『「君、明日から来なくていいよ」と同僚がいわれたので、証拠を揃えて反撃したら、組織ぐるみの不正がバレた件』
株式会社ネクサスイノベーションズのオフィスは、定時を過ぎると二種類の空気に分かれる。一つは、安堵の息を吐きながらパソコンをシャットダウンし、速やかに退社する者たちの開放感。もう一つは、デスクに深く沈み込み、終わりの見えない作業に無言で取り組む者たちのよどんだ諦観だ。
そして、そのよどんだ空気の中心には、いつも営業二課の鈴木徹課長がいた。
「田中くん、ご苦労。総務課はいつも定時でいいよな。俺たち営業は、この時間からが情熱の見せ所なんだよ!」
廊下で鉢合わせた総務課の僕、田中健司に、鈴木課長はにやにやしながら声をかけてくる。手には栄養ドリンクの空き瓶。その言葉には、「楽な部署でいいな」という皮肉と、「俺はこんなに頑張っている」という自己顕示欲が透けて見えた。
彼の言う「情熱」とやらのせいで、営業二課のメンバーは毎夜、死んだ魚のような目でモニターを睨んでいる。彼らの残業時間は、会社の中でも突出していた。
僕はこの鈴木課長に前からあるいかがわしさを感じていた。
僕の仕事には、勤怠データの管理も含まれる。だからわかるんだが、システム上、確かに鈴木課長は「管理監督者」だ。労働基準法第41条に定められた、経営者と一体的な立場にある者。だから、彼自身には残業代は支払われない。その代わり、相応の役職手当が支給されている。
しかし、僕は彼の「管理監督」する姿を、営業にいる同僚たちから聞いたことがなかった。同僚から聞くのは愚痴ばかりだ。彼がやっているのは、部下に自分の仕事を丸投げし、精神論を振りかざし、そして定時直前に「あ、この資料、今日の夜までに頼むわ」と平然と言い放つことだけだ。予算の策定や部下の評価といった、本来の管理職が担うべき重要な責務に関わっている様子は微塵もない。僕は同僚から鈴木課長の情報収集を始めた。
ある夜、システムメンテナンスのために会社に残っていた僕は、彼の怒鳴り声を聞いた。
「だから!ここの数字が違うって言ってるだろ!何度言わせるんだ!」
「も、申し訳ありません…」
若手社員の佐藤くんが、消え入りそうな声で謝罪を繰り返している。
その瞬間、僕の中で何かがカチリと音を立てた。自席に戻ると、密かに開発していた勤怠データ分析ツールを起動した。各部署の残業時間、PCのログイン・ログアウト履歴、そして役職者情報をクロス集計する、僕だけの「社内監査システム」だ。
画面に映し出されたグラフは、僕の疑念を確信に変えた。営業二課の異常な残業時間。そして、管理監督者であるはずの鈴木課長が、管理職らしい業務(決裁、人事評価)を全く行っていない事実。彼は、管理職の権限も責任も持たず、高額の役職手当を受け取り、残業代の支払は免れているだけの「名ばかり管理職」だ。
当初の計画は単純だった。この明確な労働基準法違反を、匿名で労働基準監督署に情報提供する。それだけで、僕のささやかな正義感は満たされるはずだった。
だが、証拠固めのために彼の行動を観察するうち、僕は奇妙な違和感に気づいた。彼のパワハラは、無能さからくる気まぐれなものではない。
勤続年数が長く給与水準の高いベテラン社員や、育休明けの時短勤務者など、特定の社員に執拗に集中している。まるで、彼らが自ら「辞めたい」と言い出すのを誘い出しているかのようだ。
胸騒ぎを覚え、僕はもう一歩踏み込むことにした。総務課の権限で経理システムにアクセスし、「業務委託費」の勘定科目を睨む。鈴木課長の入社一週間前、一つの不審な契約が始まっていた。
支払先:合同会社ストラテジック・ヒューマン・ソリューションズ
摘要:人事戦略コンサルティング費用
金額:月額200万円
検索しても、出てくるのはレンタルオフィスに登記されただけのペーパーカンパニー。全てのピースが、最悪の形で繋がった。
課長鈴木徹は、ただの管理職ではない。彼は、経営陣が雇った外部の「リストラ屋」だ。彼の仕事は、社員を管理することではない。会社に代わって非合法なリストラを断行し、社員を自主退職に追い込むこと。そのための、冷徹なプロフェッショナルの偽装社員なのだ。
