第20話 静寂の果て
夜明けが、世界を包んでいた。
波は穏やかで、風は柔らかく、
街の屋根には光の粒が降り注いでいた。
リュカは丘の上に立っていた。
胸の奥で、音の根が小さく脈打っている。
それは、心臓の鼓動と同じリズムだった。
――ドクン。ドクン。
世界が、それに合わせて息をしている。
空の雲が流れ、鳥が飛び立ち、
どこか遠くで、人が笑う。
「……ああ、これが“生きてる”ってことか。」
呟いた声が、風に溶けた。
◆
丘の下から、少女が駆け上がってきた。
年の頃はリュカと同じくらい。
栗色の髪に、小さな鈴を結んでいる。
彼女の名はミナ。
“音の時代”が始まってから生まれた最初の子ども。
彼女の笑いには、まだ少しの不安と、
それ以上の希望が混じっていた。
「リュカ、またあの光、見えたの?」
「うん。」
「怖くないの?」
「前は少し怖かった。
でも今は――きっと、世界が話しかけてるんだと思う。」
ミナは首を傾げた。
「世界が?」
「うん。音って、誰かが“生きてる”って伝える手段なんだ。
風も、鳥も、人も、全部そう。」
リュカは胸に手を当てた。
鼓動が静かに響く。
その音が、ミナにも伝わっていく。
「この音、聞こえる?」
ミナは微笑んで頷いた。
「うん。あたたかいね。」
風が吹いた。
木々の葉がざわめく。
ふたりの間に、柔らかな沈黙が流れた。
それは“無音”ではなかった。
風の音、草のささやき、呼吸のリズム――
それらすべてが“生きた静けさ”になっていた。
◆
そのとき、リュカの耳に懐かしい声が響いた。
《……よくやったな。》
驚いて振り向く。
そこには、誰もいなかった。
だが、空気がわずかに震えていた。
《音は、もうお前たちのものだ。
私は、静けさの底で見守っている。》
リュカは笑った。
「ありがとう、リオ。」
ミナが不思議そうに見上げる。
「誰?」
「昔、この世界を作った人さ。」
「その人、今どこにいるの?」
リュカは空を見上げた。
朝日が昇る。
金色の光が、すべてを包む。
「――たぶん、この静けさの中に。」
◆
丘の上で、風が鳴った。
それは“音”であり、“祈り”だった。
鳥が飛び立ち、雲が割れる。
リュカは〈音の根〉を掌にのせた。
それはもう、光を放っていなかった。
ただ、小さく震えていた。
「この世界が、また静かになってもいい。
でも、今度は“生きてる静けさ”であってほしい。」
そう言って、彼はそっとそれを地に埋めた。
土の中に、鼓動が消えていく。
その瞬間――風がやんだ。
世界が一拍、息を止める。
そして。
鳥が鳴いた。
波が寄せた。
誰かの笑いが遠くで弾けた。
リュカは微笑んだ。
「これが……静寂の果てか。」
ミナが手を握る。
その手の温もりが、確かな“音”を持っていた。
ふたりは、光の中を歩き出した。
終章
音は、消えるためにあるのではない。
静けさは、止まるためにあるのではない。
どちらも、生きるために必要な鼓動だ。
風が吹き、
世界が息をした。
――そして、すべての静けさは、
音の中で永遠に生き続けた。
完