第18話 音を知らぬ少年
海はまだ、あの日の光を覚えていた。
白い波の向こう、古い港町。
人々は穏やかに暮らし、
子どもたちは笑い合っていた。
だが、その笑いに――音はなかった。
◆
少年の名はリュカ。
十五歳。
髪は砂色で、瞳は淡い灰。
彼は生まれつき“音を聞かない”。
この時代では、それは特別なことではなかった。
この世界には、音がない。
風も、波も、声も、
ただ“心”だけが響き合う。
それを人々は《共鳴通信》と呼んだ。
言葉を使わず、思考で会話を交わす文明。
音が失われて半世紀――
この静けさこそが“平穏”だと信じられていた。
だが、リュカだけは、その静けさの中で
何かを“欠けている”と感じていた。
――なぜ、みんな笑うのに涙が出ないんだろう。
彼はいつも、ひとりで海を見ていた。
波は打ち寄せる。
けれど、その音は彼には届かない。
ただ、泡の揺れと光の反射が、規則正しく繰り返されるだけだった。
◆
ある日。
古い灯台の裏手で、リュカは小さな“欠片”を見つけた。
黒く、滑らかな石。
手に取ると、心の奥に微かなざわめきが生まれる。
――カナ……
声。
誰かの“声”が、かすかに響いた。
驚いて辺りを見回すが、誰もいない。
彼はもう一度、その石を握る。
今度は、はっきりとした声がした。
《……リ……オ……?》
その瞬間、世界が微かに震えた。
風が、音を取り戻した。
最初に聞こえたのは、波の音。
次に、鳥の羽ばたき。
そして、自分の心臓の鼓動。
“音”だった。
リュカはその場に膝をつき、涙を流した。
初めて聞く“世界の声”に、
胸が痛いほど満たされていった。
◆
――その夜。
彼の夢に、白い砂浜が現れた。
波が打ち寄せる。
その音が、懐かしい。
その海辺に、ひとりの男が立っていた。
金の瞳、灰の髪、静かな笑み。
「……誰?」
リュカが問うと、男はゆっくりと振り向いた。
「昔、この世界に“音”を返した人間だ。」
「音?」
「ああ。お前が今、聞いているもの全部だ。」
リュカは胸に手を当てた。
鼓動が確かに響く。
「……これ、全部、あなたが?」
男は頷いた。
「けれど、同時に失った。だから、お前たちは音を知らずに生まれた。」
「……なんで?」
「静けさは、人の心を守る。だが、守りすぎれば、生きることを忘れる。」
男――リオは穏やかに笑った。
「お前の中に、私の欠片がある。それが“音の根”だ。」
「欠片……?」
「それを使えば、この世界をもう一度、選び直せる。」
リュカは目を見開いた。
リオの姿が、風に溶けていく。
最後に彼が言った。
「音を恐れるな。静けさも、拒むな。
――その両方を、愛せ。」
◆
朝。
リュカは灯台の上に立っていた。
手の中の黒い石が、淡く光っている。
彼は静かに目を閉じ、呟いた。
「……聞こえる。世界が、まだ生きてる。」
風が吹いた。
波が鳴いた。
鳥が啼いた。
人々が振り返る。
耳慣れない“音”に、誰もが立ち尽くした。
静寂の時代が終わり、
新しい“共鳴”が始まろうとしていた。
次回予告:「第19話 音を継ぐ者」
リュカの中で目覚めた“音の根”は、
世界中の静けさを揺り動かしていく。
だが、その力を狙う者たちが現れ――
新たな“賢者戦争”が幕を開ける。