婚約破棄されて役立たずと追放された宮廷灯具師令嬢、辺境の壊れた街灯を直したら「帰ってこい」と言われてももう遅い
「ノエル・ラツィア。
君との婚約は解消する」
宮廷灯具院の作業場は、その一言で綺麗に静まり返った。
磨かれた作業台。
吊り下がった予備灯。
油と金属と魔石の匂い。
毎日慣れ親しんだはずの場所が、急によそよそしく見える。
婚約破棄を告げたのは、若き灯具師長エドガーだった。
私の婚約者でもあり、王都の新式魔導灯開発を任されている人でもある。
その隣には、最近院へ入ってきたばかりの新進技師ミリアが立っていた。
彼女は新しい発光式をいくつも考案し、今いちばん華やかな注目を集めている。
私とは正反対だ。
私は新しいものを生み出すのが苦手で、壊れたものを長く働かせることしかできない。
「君のような修繕しかできない女は、もういらない」
エドガーは、作業台の上の古い街灯部品を一瞥して続けた。
「王都が必要としているのは、未来を照らす新式灯具だ。
壊れた街灯にしがみつく時代遅れの技師ではない」
周囲の見習いたちが息を呑む。
でも私自身は、驚きよりも先に、ああ、とうとう来たのだと思った。
ここ数か月、彼は私を見ないようにしていた。
修繕記録より新式設計図を優先し、夜回り点検表を「地味だ」と笑い、私の報告にも「また修理の話か」としか返さなくなっていた。
その隣で、ミリアはいつも眩しく笑っていた。
「……承知いたしました」
私がそう答えると、エドガーは少しだけ拍子抜けした顔をした。
怒るか、泣くか、縋るか。
そういう反応を期待していたのだろう。
でも私は、ただ静かに頷く。
「婚約解消も、灯具院からの離任も受け入れます」
「物分かりがよくて助かる」
「その代わり」
私は机の端に積んであった点検帳を三冊、指先で揃えた。
「東大通りの旧式街灯四十六基は、今月中に導銀線の巻き直しが必要です。
北区画の壁灯は塩噛みが進んでいます。
王城前広場の四番灯は、次の雨で落ちます」
作業場の空気が少しだけ固まった。
私は続ける。
「修繕帳は置いていきます。
新式に夢中なのは結構ですが、今ある灯りが落ちれば王都の夜は暗くなりますので」
エドガーの眉が跳ねる。
「脅しか」
「いいえ」
私は首を振った。
「報告です」
ミリアがそこで初めて口を開いた。
「でも、そんな古い灯具、どうせ近いうちに全部新式へ置き換えるのですわよね?」
その言い方が、少しだけ胸に刺さった。
どうせ。
古いから。
新しくないから。
そうやって切り捨てられるものを、私はずっと繋いできたのだ。
「置き換えるまで、落とさないのが仕事です」
私はそれだけ答えた。
それ以上言っても仕方がない。
ここではもう、私の言葉は光らないのだろう。
光るのは、新しい設計図のほうだけだ。
「荷物は明日までにまとめろ」
エドガーが言う。
「辺境の港町ヘルムで、街道灯の管理補助が一人足りないらしい。
修繕しかできない君にはお似合いだ」
辺境。
管理補助。
追放の言い換えとしては、かなり分かりやすい。
「かしこまりました」
私は最後に一礼し、自分の工具箱へ手を伸ばした。
細刃の調整具。
導銀線巻き器。
小型の魔力計。
誰も見ていなくても、工具だけはちゃんと私の手に馴染む。
それで十分だと思うことにした。
ヘルムの港町は、王都より風が強かった。
馬車を降りた瞬間、潮の匂いが頬を打つ。
石畳はところどころ白く塩を噛み、港の倉庫はどれも少しずつ傾いて見えた。
そして町へ入ってすぐ、私は思わず立ち止まる。
道沿いの街灯が、ひどい有様だったからだ。
昼なのに、もう分かった。
硝子筒は曇り、留め具は緩み、導線は湿気で黒ずんでいる。
塩害と風雪に晒され続けた街灯特有の、疲れ切った姿だった。
「……これ、全部直したいです」
思わず口から出た。
荷運びをしていた男たちが一斉にこちらを見る。
案内役だった役人まで目を丸くした。
「今、何と?」
「いえ、独り言です」
でも、本音だった。
こんなに壊れかけた街灯を前にして、見過ごせる修繕師はいないと思う。
「あなたが王都から来た灯具師令嬢か」
低い声がして振り向くと、濃紺の外套をまとった男が立っていた。
背が高く、日焼けした肌に、冬の海みたいな灰青の目をしている。
