる時、凪くんは何も言わなかった。私の幸せを願ってくれてたから」
凪くんの手に、力がこもる。
「でも蓮司、あなたは違った。自分の幸せのために、私を利用しただけだった」
「柚月——」
「帰って。二度と、来ないで」
蓮司は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて、重い足取りで車に向かい、エンジンをかけ——去っていった。
静寂。
「……大丈夫か」
凪くんの声に、張り詰めていた糸が切れた。
「うん……大丈夫」
涙が、溢れた。
でも、それは悲しみの涙じゃなかった。
ずっと心のどこかに刺さっていた棘が、やっと抜けた——そんな感覚だった。
凪くんの腕の中で、私は静かに泣いた。
*
蓮司が去った後、私は小屋の中で凪くんと向かい合っていた。
「……ごめんね、巻き込んで」
「馬鹿」
凪くんが眉をひそめる。
「巻き込むとか、そういう問題じゃないだろ」
「でも——」
「俺がそばにいたいからいる。お前のせいじゃない」
不器用な言葉。でも、それが凪くんだった。
「ねえ、凪くん」
「なんだ」
「さっき言ってくれたこと——『最初から見てた』って」
凪くんの耳が赤くなる。
「……言っちゃったな」
「本当に?」
「嘘つく意味がない」
凪くんが、まっすぐ私を見た。
「十年前からお前を見てた。お前が東京で誰かと付き合ってる時も、お前が幸せならって——でも、本当は」
「本当は?」
「……苦しかった」
その一言が、胸に刺さった。
「お前があの男と幸せそうにしてる写真を見るたび、苦しかった。でも、俺には何も言う権利がなかった。告白もせずに見送ったのは、俺だから」
「凪くん……」
「だから今度は逃げない。お前が何を選んでも、俺はそばにいる。お前が俺を選ばなくても——」
「選ぶよ」
遮る声が、自分でも驚くほど強かった。
「私、凪くんを選ぶ」
「……本気か」
「本気」
立ち上がって、凪くんの前に立った。
「五年間、私は蓮司のために生きてた。彼の夢のために、自分を殺して尽くしてた。でも、それは愛じゃなかった。ただの依存だった」
凪くんが息を呑む。
「凪くんは違う。私を見てくれる。私の力を認めてくれる。私のそばにいてくれる——何も求めずに」
「柚月——」
「私には今、私の夢がある。この農園を、おばあちゃんの想いを、守っていきたいって思う。そして——」
凪くんの手を取った。
「その夢を、凪くんと一緒に叶えたい」
長い沈黙。
やがて、凪くんの腕が私を包んだ。
「……十年待った甲斐があった」
「待たせすぎだって、言ったでしょ」
「ああ。だから——これからは、待たせない」
凪くんの唇が、私の額に触れた。
「俺も、お前と一緒に歩きたい。野いちごの小径を——ずっと」
窓の外では、夕日が野いちご畑を照らしている。
おばあちゃんの小径。私と凪くんの小径。
『この小径を、いつか誰かと一緒に歩いてほしい』
おばあちゃん、約束するよ。
この人と、ずっと——歩いていくから。
*
一年後——。
「いらっしゃいませ!」
小屋を改装したカフェの扉が開き、お客さんが入ってくる。
『野いちごの小径』。それが、このカフェの名前。
おばあちゃんのレシピで作った野いちごジャムを使ったスイーツを提供する、小さなカフェ。オープンから三ヶ月、週末は予約が取れないほどの人気になっていた。
「柚月さん、今日のジャムも最高です!」
常連のお客さんが笑顔で言ってくれる。
「ありがとうございます。おばあちゃんのレシピなんです」
「芳江さんの味、復活させてくれてありがとうね」
その言葉が、何より嬉しかった。
「柚月、裏に来い」
凪くんが厨房から顔を出す。相変わらず無愛想。でも、その目は柔らかい。
「どうしたの?」
「いいから」
手を引かれて、カフェの裏手へ。
野いちごの小径が、夕日に照らされている。赤い実が宝石のように輝いていた。
「ここで待ってろ」
凪くんが少し離れたところに立つ。
「何——」
言いかけた瞬間、凪くんが膝をついた。
「え」
「柚月」
凪くんの手には、小さな箱。開くと、シンプルな指輪が光っていた。
「十年、待った。一年、隣にいた。これからは——一生、一緒にいたい」
「凪くん……」
「俺と、結婚してくれ」
涙が溢れた。
「……もう、十一年も待たせたくせに」
「だから、これからは待たせないって言っただろ」
「馬鹿。不器用」
「ああ。不器用だ。だから——言葉じゃなくて、行動で示す。一生」
「……うん」
頷いた瞬間、凪くんが立ち上がって私を抱きしめた。
「ありがとう」
「こっちこそ」
夕日が沈んでいく。野いちごの小径は、橙色から紫に、紫から藍色に変わっていく。
ふと、おばあちゃんの日記のことを思い出した。
「ねえ、凪くん。おばあちゃんの日記、最後のページ——読んでなかった」
「……そうか」
「見てもいい?」
凪くんが頷く。
小屋に戻り、日記を開く。最後のページ——今まで気づかなかった、糊付けされた紙を剥がすと、そこには——
『柚月へ。
この日記を最後まで読んでいるということは、あなたは農園を継いでくれたのですね。そして、きっと——凪くんと一緒にいるのでしょう。
おばあちゃんは、ずっと知っていました。凪くんがあなたを見つめる目を。あなたが東京に行った後も、時々農園に来て、野いちごの世話をしてくれていたこと。「柚月のために」と言いながら。
柚月、あなたは愛される資格のある人です。自分を犠牲にしなくても、愛してくれる人がいます。凪くんは——あなたを最初から見ていた人です。
おばあちゃんの願いは、一つだけ。
柚月と凪くんが、この野いちごの小径を、一緒に歩く日が来ますように。
その日を、空から楽しみにしています。
芳江より』
涙で文字が滲んだ。
「おばあちゃん……最初から、知ってたんだ……」
凪くんが後ろから私を抱きしめた。
「芳江さんには、敵わないな」
「うん……本当に」
窓の外では、星が瞬き始めている。
野いちごの小径は、今は闇に包まれている。でも、明日になればまた——赤い実が輝く道になる。
「ねえ、凪くん」
「なんだ」
「明日の朝、一緒に小径を歩こう」
「……ああ」
「これからも、ずっと」
「——約束する」
凪くんの腕の中で、私は微笑んだ。
おばあちゃん、見ててね。
私、幸せになるよ。この人と——野いちごの小径を、一緒に歩いていくから。
*
——そして、後日談。
蓮司と真理亜がどうなったか?
蓮司は実家に逃げ帰ったらしい。借金まみれで、再起の目処は立っていないとか。
真理亜は、蓮司の浮気がきっかけで実家からも見放され、SNSのアカウントを消して消息不明になったそうだ。
因果応報、というやつだろう。
でも、私はもう——あの人たちのことを考える時間はない。
だって、私には。
守りたい農園がある。
継ぎたいおばあちゃんの想いがある。
そして——隣に、凪くんがいる。
それだけで、十分すぎるほど幸せだから。
『もう遅いです、私には最高の理解者がいますので』
——完——




