第17話 リオ、消失
朝の海は穏やかだった。
光は柔らかく、波は低く、空には雲ひとつない。
けれど、その美しさの中で、
俺は“自分の影”が薄くなっていることに気づいていた。
砂浜に座ると、足跡が残らない。
手のひらを海につけても、水が揺れない。
まるで世界が、俺を少しずつ透かしていくようだった。
セリアが目を覚まし、こちらを見た。
『……顔色が悪いな。』
「顔があるのかも怪しいけどな。」
軽口を叩いてみせたが、
セリアの表情は、笑わなかった。
『わかっているのだろう?』
「ああ。」
『汝の“平穏”は、世界の根に還りつつある。』
「俺が戻したんじゃない。
たぶん、世界のほうが俺を戻してるんだ。」
波打ち際で、光がちらついた。
砂の粒が舞い上がり、宙で消える。
そのたびに、自分の指が透けていく。
「……最初は、ただ静かに暮らしたかっただけだったんだけどな。」
『それは叶っただろう? 今の世界は穏やかだ。』
「穏やかすぎるよ。音があるのに、心が静かなんだ。」
『汝の祈りが、世界に根づいたのだ。』
「でも、それと引き換えに、俺はいらなくなる。」
沈黙。
波音だけが、遠くで続いていた。
『リオ。最後に、望みはあるか?』
「そうだな……」
空を見上げる。
雲一つない青空。
それだけで、充分だった。
「――“ありがとう”って、言えるうちに言っときたいな。」
『誰に?』
「世界に。
それと……お前に。」
セリアが目を伏せた。
風が、彼女の白い髪を揺らす。
『我は汝の契約竜。主に礼を言われる筋合いはない。』
「でも、ずっと支えてくれた。
俺が“静けさ”を選べたのは、お前が隣にいてくれたからだ。」
『……汝は最後まで、面倒な男だ。』
セリアの瞳が潤む。
その金の光の中に、確かに俺の姿が映っていた。
それが、最後だった。
視界が滲み、世界が薄れていく。
風がゆるやかに止まり、波音が遠のく。
「セリア。」
『なんだ。』
「静けさってさ、悪くないもんだな。」
『そうだな。』
微笑んで、目を閉じた。
海と空の境が溶け、
世界がまるごと白い光に包まれた。
——その朝、リオ・クラウスという名の男は消えた。
◆
季節が三つ過ぎた。
王都は穏やかで、人々は笑っていた。
争いも少なく、空気は柔らかい。
ただ、誰も知らなかった。
この平穏を創った男の名を。
ある日、セリアは王都の広場を歩いていた。
噴水の縁で、子どもたちが笑いながら水を掛け合っている。
その笑い声を聞いたとき、
胸の奥がかすかに疼いた。
『……今の声。』
振り返っても、誰もいない。
ただ、風が吹いた。
その風の音が、どこか懐かしかった。
彼女は空を見上げる。
雲がひとつ、ゆっくりと流れていく。
その形が、どこか“誰か”の笑顔に似ていた。
『リオ。』
小さく呟く。
風が優しく頬を撫でた。
それだけで、充分だった。
世界は今日も静かに回っている。
音の中に、平穏がある。
――それが、彼が遺した“静けさ”だった。
第三章 完
次回予告:「最終章 静寂の果て」
すべての記憶が風化したあと、
“音を知らぬ世代”が新たに生まれる。
そこに現れるのは、ひとりの少年――
彼の名は、リオに似ていた。