第13話 沈黙する国々
それは、リオが世界を救ってから七日後のことだった。
朝焼けの王都。
市場には再び人の声が戻り、子どもたちの笑いが響いていた。
焼きたてのパンの匂い、馬車の音、鳥の鳴き声。
何もかもが、以前と同じように“うるさい”。
――その喧騒が、こんなにも愛おしいと思ったのは初めてだった。
俺は露店のパンを一つ買い、
広場の噴水に腰を下ろしてスープを飲んだ。
熱い湯気が、胸の奥の空洞を埋めていく気がした。
「やっと、普通の朝だな。」
そう呟いた瞬間。
風が止まった。
街のざわめきが、まるで水面の下に沈むように静かになった。
パンを手にしたままの少年、喋りかけていた商人、
みんなが、微妙に首を傾げて“聴こうとする”仕草をした。
――音が、消えた。
不自然な沈黙。
まるで世界が一瞬、息を止めたかのように。
「……おい、またかよ。」
ジークが駆け込んできた。
「リオ! 南門の外、変な連中が来てる!」
「変な連中?」
「国章が違う。隣国の旗だ!」
◆
王城の門前には、
青と銀の旗を掲げた兵士の列が並んでいた。
鎧の隙間からは冷たい光。
彼らは“沈黙”の中で整然と動いていた。
王国軍の将校が慌てて叫ぶ。
「おい、待て! ここは――」
その声をかき消すように、
一人の女が馬上から降り立った。
白銀の髪に冷たい瞳。
口を開いたが、音は出なかった。
けれど、確かに声が“心”に直接届いた。
《共鳴……の源を、返してもらおう。》
脳裏に響くその声に、思わず一歩退いた。
「……おい、今の、俺の名前言ったか?」
《リオ・クラウス。平穏の賢者。あなたの沈黙が、我が国を呑み込んだ。》
「はぁ!? 俺、何もしてねぇぞ!」
女は淡く微笑んだ。
その微笑みには、悲しみと怒りが同居していた。
《我らの国は今、音を失った。
人々は眠らず、話さず、ただ心の中で“平穏”を唱え続けている。
――あなたの共鳴が、届いたのです。》
喉が詰まった。
俺の“選んだ静けさ”が、他国へ伝わった……?
「ちょっと待て、それは誤解だ! もう止めたはずだ!」
《誤解ではありません。あなたが目覚めた瞬間、
我々は眠り始めた。》
セリアが前に出た。
『……共鳴の波が反射したのだ。
汝が世界を動かした際、均衡を失った力が他国へ“静けさ”を押し流した。』
「つまり、今度は逆流かよ……。」
女はゆっくりと歩み寄ってきた。
瞳の奥に、かすかな涙が光っている。
《我が国の名は“沈黙の国”。
だが、誰もそれを望んだわけではない。
あなたの“平穏”が、私たちの時間を奪った。》
「……俺の、せいか。」
女は頷いた。
《それでも、あなたにしか止められない。
だから――共鳴の根を分けてほしい。》
「根?」
《あなたの心の一部を、こちらに渡してほしいのです。
そうすれば、沈黙は終わる。》
ソフィアが息をのむ。
「そんなことをしたら、リオさんの心が……!」
『分割すれば、汝の“平穏”が崩壊する。
人格も記憶も、ばらばらになるぞ。』
けれど、女の表情は穏やかだった。
《それでも、あなたなら分かるはず。
“誰かの静けさ”のために、どれだけの音を失ってきたかを。》
俺は拳を握った。
この手は、何度も世界を止めた。
そのたびに、守るつもりで誰かを奪ってきた。
……もう、同じことは繰り返したくない。
「いいだろう。」
《リオ!?》
「やるよ。ただし条件がある。」
《条件?》
「この静けさを、もう二度と誰も使えないように封じる。」
女はしばらく俺を見つめ、それから静かに頷いた。
《――約束しましょう。》
◆
儀式の準備が始まった。
王城の広間。
円形の床に古い魔法陣が刻まれ、中心に俺と女が立つ。
金色の糸のような魔力が、互いの胸をつなぐ。
『リオ、今ならまだ止められるぞ。』
「いいや。もう止めない。
これは、俺がまいた静けさの責任だ。」
『……そうか。ならば見届けよう。』
女が目を閉じ、祈りのように呟いた。
《我らに、音を。あなたに、平穏を。》
光が走る。
世界が震える。
心臓の奥で、何かが裂けた。
視界が白に染まり、音が遠のく。
最後に聞こえたのは、少女――セレナの声だった。
《リオ……あなたはまだ、“静けさ”を信じてくれる?》
「……ああ。」
その答えと同時に、光が弾けた。
風が戻り、鐘が鳴った。
遠くの空で鳥が飛んでいる。
――音が、帰ってきた。
だが俺の耳には、もう何も聞こえなかった。
セリアが駆け寄る。
『リオ! おい、聞こえるか!?』
「……ああ。」
口だけで答える。
耳鳴りだけが続いていた。
世界は音を取り戻した。
代わりに、俺はそれを失った。
――平穏、再びその身を代価に。
次回予告:「第14話 混乱をもたらす男」
世界に音が戻る一方で、リオの中から“もう一つの声”が目を覚ます。
それは彼が封じたはずの、静寂そのものだった。