飾り気は少ないのに、立っているだけで人の上に立つ側だと分かる人だった。
「はい。
ノエル・ラツィアでございます」
「アーヴィン・グランツ」
男は短く名乗る。
「この領の辺境伯だ」
思わず姿勢を正した。
話だけは聞いていた。
戦時には前線に立ち、平時には港と街道を自分で歩く実務家だと。
「灯具管理補助として来たと聞いている」
「はい」
「なら、最初の仕事をやるか」
彼は私の視線の先にある街灯へ目をやった。
「見れば分かるだろうが、町の灯りが死にかけている」
「はい」
「直せるか」
その問いに、私は反射のように街灯へ歩み寄っていた。
基部の点検板を開ける。
導銀線が塩を吹き、接合部にわずかな焦げ跡がある。
でも致命傷ではない。
まだ、ここから戻せる。
「直せます」
私は振り返った。
「ただし、全部いっぺんには無理です。
今夜までに広場と港通りだけでも優先していいなら」
「必要なものを言え」
「脚立と、乾いた布と、細い真鍮線。
あと、人手を二人。
私の指示どおりに道具を持てる人なら誰でも」
アーヴィン辺境伯は少しも迷わなかった。
「用意する」
それだけだった。
でも、その短さが妙に心地よかった。
王都では、修繕の話をするとたいてい「そんな地味な仕事を今ここで?」という顔をされたのに、この人は一言も余計なことを言わない。
必要な仕事を必要なだけ聞いて、必要なら通す。
その単純さがありがたかった。
その日の夕方まで、私は港通りの街灯へ登っていた。
硝子を外し、曇りを拭き、導線を巻き直し、留め具を締める。
魔石そのものはまだ使える。
悪いのはたいてい、その周りだ。
どれだけ優れた灯りでも、支える金具と線が死ねば落ちる。
「そんなに変わるものなのか」
脚立の下で工具箱を押さえながら、アーヴィン辺境伯が訊いた。
「変わります」
私は留め具を締めながら答える。
「新しい灯具を作るより地味ですけれど、こういうのは直すと夜が分かりやすく変わるので」
「お前は新しいものを作るほうではないのか」
「苦手です」
正直に言った。
隠しても仕方がないことだ。
私は新しい発光式を考えるより、古い灯具がどこで苦しんでいるかを読むほうがずっと得意だった。
「でも」
私は最後のねじを締め、街灯の蓋を閉じる。
「壊れかけたものを長く働かせるのは、けっこう好きです」
試験点灯のスイッチを入れる。
街灯が一拍遅れて、やわらかな橙色を灯した。
昼でも分かるくらい、昨日までより光が安定している。
下で誰かが、おお、と声を上げた。
荷運びの男たちだ。
彼らは大げさに拍手なんてしないけれど、少しだけ顔が明るくなっていた。
それで十分だった。
「役立たずと言ったのは、どこの馬鹿だ」
ぼそりと落ちたその一言に、私は脚立の上で止まった。
視線を下ろすと、アーヴィン辺境伯がいつもの無表情でこちらを見上げている。
でも、目だけが少し険しかった。
怒っているのかもしれない。
私にではなく、そんなことを言った誰かに対して。
「……王都には、新しいものの方を好まれる人が多いので」
私は少しだけ笑って答えた。
泣きそうになるのをごまかすための笑いだった。
でも、この人は見て見ぬふりをしてくれた。
「今夜、広場が点けば夜市が戻る」
彼は言う。
「なら、お前は役立たずではない」
その言葉は、王都で聞きたかったどんな賞賛よりも、ずっと真っ直ぐ胸へ入ってきた。
それからの数週間、私は町じゅうの灯りを直して回った。
港通り。
中央広場。
魚市場裏の細道。
教会前の階段。
壊れた街灯が一つ直るたび、夜の町は少しずつ息を吹き返していく。
夜市の店が増え、港の荷下ろしも遅くまで回り、子どもたちは灯りの下を走って帰るようになった。
派手ではない。
でも、ちゃんと変わる。
その変化が、私は好きだった。
そしてアーヴィン辺境伯は、私が何かを言うたび、必要なものだけを揃えた。
風除け硝子。
塩害に強い留め具。
作業台。
空き倉庫の一角。
最後には、使っていなかった工房まで開けてくれた。
「ここを使え」
そう言われて見せられた工房は、広くはないけれど風が通らず、棚も机も残っていた。
壁には古い工具掛けまである。
私は扉を開けた瞬間、少しだけ息を止めた。
