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学校一の美少女が俺に告白してきたのはいいんですが、なぜか毎回「ドン」してくるので困っています

作者: 宵先誠
掲載日:2026/05/26

学校一の美少女に告白されました。

しかも壁ドン付きです。

さらに翌日、床ドンされました。

あと天井ドンもあります。

主人公は割と困っています。

よろしくお願いします。

# 第1話 「床ドンってなに?」


「好きです。付き合ってください」


 その言葉が耳に届いた瞬間、俺は思わず足を滑らせて廊下に盛大に転んだ。


「……え」


「好きです。付き合ってください」


 もう一回言われた。


 俺、神山透かみやまとおるは床にへたり込んだまま、目の前に立つ人物を見上げた。


 氷室雪菜ひむろゆきな


 俺たちの高校──東都第一高校において、もはや「存在そのものが伝説」と形容される女子だ。長い黒髪、スラリとした立ち姿、整いすぎた顔立ち。おまけに成績は学年トップで、部活は弓道部のエース。近寄りがたいオーラが半径五メートルを完全支配しており、男子が声をかけようとしただけで石になったという都市伝説まである。


 その氷室雪菜が。


 なぜか今、俺の前に仁王立ちして、無表情に告白している。


「……俺に?」

「神山透くん。あなたに言っています」

「俺、神山透、ですよね」

「そうですね」

「クラスで三ヶ月間、一度も話したことのない神山透、ですよね」

「……そうですね」


 一瞬、氷室さんの目が泳いだような気がした。


 俺は床から立ち上がり、制服の埃を払いながら状況を整理しようとした。放課後の廊下。人の少ない東棟の三階。窓から夕陽が差し込んでいる。絵になる場面だな、と一部の脳みそが呑気に感想を言っていた。


「あの、なんで俺、なんですか?」

「……好きだからです」

「いや、それは聞こえてましたけど。その、理由というか——」

「神山くん」


 氷室さんが一歩、こちらに近づいた。


 俺は一歩、後ずさった。


 氷室さんがもう一歩近づいた。


 俺はもう一歩後ずさった。


 この動作が三回繰り返されたところで、俺の背中が廊下の壁にぶつかった。


 逃げ場がない。


 氷室さんがゆっくりと腕を上げて——。


 バン。


 壁を思いっきり叩いた。


「…………」

「…………」


 沈黙。


 俺と氷室さんの顔の距離は、十五センチほど。


 氷室さんの黒い瞳が、まっすぐに俺を見ている。


「壁、ドン……?」

「はい」

「なんで?」

「……逃げそうだったので」


 確かに逃げようとしてた。でもそれが壁ドンに繋がる理由がわからない。


「あの、氷室さん。壁ドンって、一般的には壁に手をついて相手を見つめる、みたいな——」

「しています」

「してるんですけど、なんか……圧がすごい」


 見つめてる、というより見据えてる感じだ。瞬きが少ない。無表情。ただ真剣な眼差しだけがある。こ、怖い。可愛いのに怖い。


「お返事を聞かせてください」


 氷室さんが静かに言った。


 俺の心臓が変な音を立てた。


 だって、こんなの——こんな状況、人生で一度も想定したことがなかった。俺は神山透、十七歳、クラスで存在感ゼロ、友人は二人、特技は気配を消すこと(意図せず)。そんな俺が学校一の美少女に壁ドンされて告白されている。


 これ夢?


「夢じゃないです」


 声に出てた。


「神山くん、お返事は?」

「あ……えっと」


 喉が渇く。なんで喉渇くの、こういうとき。


「……わかりました」

「え?」

「つきあいます」


 俺の口が勝手にそう言っていた。


 氷室さんの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。そして——初めて、笑った。かすかに、でもたしかに。


