まだ届かない答え——前夜の手紙
会うと決まった時ほど、人は迷う。
本当の気持ちほど、言葉にできない。
翌朝。
クリスタニア来航前日。
ハワード邸は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
エディもフォックスも朝から慌ただしく動いている。
レイコは、ハワード夫人と遅めのブランチを取っていた。
陽光の差し込むテーブル。
整えられた食器。
穏やかなはずの時間。
それでも——
レイコの指先は、どこか力を失っていた。
小さく、ため息がこぼれる。
それを、夫人は見逃さなかった。
「レイコ」
やわらかな声。
「まだ、何か考えているのね」
レイコは、わずかに視線を落とす。
否定はしなかった。
「あなたが船たちを愛することは、とても素晴らしいことよ」
夫人は穏やかに続ける。
「そして——同じように船を愛する人がいることも」
一瞬だけ、レイコの瞳が揺れる。
「明日になれば、きっと分かるわ」
優しく、しかしどこか確信を含んだ声だった。
「だから、準備をしておかないとね」
「……はい」
力のない返事。
それでも、確かに頷いた。
部屋へ戻ると、フォックスが待っていた。
「レイコ様」
少しだけ緊張した面持ちで、封筒を差し出す。
「司令部からの遣いが……これを」
ハワード提督宛の手紙だった。
差出人は——リヒト。
封を切る。
一行だけの、短い文。
「閣下の薔薇が似合うのは、光に守られた本船だけです。」
封筒の中には、赤い薔薇の花びらが一枚。
それは静かに、掌へと落ちた。
「……どういうこと?」
レイコの声は、かすかに震えていた。
フォックスは、静かに答える。
「リヒト様は——お迎えにいらっしゃるつもりなのです」
レイコは息を止める。
「レイコ様が愛する商船たちを、見捨てることはできない」
フォックスは続ける。
「……そして、それを選べば」
わずかに言葉を選ぶ。
「今度こそ、レイコ様に嫌われるのではないかと——お考えだったのではないでしょうか。
自分の推測ではありますが。」
レイコは、何も言えなかった。
「……レイコ様」
フォックスが静かに問う。
「リヒト様に、会いたいですか?」
長い間。
答えは出なかった。
「……分からないわ」
ようやく絞り出した声。
「会いたいわよ。でも——」
視線が落ちる。
「また、彼を悲しませてしまう気がして……それが怖いの」
フォックスは、ほんのわずかに微笑む。
「では」
「そうではないと分かれば、よろしいのですね」
「……え?」
レイコが顔を上げる。
「いいえ」
フォックスは首を振る。
「明日になれば、分かります」
そして静かに続けた。
「ただ——レイコ様が悲しむことは、決して起きません」
それだけ言って、フォックスは部屋を出ていった。
残されたレイコは、手紙を見つめる。
白い紙の上の、たった一行。
「……私、めんどくさい人ね」
小さく、呟く。
——その頃。
クリスタニア。
エリコの指揮の下、レセプションの準備が進められていた。
「常務!船長室に届けてきました!」
クルーズ部門の社員が、いたずらっぽく笑う。
「何も疑わず、“そうか”とお受け取りになりましたよ」
「よくやったわ」
エリコは満足そうに頷く。
「あとはフロアのデコレーションチェックね」
「私たちがやります!」
別の社員がすぐに応じる。
「そろそろ副長が戻られる頃ですし、常務はここで待ちください」
エリコは軽く息をつき、窓の外を見る。
広がる海。
穏やかな光。
「我が社の名誉どころか——」
わずかに笑う。
「素敵な伝説になりそうね」
クリスタニアは、静かに進んでいた。
その先にある“再会”へと。
言葉は、もう届いている。
あとは——向き合うだけ。