王都の作業場を追い出されたあとだったからかもしれない。
ちゃんと仕事をするための場所があることが、思ったより嬉しかった。
「……いい工房です」
「古いぞ」
「古いほうが落ち着きます」
私がそう言うと、辺境伯はほんの少しだけ目を細めた。
笑ったのかもしれない。
この人もあまり表情を大きく動かさない人だから、まだ確信は持てないけれど。
王都から使者が来たのは、冬祭りの準備で町が最も慌ただしい日の午後だった。
私は工房で、港通りの街灯に使う新しい防塩布を裁っていた。
そこへ、見覚えのある制服の使者が青ざめた顔で飛び込んでくる。
「ノエル・ラツィア嬢!」
その呼び方に、私は少しだけ眉を上げた。
《《元婚約者》》でも、《《元宮廷灯具師》》でもなく、名前だけで呼ばれたのはたぶん初めてだ。
「王都へお戻りください!」
「嫌です」
反射のように答えていた。
使者のほうが、え、と間の抜けた顔をする。
「ま、まだご用件を申し上げておりませんが」
「王都の灯りが死にかけているのでしょう?」
使者は絶句した。
図星だったらしい。
「祭礼用に導入した新式灯具が、昨夜から連鎖的に不調を起こしております!
東大通りも王城前広場も半分以上が消え、宮廷灯具院では手が足りず……!」
「そうでしょうね」
私は布を畳む。
「導銀線の許容負荷が足りないまま、光量だけ盛ったのでしょう。
私は最初からそう報告していました」
使者の顔色がさらに悪くなる。
たぶん、その報告を握りつぶした人が王都にいるのだろう。
「ですので、どうかお戻りを!」
「お断りします」
「ですが、エドガー灯具師長も、あなたでなければ旧式灯の切り戻しは無理だと……!」
そこで、私はようやく手を止めた。
エドガーが。
私でなければ無理だと。
なんとも都合のいい話だった。
「役立たずの私に、王都の灯りはもったいないでしょう」
穏やかに返すと、使者は言葉に詰まった。
たぶん本人が言ったわけではないのに、ちゃんと刺さったらしい。
でも、これはその場の意地悪ではない。
本当に今さらなのだ。
王都は、新しい灯りばかり欲しがって、今ある灯りを支える手を切った。
その結果が今来ただけだ。
「それに」
私は工房の外を見た。
広場では、冬祭り用の飾り灯が組まれている。
港では夜市の屋台骨組みが並び、子どもたちは灯りの下へ吊るす雪飾りを運んでいた。
「私は明日、この町の冬祭りの灯りを上げる予定です」
使者が慌てて言う。
「王都の祭礼のほうが重要でしょう!」
「この町の人にとっては、こちらのほうが重要です」
きっぱりと言い切ったのは、自分でも少し意外だった。
でも、もう迷いはなかった。
私は王都のための便利な修繕係ではない。
この町の夜を知ってしまったのだから。
そのとき、工房の扉口へ影が差した。
「何の騒ぎだ」
アーヴィン辺境伯だった。
彼は使者と私を見比べ、机上の広げられた防塩布と、外の祭り支度までひと目で確認したらしい。
「王都から、ノエル様へ帰還命令が……」
使者がそう言いかけた瞬間、辺境伯の眉がわずかに動いた。
「命令?」
低い声だった。
それだけで、工房の空気が一段冷える。
「い、いえ、お願いでございます!」
「ならよい」
アーヴィン辺境伯はそれだけ言って、私の机へ一枚の紙を置いた。
見れば、それは正式な任用書だった。
辺境伯領灯具監督官。
俸給額、工房使用権、助手二名まで採用可。
署名欄には、すでに彼の名がある。
「昨日までに整えていた」
彼は淡々と言う。
「本当は祭りのあとに渡すつもりだったが、ちょうどいい」
私はしばらく紙を見つめた。
役立たずと追放されたあとに差し出されるには、あまりにちゃんとした席だった。
肩書きも。
工房も。
俸給も。
全部、私自身の仕事のために用意されている。
「この町の灯りは、お前がいないと困る」
アーヴィン辺境伯は続ける。
「帰るかどうかはお前が決めればいい。
だが私は、ここに残ってほしい」
王都の使者が青ざめる。
でも私にはもう、その顔を気にする理由がなかった。
「お返事は決まっています」
私は任用書を両手で持ち上げた。
「王都へは戻りません」
使者が半歩、縋るように前へ出る。
「ノエル様!」
