コディアック沖待機 ―本社も嵐の真っ只中―
海が荒れるとき、船の中では不思議なことが起こります。
外の世界が緊張しているほど、船の中は妙に穏やかになることがあります。
新造船が派遣されるとすれば、それは余程の事態といえますが、極めて稀です。物語では、それほど海運会社が危機感を持っている、ということになります。
この回は、そんな嵐の前の時間です。
ジブラルタルを出て十三日目。
レジェンディア船団は、ついにアラスカ海域へ到達した。
コディアック島南東沖。広い外洋。
ここが低気圧をやり過ごす待機海域だった。
すでに海は変わり始めている。
遠くから届く、長く重いうねり。
船体がゆっくり持ち上がり、そして静かに沈む。
風も少しずつ強くなっていた。
まだ嵐ではない。
だが北太平洋の海は、確実に荒れ始めている。
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デッキはすでに閉鎖されていた。
防護シャッターも降ろされている。
外の景色はほとんど見えない。
照明も落とされ、船内はやや暗い。
それでも船の中の空気は、意外なほど明るかった。
レイコの部屋では、クルーたちが集まっている。
食糧や飲料が運び込まれていた。
日持ちのする菓子。水。温かい飲み物。
「ずいぶん用意したのね」
レイコが笑う。
リサが肩をすくめた。
「嵐だし。備えは多い方がいいでしょ?」
クルーの一人が冗談を言う。
「まあ、レジェンディアなら沈みませんけど。鬼の副長いますから」
小さな笑い声が起きる。
「間違いない!ヴァルナー万歳!」
まだ余裕はあった。
嵐の本番は、まだ先だからだ。
⸻
一方、ブリッジの空気はまったく違っていた。
スクリーンには北太平洋の気象図。
巨大な低気圧。
中心気圧は968ヘクトパスカル。
予報どおり、徐々に発達しているようだった。
リヒトは腕を組み、画面を見つめていた。
その時、通信士が振り向く。
「キャプテン。本社回線です」
船長が短く言う。
「繋げ」
スピーカーが開く。
だが流れてきたのは、整った報告ではなかった。
会議の音声だった。
回線が開いたままになっているようだった。
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本社の声が響く。
“Sending Cristania is too risky!”(クリスタニアを出すのは危険すぎる!)
別の声。
“Legendia is already on site!”(レジェンディアが現地にいるだろう!)
さらに別の声が被さる。
“We can’t lose a new ship!”(新造船を失うわけにはいかん!)
ミカエラが小さく笑った。
「……あちゃー。あっちも大荒だね」
アレックスが呟く。
「クリスタニア出すって、よっぽどヤバいんだよね。きっと…」
エディは静かに言う。
「当然だ。コンテナ船が被弾しているからな」
その時、別の声が割って入る。
“Cristania has the newest systems.”(クリスタニアには最新システムがある)
“Navigation, radar, everything.”(航法もレーダーも、すべて最新だ)
すぐに反論が飛ぶ。
“Legendia has the experienced crew!”(レジェンディアには熟練クルーがいるだろう!)
会議は完全に混乱していた。
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しばらくして、別の声が聞こえた。
落ち着いた声だった。
“Legendia… if you can hear us.”(レジェンディア、もし聞こえているなら)
ブリッジが静まり返る。
“We’re sorry.”(すまない)
“We’re still deciding.”(まだ決断できていない)
回線はそこで途切れた。
沈黙。
ミカエラが小さく言う。
「……えらいこった」
船長ヘンリーは短く答えた。
「陸の話だ」
そして静かに続ける。
「クリスタニア派遣を考えるほど、本社は危機感を持ったのだろう」
「我々も、あらゆる事態を想定しておかねばならない」
北太平洋の空は暗くなり始めていた。
遠くで嵐が生まれている。
レジェンディア船団は、その海で静かに待っていた。
今回少し触れた「本社の混乱」ですが、海運会社では有事の際に実際によく起こることです。
船は一度海に出ると、すぐに港へ戻れるわけではありません。そのため本社では
・航路変更・待機海域の設定・護衛の要請・他船の派遣
といった判断を同時に検討することになります。
ただし船を動かすということは、それ自体が大きなリスクになります。物語では、新造船を出すべきか、既存船で対応するべきかで意見が分かれますが、実際にここまでになると、私たちの生活もきっと穏やかではなくなるでしょう。
現場の船と、会社の判断。その間には、いつも難しい決断があります。




