名もなき航海士 — 航跡の先へ —
紅海を越えたあとも、航海は続く。
何も起きていないように見える時間こそ、最も多くの仕事が積み重なっている。
紅海を抜けた海は、嘘のように静かだった。
だが、その静けさは安らぎではない。
ブリッジには、まだ疲労が残っている。誰も倒れてはいない。だが、全員が限界に近かった。
二等航海士の三井は、レーダーに視線を落としたまま、小さく息を整える。
「……針路、維持します」
声は落ち着いている。だが、その奥にわずかな緊張が残る。
隣で、ルイが短く頷いた。
「オッケー。そのまま行こう」
それだけで、十分だった。
ブリッジは、ほんのわずかな休息。だが、それすら必要な状態だった。
三井は計器を確認しながら、ふと目を閉じる。
——ノイズ。
耳の奥に、まだ残っている。
『……助けてくれ……』『……燃料が……持たない……』『……白薔薇に……栄光あれ……』
あの声は、消えない。
「……忘れられるわけないじゃないか」
無意識に漏れた言葉に、ルイが横目で見る。
「ヨータ、顔に出てるぞ」
三井は、わずかに苦笑した。
「……すみません」
「ダメダメ。今はクリスタニアのことだけ考えなきゃ」
その声は、柔らかい。
「クリスタニアはヤキモチ妬きなんだよ。うちの奥さんみたいでさ」
「常務ですか?」
「そ。いつも何かに一生懸命でね。そんなエリコだから好きなんだけどさ」
一拍。
「僕たちも同じだと思うんだよ。だから、その時間に集中しないと」
三井は、ゆっくり頷く。
「そうですよね。ごめんよ、クリスタニア」
視線を前に戻す。
海は穏やかだ。だが、その向こうを、彼は知っている。
コンソールに手を置く。
風向きと潮流。ほんのわずかなズレ。
見逃せば、船は応えない。
「……針路、微修正します」
「よし」
短い返答。
三井は、確かな操作で入力を行う。
数秒の沈黙。
やがて——
「……安定しました」
レーダーの表示が、静かに整う。
ルイが、わずかに頷く。
「いいねぇ」
その一言で、十分だった。
三井は、息を吐く。
肩の力が、わずかに抜ける。
そして——
ふと、笑った。
ほんのわずかに。
「……さ、行こっか」
その声は、誰に向けたものでもない。
だが、確かに届いていた。
船は、静かに進む。
白薔薇の航跡をなぞるように。
次の海へ。
ジブラルタルへ向けて。
航跡は語らない。
だが、その上にいる者たちは、すべてを覚えている。