「王都の灯りが落ちるとお困りなら、新しい灯具を愛した方々でお直しください」
私は静かに言った。
「壊れかけたものを直す手を、最初に要らないとおっしゃったのはそちらです」
使者は何も返せなかった。
返せるはずもない。
これは感情論ではなく、ただの事実だからだ。
工房の外では、冬祭りの準備が進んでいる。
吊り灯が並び、広場の柱には雪飾りが巻かれ、子どもたちはまだ昼なのに待ちきれない顔で走り回っていた。
私はその光景を見て、もう完全に分かってしまった。
私が直したかったのは、王都の《《見せるための灯り》》ではなく、誰かが安心して家へ帰るための灯りだったのだと。
「……分かりました」
使者は最後に深く頭を下げた。
来たときより少しだけ静かな顔だった。
彼自身は悪くない。
ただ、頼みに来るのが遅すぎたのだ。
使者が去ったあと、工房には少しだけ静けさが戻った。
私は任用書を見つめ、それからアーヴィン辺境伯を見上げる。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
「そうですか?」
「灯具監督官としての仕事はこれからだ」
たしかにその通りだった。
でも、彼はそこで少しだけ言い淀む。
「……それと」
「はい」
「工房と肩書きだけではなく、その先も、できれば考えてほしい」
私は瞬きをした。
雪の降る前の空気みたいに、静かな沈黙が落ちる。
この人もまた、あまり飾らない。
でも、飾らないからこそ本気だと分かる。
「それは、灯具監督官の契約に入っているのでしょうか」
思わずそう訊くと、辺境伯はほんの少しだけ口元を動かした。
「いや。
そちらは完全に私的な願いだ」
その答えに、私はとうとう笑ってしまった。
王都で追放された日には、こんなふうに笑える未来があるなんて想像もしなかった。
「では」
私は任用書を胸の前で揃える。
「まずは灯具監督官からお受けします」
「まずは?」
「はい。
その先は、冬祭りの灯りを無事に上げてから考えます」
辺境伯が短く息を吐いた。
たぶんあれが、この人なりの笑い方なのだと思う。
「分かった。
だが、期待はしている」
そう言われると、少しだけ頬が熱くなる。
けれど嫌ではなかった。
その夜、ヘルムの冬祭りの灯りは、予定より少し早く町じゅうへともった。
港通り。
広場。
教会前の階段。
子どもたちが走る細道まで、やわらかな橙色が続いていく。
新式の眩しい光ではない。
でも、風にも塩にも負けず、ちゃんと最後まで灯り続ける光だ。
「きれい……」
誰かの呟きが夜の中へ溶けた。
私は工房の前に立って、その灯りを見上げる。
役立たずと言われた手で直した街灯が、今夜はこの町の全部を照らしている。
「ノエル」
隣から声がした。
アーヴィン辺境伯が、夜の灯りを背にして立っている。
灰青の目が、いつもより少しだけやわらかい。
「おかえり」
その一言で、胸の奥がふっと軽くなった。
追放されたはずなのに。
王都では居場所をなくしたはずなのに。
今の私は、たしかに帰る場所を持っている。
「はい」
私は答える。
「ただいま帰りました」
壊れかけた灯りは、ちゃんと直せばまた働く。
だったらたぶん、人も同じだ。
新しく生まれ変わらなくてもいい。
ちゃんと見て、ちゃんと手をかければ、それでまた前へ進める。
この町の灯りみたいに。
だからもう、王都から「帰ってこい」と言われても遅い。
私がともしたい灯りは、もうここにあるのだから。
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【4/18追記】
本作をお読み頂きありがとうございます。
本日、新連載を開始しました。
妹が「お姉様の代わりは務まります」と言うので、婚約者も役目も譲りました。ですが務まらなかったようです【連載版】
https://ncode.syosetu.com/n3418mb/
本作と同時期に投稿した同名の短編を連載化したものです。
光栄なことに、信じがたいほど多くの方々に読んで頂けた短編で(現時点で日間総合5位!)、この連載も少しでも多くの方々に楽しんでいただけるよう頑張ってまいります!
是非是非、皆様の応援をよろしくお願いいたします!