僕が戦うべき相手は、無能な上司ではなく、会社の暗部そのものだった。
絶望的な状況のはずなのに、僕の口角はわずかに上がっていた。僕の頭に、三年間、毎晩眠い目をこすりながら学んできた社会保険労務士(社労士)の知識が閃光のように駆け巡る。
同時に、弁護士法第72条の壁も理解していた。僕は弁護士ではない。同僚に法律相談をしたり、代理人のように振る舞ったりすれば、僕自身が法を犯す「非弁行為」となる。
僕がやるべきことは、ただ一つ。「事実を、揺ぎない証拠として可視化する環境を整えること」だ。
数日後、僕は総務課の正式な業務として、全社にメールを送った。
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件名:【総務課より】業務効率化と適正な自己評価のための「業務記録」ご協力のお願い
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本文は、社員の自己管理とキャリアプランニングを支援するという、当たり障りのない内容に徹した。しかし、添付されたテンプレートの中身は、僕が判例研究で学んだ「証拠能力の高い記録」のつけ方を、誰にでも実践できるよう落とし込んだものだ。「指示者と指示内容(具体的な言葉をそのまま記載)」「所感」「同席者」といった項目が、その意図を雄弁に物語っていた。
僕は誰にも指示していない。ただ、全社員が利用可能な「武器」を、武器庫に置いただけだ。
その日の午後、僕は自分の席から、営業二課の佐藤くんがテンプレートを自分のデスクトップにコピーするのを認めた。彼の目に、諦めではない、静かな闘志のような光が宿ったのを、僕は見逃さなかった。
法の刃、沈黙の執行
僕が「業務記録テンプレート」を配布してから、一ヶ月が経過した。営業二課の空気は、目に見えて変わり始めていた。以前のよどんだ諦観は薄れ、代わりに静かな緊張感と、ある種の連帯感が生まれていた。佐藤くんをはじめとする数名の社員が、僕の意図を正確に汲み取り、淡々と、しかし詳細に日々の記録をつけ続けていることを僕は知っていた。
そして、運命の日が来た。
その日、営業二課の佐藤くんが、内線で会議室に呼び出された。同席を求められたのは、直属の上司であるくだんの鈴木課長と、人事部長の山田だった。山田部長は、鈴木を雇った黒幕の一人だと僕が特定している人物だ。
僕も「議事録係」という名目で、その会議に同席した。僕の存在を、鈴木は「総務の雑用係」としか見ておらず、山田部長も特に気にした様子はなかった。彼らにとって、僕は背景の一部でしかなかった。
重苦しい空気の中、山田部長が切り出した。
「佐藤くん。残念ながら、君の近頃の勤務態度は、我が社の求める水準に達していない。度重なる指示の誤認、業務の遅延。鈴木課長からの報告も受けている。そこでだ…」
彼は一枚の書類をテーブルに滑らせた。「退職勧奨通知書」だった。事実上の、解雇通告だ。
「これは会社としての温情だ。自己都合での退職として処理する。君の経歴に傷はつかない」
鈴木課長が、勝ち誇ったような歪んだ笑みを浮かべている。これが佐藤君に関する、彼の偽装社員としての仕事の総仕上げのはずだった。
しかし、佐藤くんは俯かなかった。彼は静かに顔を上げると、自分のカバンから一冊の分厚いノートを取り出した。僕が作ったテンプレートを、彼なりにアレンジしたものだ。
「お言葉ですが、山田部長。僕の勤務態度に問題があったとは思えません」
佐藤くんは、ノートの最初のページを開いた。
「X月X日、午前11時。鈴木課長より『A社向けの提案書、今日中に作り直せ。デザインが気に入らない』との指示。具体的な修正点の指示はなし。この作業に5時間。同席者、高橋さん」
「X月Y日、午後8時。鈴木課長より『お前はやる気がないから仕事が遅いんだ。俺の若い頃はな…』と約1時間の叱責。業務とは無関係。同席者、全員」
