新たな蕾 — 命を運ぶ船 —
海を越えても、すべてが終わるわけではない。
運ばれているものは、貨物だけではない。
ジブラルタルの風は、とても穏やかだった。
紅海の張り詰めた空気が嘘のように、静かな光が海面に揺れている。
クリスタニアの船内には、久しぶりに柔らかな空気が戻っていた。
「見てください、れいこうですよ!」
「本当に来てくれたんですね……」
社員たちは窓越しに身を乗り出し、灰色の艦影に見入っている。
その様子を、少し離れた場所からエリコは眺めていた。
誰もが笑っている。声が明るい。
それだけで、十分だった。
——よかった。
そう思った瞬間、ふっと視界が揺れる。
(……あれ?)
胸の奥が、わずかに重い。
ここ数日、続いている違和感。
疲労とも違う、説明のつかない感覚。
「……常務?」
近くにいた社員が、気づいて声をかける。
エリコは応えようとした。
だが——
血の気が、すうっと引いていく。
「常務? 常務!!」
声が遠のく。
体が支えきれない。
そのまま、崩れるように倒れた。
「医務室を——!」
船内が慌ただしくなる。
呼び出しを受け、ルイが駆け込んできた。
「エリコ!」
すぐに膝をつき、顔を覗き込む。
エリコは、うっすらと目を開けた。
そして、困ったように微笑む。
「……ごめん」
息を整えながら、小さく言う。
「驚かせようと思ってたんだけど……我慢できなかったみたい」
ルイは一瞬、言葉を失う。
意味を理解するまで、数秒。
「……は?」
そして——
一気に、表情が弾けた。
「本当か!?」
エリコは、わずかに頷く。
ルイは立ち上がる。
「ロゼリアが来る頃には——」
声が弾む。
「僕はパパだーーーっ!!」
一瞬の静寂。
そして——
「えええええ!?」
船内が歓声に包まれる。
「おめでとうございます!!」
「常務! 無理しないでください!」
「私たちがやりますから!」
誰もが笑っていた。
張り詰めていたものが、一気にほどける。
その中心で、エリコは目を細めた。
(……よかった)
それだけで、すべてが報われるようだった。
——その頃。
ブリッジでその報を受けたリヒトは、何も言わなかった。
ただ、静かに手をポケットへ入れる。
取り出したのは、小さなネックレス。
ヤグルマギク。
指先でそれをなぞる。
青い花。
そして——
自然と、思い出す。
遠く離れた場所にいる、あの人のことを。
「……レイコ」
その名は、声にならなかった。
だが、確かにそこにあった。
クリスタニアは進む。
命を乗せて。
想いを乗せて。
未来へと運ぶように。
命は、静かに始まる。
それを運ぶ船もまた、静かに進み続ける。