「……よかった」


 壁を叩いた手が離れる。一歩下がった氷室さんはもとの無表情に戻っていたが、耳の先が少しだけ赤かった。


「また明日」

「あ、はい」


 彼女は踵を返して廊下を歩いていった。


 俺は壁にもたれながら、ゆっくりと床にずり落ちた。


 なにが起きたんだ。


 なにが起きたんだ俺の人生。


---


# 第2話 「なんか今日も来た」


 翌朝。


 俺、神山透は学校に来たことを少し後悔していた。


 後悔の理由は単純で、昨日のことが夢だったのか現実だったのかの判断がまだついていないからだ。


 教室に入ると、いつも通りの朝が広がっていた。うるさい男子グループ、スマホをいじる女子、黒板に落書きする誰か。俺は自分の席に座り、カバンを机に置いた。


「よお、透」


 声をかけてきたのは、隣の席の里中賢二さとなかけんじ。俺の数少ない友人の一人だ。


「なんかあった?顔が死んでる」

「……昨日、告白された」

「はあ?」

「氷室さんに」

「はあ???」


 里中の声が裏返った。


「……本気で言ってる?」

「俺も本気かどうかわからない」

「どういうこと??」

「氷室さんに壁ドンされながら告白された」

「死んでるだろお前今」

「生きてる……多分」


 そのとき、教室の扉が開いた。


 氷室雪菜が入ってきた。


 教室の空気が一瞬で変わった。いつものことだ。彼女が現れると、男子はそっと目を逸らし女子は「おはよう」と小声で言う。そして彼女は無言でうなずきながら自分の席——俺の斜め後ろ——に座る。


