第16話 共鳴の海、崩壊
――音が、戻らなかった。
白と黒の光が収束したあと、世界は一瞬だけ静止した。
空は灰色、海は鏡のように静まり返り、
風も波も、息さえ止まっていた。
目を開けると、そこは空と海の区別がない場所だった。
上下も左右もなく、ただ“静けさ”だけが満ちている。
「……セリア?」
呼びかけても、声は出なかった。
空気が音を運ばない。
それでも、彼女の姿は見えた。
光の向こうで、白い翼がゆっくりとたゆたっている。
彼女は、泣いていた。
けれど涙も、音を立てない。
ふと気づくと、俺の体からも光が零れていた。
皮膚の下を、金色の糸が走っている。
それは空へ、そして海へと伸びていた。
無数の糸が世界を覆い、
大地も海も空も――すべてが“共鳴”していた。
◆
遠くの空に、巨大な波紋が広がる。
音のない衝撃。
それは、視覚だけで伝わる地鳴りだった。
地上では、王都の人々が空を見上げていた。
誰も言葉を発さない。
ただ、胸の奥で同じ鼓動を感じていた。
同じタイミングで、息を吸い、吐く。
まるで世界全体がひとつの心臓になったかのように。
――それが、“共鳴の海”。
◆
空間の中で、黒い声が響いた。
《見ろ。お前の望んだ平穏は、ついに成就した。》
もう一人の“俺”――静寂の王の声だ。
《誰も傷つかず、誰も叫ばない。
全ての命が一つの鼓動で眠る。
これこそ、完璧な静けさだ。》
俺は首を振った。
心の中で叫ぶ。
(違う! こんなのは死んでるだけだ!)
《生きることに、何の意味がある?》
(意味なんてなくても、呼吸して、笑って……それだけでいいんだ!)
《笑い声など、一瞬で風に消える。
だが静寂は永遠だ。》
(永遠なんて、いらない!)
足元が崩れた。
海がひっくり返り、空が割れる。
金色の糸がすべて、俺に向かって収束してくる。
世界の心臓――共鳴の根。
それが俺の中に戻ろうとしていた。
◆
セリアが近づいてきた。
翼が半ば透けて、光になっている。
彼女の手が、俺の胸に触れた。
『リオ。もうやめろ。このままでは、汝が世界そのものになる。』
「……それでも、終わらせなきゃいけない。」
『終わらせる? 何を?』
「静けさだよ。」
目の前の空が歪む。
あの黒い影――もう一人の俺――が形を取り戻していた。
《やめろ。世界が崩れるぞ。
お前が消えれば、この静けさも終わる。》
「それでいい。」
《お前がいなければ、人はまた争う。》
「それでも、生きるだろ。」
黒いリオが黙った。
そして、微かに笑った。
《……そうか。やっぱりお前は“音を選ぶ男”か。》
その瞬間、彼は手を差し出し――俺の胸に触れた。
光が走る。
冷たい熱が心臓を貫く。
《ならば、私を受け入れろ。
静けさも音も、共に抱いて歩け。》
痛みと共に、黒いリオの姿が溶けていった。
闇と光が混ざり合い、世界が震える。
セリアが叫んだ(声は届かない)。
風が戻り、波が立ち、空が裂ける。
――世界が、音を取り戻した。
◆
次に目を開けたとき、そこは砂浜だった。
潮の匂いがした。
波の音が、遠くで優しく響いている。
「……また、生きてるな。」
呟いた声が、自分の耳に届いた。
涙が勝手にこぼれた。
音が、ある。
それだけで、世界が鮮やかに見えた。
セリアが隣に座っていた。
傷だらけの翼を休め、空を見上げている。
『終わったのか?』
「ああ。もう、誰も眠らない。」
『……そうか。なら、少しだけ眠っていいか?』
「好きにしろよ。」
セリアは目を閉じた。
風が、彼女の髪を揺らす。
空は澄み、海は穏やかだった。
――その静けさは、今度こそ生きていた。
けれど、遠くの水平線の向こうで、
薄い黒雲が、ゆっくりと蠢いていた。
次回予告:「第17話 リオ、消失」
世界は音を取り戻した。
だが、リオ自身の存在が少しずつ薄れていく。
彼の“平穏”が、ついに代償を求め始める――。