第14話 混乱をもたらす男
世界は、音を取り戻した。
鐘が鳴り、風が歌い、鳥が啼き、人が笑う。
人々は「平穏の賢者リオが再び奇跡を起こした」と口々に言った。
――だが、その賢者本人には、何も聞こえていなかった。
◆
白い風が吹く。
市場の喧噪が唇の形でしか伝わらない。
笑い声も、音楽も、遠い夢のようだった。
耳の奥にあるのは、低い「ざらつき」だけ。
波のような音。
でも、それは世界の音ではなかった。
俺の“内側”から鳴っていた。
《……リオ。》
声。
誰のものでもない、けれどどこか懐かしい響き。
《お前はまだ、平穏を望むのか?》
胸が冷たくなる。
思わず周囲を見回す。
けれど誰も気づかない。
ジークが何かを叫んでいるが、音は届かない。
《答えろ。望むのなら、与えてやる。完全な静けさを。》
「……お前は、誰だ。」
《私か? お前だ。》
その声と同時に、視界が揺れた。
世界の輪郭が一瞬だけ滲む。
風が止まり、光が濃くなる。
人の動きが遅れ、影が伸びる。
《忘れたか。私こそ、お前の“静寂”だ。
セレナが消えたあとに残った、もう一つの根。》
「……嘘だ。俺は全部終わらせた。」
《終わりなどない。お前が生きている限り、
平穏を求める心は世界を動かす。》
その声は、やさしく笑った。
だけど、笑いの裏に冷たい金属音が混じっていた。
《今の世界を見ろ。人はまた争いを始めている。
音が戻れば、すぐに騒ぎ出す。
なら、沈黙こそ救いだろう?》
俺は頭を振った。
だが、目の前の光景が変わる。
市場の人々が、言い争いをしている。
王都の門の外では、商人と兵士が剣を抜いている。
わずか七日で、平穏は再び壊れはじめていた。
ジークが何かを叫んで、俺の肩を掴んだ。
その瞬間、彼の口が動いた――
けれど、言葉は届かない。
《聞こえないだろう?》
「……うるさい。」
《このざわめきが、お前を苦しめる。
だから私が代わりに、世界を静かにしてやろう。》
「黙れっ!」
叫んだ声が、自分の耳の中で二重に響いた。
一つは自分の声。もう一つは、その“影”の声。
《拒むな。お前も知っているだろう。
静寂の方が、ずっと楽だと。》
世界が歪む。
色が薄れ、空気が波打つ。
通りの音がひとつずつ消えていく。
鐘の音も、風の音も、足音も。
《ほら。楽だろう。》
「……やめろ。俺は、こんな静けさは――」
その瞬間、胸の奥に熱が走った。
セリアの声が響く。
『リオ! 聞こえるか! その声に呑まれるな!』
「セリア……!」
『汝の中の静寂が、形を取り始めている!』
視界が真っ白に弾ける。
光の中から、人影が現れた。
黒い外套を纏い、俺と同じ顔をしていた。
だが、瞳の色が違う。
深く、音を吸い込むような灰色。
《私はお前だ。リオ・クラウス。
――“静寂の王”だ。》
彼は穏やかに笑い、手を差し伸べた。
《一緒に来い。平穏を終わらせよう。》
風が止まり、影が伸びる。
世界がまた――止まりかけていた。
次回予告:「第15話 セリアの決断」
分裂した“二人のリオ”。
セリアは、どちらの平穏を守るべきか――決断を迫られる。