 今日もそうなるかと思った。


 ならなかった。


「神山くん」


 呼ばれた。


 俺の周囲一メートルが静まり返った。


「おはようございます」


 氷室さんが俺に向かって言った。


 教室が爆発した。音のない爆発が。


 俺は弾かれるように振り返った。


「お、おはようございます」

「昨日、ちゃんと帰れましたか」

「は、はい」

「よかったです」


 氷室さんは無表情のまま頷いた。それだけ言って、自分の席で教科書を取り出した。


 俺の後ろで里中が「お前どうなってんの」と震えた声で言うのが聞こえた。


 全力で無視した。


---


 休み時間、俺はそっと廊下に出た。


 頭を冷やしたかった。


 昨日のことを整理したかった。


 氷室さんとつきあうことになったのだろうか、俺は。


「神山くん」


 振り向くと氷室さんがいた。


「っ、びっくりした!」

「少し話せますか」

「あ、はい」


 氷室さんはきょろきょろと廊下を確認してから、俺の袖をつまんだ。そのまま引っ張られ、人気のない踊り場まで連行された。


「あの……?」

「昨日のこと」

「はい」

「後悔していませんか」

「……してないです。多分」

「多分」

「いや、してないです」

「……そうですか」


 氷室さんがかすかに息を吐いた。


「あのですね、神山くん」

「はい」

「私、恋愛が……よくわからなくて」

「え」

「ドラマとか映画とかで勉強したんですけど」


 そう言って彼女はスマートフォンを取り出した。そこには「カップルがすべきこと15選」という記事が開かれていた。


「……一緒に確認してもいいですか」

「え、なんで今??」


 俺が困惑していると、氷室さんは真剣な表情でスクロールして、ぴたりと止まった。


「まず……「おはよう」と挨拶する、は済みました」

「朝それやってたの!?」


 そうか。あれはミッションをこなしていたのか。


「次が……「二人で昼食を食べる」です」

「あの、ペースが速くないですか」

「早めに進めたほうがいいかと思って」

「なんで?」

「……期末試験が来月あるので」


 なんでそこが関係するの。


「昼食、一緒に食べましょう」

「い、いいですけど」


 これが二人の関係の始まりだった。


---


# 第3話 「床ドンは想定外だった」


 昼食の話になったはいいが、問題は場所だった。


 俺と氷室さんが一緒に昼食を食べる。それだけで教室内のパワーバランスが崩壊しかねない。


「屋上、使えますか」と氷室さんが言ったのでそこにすることになった。


 屋上は普段施錠されているが、なぜか氷室さんは鍵を持っていた。


「弓道部に貸してもらいました」

「なんで弓道部が屋上の鍵を」

「練習のためです」

「屋上で弓道するの!?」

「……月一回ほど」


 物騒な高校だった。


 屋上に出ると、青空が広がっていた。風が気持ちいい。なるほど、これは確かにいい場所だ。


 二人並んで柵の近くに座り、それぞれが持ってきた弁当を出した。


 俺はコンビニのおにぎり三個。


 氷室さんは……三段重ねの豪華な弁当箱だった。


「それ、手作り?」

「はい。毎朝作っています」

「すごい」

「いただきます」

「いただきます」


 しばらく沈黙の中で食べていた。


 居心地は……悪くなかった。


 なんというか、氷室さんとの沈黙は不思議と圧迫感がない。静かなんだけど、冷たくない。


「神山くん」

「はい」

「好きになった理由、聞きたいですか」

「気になります」


 氷室さんが箸を置いた。ちょっと真剣な顔になった。


「去年の文化祭の準備のとき」

「うん」

「体育館の椅子を並べていたんですけど」

「うん」

「一番後ろの列だけ一脚足りなくて、やり直そうとみんながなった」

「……うん」

「神山くんが一人で隅に椅子を取りに行って、余った椅子を四個きれいに重ねて壁際に置いていた」

「……え、それだけ?」

「それだけです」

「一年前の、そんな細かいこと」

「見てました」

「俺のこと、そのとき初めて認識した感じ?」

「……していたかもしれません、それ以前から」


 氷室さんがさらりと言った。


 え、じゃあ以前から俺のこと見てたってこと?