彼は淡々と、しかし明瞭に、一ヶ月分の「事実」を読み上げていく。それは、感情的な訴えではない。日時、指示者、指示内容、そして客観的な所感が記された、冷徹な記録の連続だった。
鈴木課長の顔から笑みが消え、焦りの色が浮かぶ。「な、なんだそれは!そんなもの、お前の勝手な作文じゃないか!」
山田部長も、予想外の反撃に眉をひそめる。「佐藤くん、そのような個人的なメモに、会社として対応する必要は…」
その言葉を遮り、僕は初めて口を開いた。議事録係の、平坦な声で。
「失礼いたします。議事録の正確性を期すため、いくつか事実確認をよろしいでしょうか」
僕はノートパソコンを開き、プロジェクターに画面を投影した。そこに映し出されたのは、僕が作り上げた「対リストラ屋迎撃システム」の分析結果だった。
「まず、佐藤さんのパフォーマンスについて。A社向け提案書の作業日、佐藤さんのPCログは深夜11時まで稼働。一方、管理監督者であるはずの鈴木課長のプロジェクト管理システムへのアクセスは、その週、一度もありません」
画面が切り替わり、勤怠データと入退室記録のグラフが映る。
「次に、鈴木課長の勤務実態。この一ヶ月、ほぼ毎日、部下である佐藤さんたちと同時刻まで残業されています。これは、労働基準法第41条の管理監督者の要件『勤務時間について厳格な規制を受けない』という点に明確に反します」
鈴木課長(偽装)は顔面蒼白になり、山田部長は唇を噛み締めている。
そして、僕は最後の、そして最大の爆弾を投下した。
「最後に、山田部長にお伺いします。貴社が、合同会社ストラテジック・ヒューマン・ソリューションズに対し、月額200万円の『人事戦略コンサルティング費用』を支払っている記録がございます。この会社、そして鈴木徹氏との関係について、ご説明いただけますか?」
会議室は、完全な沈黙に支配された。
佐藤君の頭には「ざまあ」の吹き出しが浮かび上がているようだった。
僕が提示したのは、個人のメモではない。PCログ、勤怠記録、経費の支払い履歴という、誰もが否定しようのない客観的なデータだ。そして、それらが指し示す一つの結論。
――会社ぐるみで行われた、非合法な退職強要工作。
山田部長は、すべてを悟った顔で、がっくりと肩を落とした。鈴木課長(偽装)はもはや、彼らにとっても切り捨てるべき火種でしかない。
「…鈴木くん。君は、少しやりすぎたようだ。今日の話は、一旦保留としよう」
それは、完全な敗北宣言だった。
数日後、鈴木課長(偽装)は自己都合という形で、ひっそりと会社を去った。彼を雇っていた山田部長も、子会社への出向という名の左遷が決まった。佐藤くんや他の同僚たちが、不当な扱いで会社を去ることは、もうない。
僕のデスクに、差出人不明の封筒が置かれていた。中には一枚のカードと、有名店のコーヒーチケットが一枚。「ありがとう」とだけ、丸みを帯びた文字で書かれていた。
僕はそのカードを静かに引き出しにしまい、机の上に広げていた社労士のテキストに目を戻す。
法は、知る者にとっては最強の武器となり、知らぬ者にとってはただの文章の羅列だ。そして、法を軽んじる者には、最も冷徹な刃を突きつける。
静かなオフィスに、僕のキーボードを叩く音だけが響いていた。あれから噂になった「必殺裏の監査役」のもとに、あらたな仕事がまいこんできたのだ。やれやれ。
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※ この物語はフィクションです。登場する個人、団体、企業名、および事件はすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。これらは、現実世界における特定の行為の合法性や、その有効性を保証するものではありません。実際に労働問題や法律上のトラブルに直面された際には、安易な自己判断はなさらず、必ず弁護士、社会保険労務士、またはお近くの労働基準監督署など、専門の知識を有する機関にご相談ください。