「どのくらい以前から」

「……二年くらいかもしれません」

「え!?中学? 同じ中学だっけ!?」

「隣の中学です。弓道の試合で会いました」

「俺、弓道やってないけど?」

「……応援に来てた人の中に」


 俺はここまで自分が知らなかったところで認識されていたことに気づいて、なんとも言えない気分になった。恥ずかしいのか嬉しいのかよくわからない。


「神山くんって、無自覚に気づかいができる人ですよね」


 氷室さんが静かにそう言った。


「そういう人が……ずっと、好きでした」


 俺は空を見た。


 青かった。


 すごく青かった。


 どうしよう、なんかちょっと胸が痛い。


「……よかった」

「え?」

「俺も……気づいてなかっただけで、氷室さんのこと嫌いじゃないです。むしろ……」


 そこで言葉が詰まった。


「むしろ?」

「……何でもないです」


 氷室さんが「そうですか」と言って、箸を持った。微妙に口元が緩んでいた気がした。


---


 午後の授業が終わって帰ろうとしたとき、問題は起きた。


 俺の教室の前の廊下に、見知らぬ上級生が三人立っていた。


「神山?」


 俺と同じクラスの、女子グループが声をかけてきた先輩たちらしい。


「あんた、氷室と付き合ってるって本当?」


 なんで知ってるんだよ一日しか経ってないのに。


「……そのような方向で話が進んでいると思います」

「何それ。氷室を傷つけたら承知しないからね」

「わかりました」


 先輩たちがにらみつけながら去っていく。俺はため息をついた。


 そして振り向いたら、また氷室さんがいた。


「びっくりするのやめてほしい」

「……先輩たちに何か言われましたか」

「傷つけたら承知しないと」

「……余計なことを」


 氷室さんが小声でつぶやいた。珍しく眉根を寄せている。


「気にしないでください。神山くんは何もしていないのに」

「ありがとうございます」


 俺が言うと、氷室さんはうなずいた。


 そして何の前触れもなく、廊下に片膝をついて——。


 バン。


 床を叩いた。


「…………」

「…………」


 床ドンが起きた。


 廊下に片膝をついた氷室さんが、見上げるように俺を見ている。


「神山くん」

「は、はい」

「大丈夫ですか」


 どういう状況なんだこれは。


「あの、氷室さん。今なんで床ドンしてるんですか」

「……先輩たちに圧をかけられたので。フォローしたくて」

「床ドンでフォローになりますか」

「……ドラマで見ました」

「どのドラマ??」


 氷室さんが立ち上がった。膝についた埃を払っている。


「正直に言います。状況への対応方法が、まだよくわからないことがあります」

「そうなんですね」

「でも神山くんを大事にしたいという気持ちは本物です」

「……そうですか」

「はい」


 また胸が痛い。


 この人、天然にこういうことを言う。


「氷室さん、一つ聞いていいですか」

「はい」

「なんでそんなにドンするんですか」

「……距離を縮めようとしています」

「普通に話しかけてくれるので大丈夫です」


 氷室さんが少し考えた。


「そうですね」

「うん」

「わかりました。以後気をつけます」


 ほっとした。


 ほっとしたのに、なんで少し残念な気持ちがあるんだ俺は。


---


# 第4話 「天井ドンは予想の外だった」


 それから一週間が経った。


 氷室さんとの関係は、外から見ると「二人が昼食を一緒に食べている」以外ほぼ変化がなかった。が、内側では着実に何かが変わっていた。


 朝、必ずおはようと言い合う。


 授業の合間に目が合うと、かすかに頷き合う。


 帰り道が同じ方向だとわかって、途中まで一緒に帰るようになった。


 会話は少ない。でも不思議と充実している。


 俺の友人・里中は、この状況を「意味がわからなすぎる」と毎日言っていた。


「お前が氷室さんと付き合ってるって、もうクラス全員知ってるからな」

「知ってた」

「女子の間では「なぜ神山」って議論が続いてるぞ」

「知ってた」

「お前は気にならないの?」

「気になるけど、どうしようもないし」


 俺はそう言って窓の外を見た。


「……氷室さんが俺を選んだのは、俺にはよくわからない理由だけど。本人がそう言ってるんだからそうなんだろうな、と思って」

「……なんか大人だな、お前」

「そうか?」

「俺だったら有頂天になってる」


 里中が笑った。俺も笑った。


---


 問題が起きたのは、放課後だった。


 俺は補習を受けていた。数学が少々苦手なのだ。補習の教室は五階の特別教室で、終わった頃には日がかなり傾いていた。


 廊下を歩いていると、上から声が聞こえた。


「神山くん」


 上?


 見上げると、氷室さんが窓から身を乗り出していた。ここは五階。もう一段上が屋上への踊り場になっている、その窓から。


「どこ行ってたんですか。探してました」

「補習を受けてました。なんでそこにいるんですか」

「屋上で弓道の自主練をしていたら鍵が閉まりました」

「え、閉じ込められてるの!?」

「……そうです」


 普通に言うな。


「今行きます!」


 俺は踵を返して階段を駆け上がった。屋上への扉の前に出ると、確かに施錠されていた。


「氷室さん、聞こえますか」

「聞こえます」


 扉の向こうから返事が来た。


「管理の先生に言って鍵を開けてもらいます」

「……お願いします」


 俺は教員室に走り、管理の先生を連れてきた。先生が鍵を開けると、氷室さんが扉の向こうに立っていた。弓道の道具をしっかり持って、無表情に。


「よかった」

「ご迷惑をおかけしました」と先生に氷室さんが頭を下げる。先生は苦笑しながら「次は早めに言いなさい」と言って去っていった。


「よかった……」

「神山くん」


 振り向くと氷室さんが一歩前に出てきて——。


 足元の弓の弦入れ袋がひっかかって。


 氷室さんがバランスを崩した。


 とっさに俺が手を出した。


 氷室さんが俺につかまって、二人で踊り場の壁に背中から当たった。


 バン。


 壁が鳴った。


 俺の背中が壁。氷室さんが俺につかまって。顔と顔の距離、二十センチ。


「…………」

「…………」


 またこれか。


「今のは俺が壁ドンされた感じになりますね」

「……事故です」

「わかってます」


 氷室さんがゆっくりと体を起こした。俺の腕をつかんでいた手が離れる。


「大丈夫ですか、足は」

「……大丈夫です。ありがとうございます」


 耳が赤い。


 さっきより赤い。


「神山くん」

「はい」

「……来てくれて、よかったです」

「当たり前ですよ」


 そう言ったら、氷室さんがかすかに目を瞬いた。


「当たり前、ですか」

「俺……一応、氷室さんの彼氏なので」


 初めて自分でその言葉を使った。


 なんか、恥ずかしい。


 氷室さんも少し黙った後、小さく「そうですね」と言った。それだけで充分すぎるほど嬉しそうな顔をしていた。


---


 廊下を並んで歩きながら、ふと思った。


 この一週間、俺は氷室さんのことをどう思っているのか。


 正直に言えば——好きだ。


 最初から好きだったわけじゃない。でも近くにいるうちに、じわじわと。彼女の真剣な目とか、へたくそな距離の縮め方とか、弁当を毎朝作ってくることとか、屋上で弓を引く横顔とか。


 そういうものが、全部、好きだ。


 言えないけど。


 そのとき——。


「ちょっとよろしいですか」


 廊下の向こうから声がした。先ほどの三人の先輩とは別の、また別の上級生が五人、立っていた。全員男子。


「神山くん、だよね。氷室と付き合ってるって聞いたけど」

「はい」

「俺、二年前から氷室さんに告白してたんだ。十回以上。なのに君が突然——」


 この話の着地点が見えてきた。面倒なやつだ。


「いや、だからってこっちに言われても」

「氷室さんに相応しいかどうかっていう話をしたい」

「俺が?」

「そう。正直言うと、君じゃ釣り合わないと思うんだよね。どこがいいのか、正直聞かせてほしい」


 俺は少し考えた。


 どこがいい、か。


 言えないことのほうが多い。でも一つだけ、言えることがある。


「俺は氷室さんに選んでもらいました。それだけです」

「それだけ?」

「はい」


 先輩が顔を赤くした。


「だから——」

「神山くん」


 氷室さんが前に出た。


 先輩たちが一瞬、石になった。当然だ。氷室さんのオーラがある。


「彼は私が選びました。それ以外に理由が必要ですか」

「……氷室さん、でも」

「必要ないと思います」


 きっぱり言った。


 先輩たちが押し黙った。


 氷室さんは一歩前に出て、俺の隣に立った。


「行きましょう、神山くん」

「……はい」


 俺たちは並んで廊下を歩いた。先輩たちの横を、堂々と。


 少し歩いたところで、氷室さんが小声で言った。


「さっきの、カッコよかったです」

「え、俺が?」

「俺は氷室さんに選んでもらいました、って言ったところが」

「……恥ずかしいのでもう言わないでください」

「もっと言ってほしいんですが」

「言いません」


 氷室さんが小さく笑った。


 声を出して笑うの、初めて聞いた。


---


# 第5話 「ドンの正体」


 三週間後。


 俺たちはいつも通り屋上で昼食を食べていた。


「ところで」と俺は切り出した。

「はい」

「壁ドンとか床ドンとか、あれどこで覚えたんですか」

「……ドラマです」

「うん、前も言ってたけど」

「恋愛の教科書として使っていました」

「どんなドラマ?」

「「愛するということ」という古いドラマで」


 聞いたことない。


「そのドラマでヒロインが壁ドンされて、それが恋愛の始まりになっていたので」

「なるほど」

「積極的に使えばうまくいくかと思いました」

「壁ドンって普通、男性から女性にするものではと」

「……そうなんですか」

「一般的にはそうかと」


 氷室さんが少し考え込んだ。


「でも壁ドンして正解でしたよね」

「……え?」

「逃げようとしていた神山くんが、止まりました」

「まあ逃げられなかっただけで」

「あの後、断りませんでした」

「それは——」


 俺は言葉に詰まった。


 その通りだ。断れなかったのは、壁に追い詰められたからじゃなかった。あのとき、近くで見た氷室さんの顔が——真剣で、怖くて、でも少し震えているような気がして——断れなかった。


「……そうですね」

「神山くんは逃げ足が速いので」

「俺そんな感じに見えてます?」

「自己評価が低いです。いつも少し引いてる」

「……気づいてたんですね」

「見てましたから」


 二年間、見てたんだよな。


「俺も……氷室さんのこと、ちゃんと見ていたかったです。見えてなかっただけで」

「今は見えていますか」

「……見えてます。すごく」


 氷室さんが箸を置いた。


 なんかいつもより顔が近い。


「神山くん」

「はい」

「もしまた逃げそうになったら」

「はい」

「またドンします」


 俺は笑った。


「氷室さん、ドン以外でも引き止められますよ」

「どうやって」

「例えば……手を、つなぐとか」


 口から出てから、恥ずかしくて死にそうになった。


 なんでそんなこと言った俺。


 氷室さんは少しの間、黙った。


 そして——屋上の柵の前、弁当を片付けて。


 俺の手に、そっと手を重ねた。


「こうですか」


 小さくて、温かかった。


「……そうです」


 俺もそっと、握り返した。


 氷室さんの耳が、またいつもより深く赤くなった。


 空が青かった。


 風が気持ちよかった。


---


# 第6話 「文化祭が来た」


 文化祭当日。


 俺のクラスはカフェをやることになった。俺の担当は「案内係」。要するに入口で呼び込みをするやつだ。


「神山くん、サマになってる」と里中がニヤニヤしながら言った。

「うるさい」

「氷室さんも来るんだろ?」

「弓道部の演武が午前中あって、昼から自由だって言ってた」


 里中がにやりとした。


「彼女と文化祭か。青春だな」

「うるさい」


 午前中は普通に過ごした。


 午後になって、クラスのカフェに氷室さんが来た。制服のまま、少しだけ髪をゆるく結んで。いつもよりほんの少し雰囲気が柔らかい。


「来ました」

「ありがとうございます。どうぞ」

「神山くんはいいんですか」

「あと十分で交代なので一緒に回りましょう」


 席に案内すると、氷室さんはメニューを真剣に見た。


「何がおすすめですか」

「スコーンが評判いいです」

「ではそれを」


 注文して待つ間、氷室さんは静かにあたりを見回していた。


「楽しいですか」と俺は聞いた。

「……はい。こういうの、苦手と思ってたんですが」

「こういうの?」

「人が多いところ」

「今日は多いですね」

「でも神山くんがいると、そんなに気になりません」


 さらっと言うなこの人は。


 こっちの心臓に悪い。


 スコーンが運ばれてきた。氷室さんはひと口食べて「おいしいです」と言った。本当に小さく笑って。


---


 交代した後、俺と氷室さんは校内を回った。


 演劇部の発表を見て(氷室さんが「あの役者さんは壁ドンが上手いですね」と言って俺が笑いを堪えた)、美術部の展示を見て(氷室さんが熱心に見ていた)、廊下に出てきた頃には夕方になっていた。


「楽しかったです」

「よかった」

「神山くんと来られてよかったです」


 俺もそう思う。


「俺も、よかったです」

「神山くん」

「はい」

「今日で一ヶ月です」

「……そういえば」

「最初の日のこと、覚えていますか」

「覚えてますよ。壁ドンされながら告白された日ですよね」

「後悔は」

「してないです。一ミリも」


 氷室さんが目を瞬いた。


「……はっきり言いますね、最近」

「氷室さんに影響されたんじゃないですか」

「私は参考になりましたか」

「なりました。好きなことはちゃんと言ったほうがいいって」


 俺は前を向いたまま言った。


「好きです。氷室さんのこと。最初からじゃなかったかもしれないけど、今は確実に」


 ちゃんと言えた。


 心臓がうるさいけど、言えた。


 氷室さんはしばらく無言だった。


 俺も無言で歩いた。


 そして氷室さんが、そっと俺の袖を引いた。


 振り向くと、彼女が廊下の柱の近くに立っていた。


 腕を上げた。


「ここで壁ドンしますか」と俺は言った。

「……しません」


 氷室さんの手が、俺の手を握った。


「前に教えてもらったので」


 俺も握り返した。


「……これのほうがいいですね」

「俺もそう思います」


 夕陽が廊下に差し込んでいた。


 さっきより少し、距離が縮まった気がした。


---


# 第7話(終章) 「それでもたまにドンする」


 それから二ヶ月が経った。


 俺と氷室雪菜の関係は、外から見るとまだ謎めいているらしい。


 何しろ会話が少ない。昼は屋上、帰りは途中まで一緒、朝はおはようと言い合う。傍目には「静かに仲良い二人」にしか見えないだろう。


 でも中身は違う。


 少しずつ、着実に変わっている。


 氷室さんは笑うようになった。声を出して笑う回数が増えた。俺が変なことを言うと「それは変です」と言いながら笑う。


 俺は逃げなくなった。自己評価が少し上がった。氷室さんが「神山くんはちゃんとしています」と繰り返し言うので、信じることにした。


「透、最近なんか変わったな」と里中に言われた。

「そうか?」

「なんか……前よりはっきりしてる。物事に対して」

「……氷室さんに言われたんだよ。引いてるって」

「女子に影響されてる」

「いいじゃないですか別に」


---


 ある週末、二人で図書館に行った。


 勉強するためだったのに、氷室さんが途中で「疲れました」と言った。


「珍しい」

「神山くんは疲れませんか」

「集中力が続かないので疲れる前に飽きます」

「……正直ですね」


 二人して参考書を閉じた。


 図書館の窓から見える空は曇っていた。雨が来そうだ。


「帰りますか」

「そうしましょうか」


 返す前に本を棚に戻しに行ったとき、氷室さんが背伸びをして上の棚に本を入れようとした。届きそうで届かない。


「貸してください」


 俺が隣に立って、本を受け取り、するりと棚に入れた。


 氷室さんが俺を見た。


「ありがとうございます」

「どうぞ」


 そのとき、図書館の蛍光灯が一本、ちかちかと瞬いた。薄暗くなった一瞬、近くにいた別の人がドアをバタンと閉めた音で氷室さんが少しびくりとした。


 そして俺の腕をつかんだ。


 気づいたらそのまま、棚の間の細い通路で、氷室さんが俺の腕にしがみついていた。


「……ちょっと、驚きました」

「大丈夫ですか」

「はい」


 でも腕を離さない。


 俺は笑いそうになるのをこらえた。


「これも、ドンの仲間ですか」

「……違います」

「でも距離が縮まってますよね」

「……事故です」

「わかりました」


 俺は氷室さんの手に自分の手を重ねた。


「帰りましょうか」

「……はい」


 手を繋いで図書館を出た。


 外はちょうど小雨が降り始めていた。


 折りたたみ傘が一本しかなかったので、二人で入った。少し狭い。


 隣に氷室さんがいる。


 いつもより少し近い距離。


「ねえ、氷室さん」

「はい」

「また壁ドン、してもいいですよ」


 氷室さんが少し顔を向けた。


「……逃げませんから」


 氷室さんは一拍おいて、小さく笑った。


「じゃあ必要ないですね」

「そうですね」

「代わりに」


 氷室さんが俺の腕に少し体重をかけた。


「これで」


 雨が静かに降っていた。


 俺は前を向きながら、少し笑った。


---


 おわりに——というか、後日談。


 それから一ヶ月後。


 氷室さんに友達ができた。同じ弓道部の後輩で、氷室さんの話によれば「よく笑う子で最初よくわからなかったけど今は楽しいです」とのことだった。


 里中はその子に「あなたが神山くんですか」と聞かれて固まってた

(氷室さんが話していたらしい)。


 俺と氷室さんはあいかわらず昼は屋上で、帰りは途中まで一緒に帰っている。


 会話は少し増えた。


 ドンは、時々ある。


 ただし最近は壁でも床でもなく、俺の肩が多い。


 眠いときに氷室さんが俺の肩に頭をそっと乗せてくる。


 それをドンと呼ぶかどうかは、本人の中でまだ議論中らしい。


「ドンというより、もたれる感じなので」

「俺は全然構いませんよ」

「……そうですか」


 氷室さんが目を瞑った。


 屋上の風が気持ちよかった。


 俺は空を見上げた。青い。


 こんな形の恋愛、誰かに話したら笑われる気がする。


 壁ドンから始まって、床ドンを経由して、今は肩ドンになった。


 でも俺はこれが好きだ。


 この人が好きだ。


 それだけで、充分だった。


---


 【完】


---

結論。

壁ドンは、使い方を間違えると床ドンや天井ドンになります。

でも、ちゃんと好きって気持ちがあれば、案外なんとかなるのかもしれません。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!

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