聖女の妹にすべてを奪われ追放された地味令嬢、氷の辺境伯様に拾われてなぜか胃袋ごと溺愛されています
物心ついた時から私の世界は灰色だった。
異母妹のリリアンナが「聖女」として覚醒したのは彼女が十歳、私が十二歳の時だ。
神殿の儀式で彼女が触れた枯れ木に青々とした葉が宿り、小さな花が咲いた瞬間、私の人生は「聖女の出来損ないの姉」として完全に固定された。
父である伯爵は、聖女を輩出した家の当主として舞い上がり、リリアンナを蝶よ、花よ、と甘やかした。
継母に至っては実の娘であるリリアンナこそがすべてであり亡き前妻の娘である私は視界に入れるのも不愉快だと言わんばかりの態度を取った。
「エリアーナ、あなたもリリアンナのように何か特別な力は無いのですか?」
「お姉様は地味ですものね。きっと、何の力もお持ちではないのよ」
家族の食卓で私の席だけが用意されていないことも一度や二度ではなかった。
それは単純な忘れ物などではなく明確な意思を持った排除だった。私が戸惑っているとリリアンナが天使のような微笑みで言うのだ。
「あら、お姉様。ごめんなさい。わたくしがお姉様の分まで食べてしまいましたわ。だってお腹が空いてしまって」
そう言って笑う妹を誰も咎めはしなかった。
学園ではさらに地獄が待っていた。
リリアンナはその可憐な容姿と聖女という肩書で、あっという間に中心的な存在になった。そして、彼女の信奉者たちは彼女の意を汲んで私を徹底的に追い詰めた。教科書はインクで汚され、ドレスの裾は知らぬ間に切り裂かれていた。
私が得意だった刺繍の作品は「こんな陰気なもの、リリアンナ様のお姉様が作ったなんて信じられない」と笑いものにされ、ズタズタに引き裂かれた。
一番心を抉ったのは、婚約者であるアルフォンス第二王子の裏切りだった。幼い頃は穏やかで優しい人だった。しかし、リリアンナが聖女となってからは彼の態度は見る見るうちに変わっていった。
公の場で彼は私の手を決して取らず、いつもリリアンナを隣に立たせた。私が勇気を出して話しかけても「ああ」とか「そうか」とか、生返事ばかり。
その視線はいつも私の向こう側にいるリリアンナに向けられていた。
ある時、リリアンナが王子との乗馬の練習中に落馬したことがあった。
実際は彼女自身の不注意だったにもかかわらず彼女は涙ながらに王子にこう訴えたのだ。
「お姉様が……わたくしの馬に何かしたのかもしれません。最近、わたくしが殿下とお話ししていると、とても怖い顔で睨んでくるのですもの……」
その日から、アルフォンスの私を見る目は冷たい軽蔑の色を帯びるようになった。
彼は私の言葉を一切信じなくなった。
私のささやかな抵抗は料理だった。
厨房の隅を借りて亡き母が遺したレシピ本を頼りに作る温かいスープや素朴な焼き菓子だけが私の心を慰めてくれた。
けれど、それさえもリリアンナに見つかれば「まあ、お姉様。貴族令嬢が厨房に立つなんて、はしたないですわ」と嘲笑の種にされるだけだった。
すべてを否定され、すべてを奪われ、私の心は色のない布のようにすっかり擦り切れてしまっていた。
だからあの日、運命の夜会の招待状が届いた時、私はすべてが終わることを心のどこかで予感していたのだ。
夜会の喧騒がまるで遠い世界の音のように聞こえていた。きらびやかなシャンデリア、華やかなドレス、陽気な音楽。
そのすべてが私だけを拒絶しているようだった。
案の定、エスコート役であるはずのアルフォンス王子は、私のことなどいないかのようにリリアンナの手を取りダンスの輪の中心にいた。
私は壁際に立ち、ただひたすらに時が過ぎるのを待っていた。
やがて音楽が止み、アルフォンスがリリアンナを伴って私の元へやってきた。
彼の目に宿る氷のような冷たさに、私は息を呑む。
「エリアーナ・フォン・ラウシュナー!」
高く、よく通る声が、ホールに響き渡った。
一瞬にしてすべての視線が私に突き刺さる。
「貴様との婚約を、本日この場を以て破棄させてもらう!」
知っていた。
分かっていたはずなのに、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。
隣に立つリリアンナは、潤んだ瞳で王子を見上げ、今にも泣き出しそうな悲劇のヒロインを完璧に演じている。
「アルフォンス殿下、お待ちください!いくらなんでも、お姉様が可哀想ですわ!」
「リリアンナ、お前は優しすぎるのだ」
王子はそう言って妹を庇うと、再び私に憎悪の視線を向けた。
「理由は分かっているな?いや、それだけではない!リリアンナからすべて聞いたぞ。お前は日頃から聖女である彼女の才能を妬み、陰で執拗な嫌がらせを続けていたそうだな! なんと醜く、嫉妬深い女だ!」
周囲が「まあ」「やはりそうだったのね」と囁き合う声が聞こえる。
リリアンナが長年かけて蒔いてきた毒が、今まさに花開いた瞬間だった。
弁解しようと口を開きかけたが、声が出なかった。
ここで何を言っても、誰も信じてはくれないだろう。この場にいる全員が、私の敵なのだ。
絶望が胸を満たし、視界が滲む。
だがその滲んだ視界の向こうに私は確かに見た。
リリアンナが王子の影でほんの一瞬だけ、私に向けて浮かべた勝利の笑みを。
その瞬間、何かがぷつりと切れた。
悲しみも、悔しさも、すべてがどうでもよくなった。
(ああ、もういい)
もう、この茶番に付き合うのはたくさんだ。
私は震える体を叱咤して、最後の力を振り絞って背筋を伸ばした。そして、練習してきた淑女の礼を完璧にこなし顔を伏せた。
「……殿下のご決断、謹んでお受けいたします」
予想外に凛と響いた自分の声に、少しだけ驚いた。
「ですが、一つだけ、お願いがございます」
「なんだ、慰謝料の催促か?強欲な女め」
「いいえ、滅相もございません」
私はゆっくりと顔を上げた。
涙は、もう流さなかった。
「このままラウシュナー家に戻っても、私の居場所はございません。つきましては、王国の北の果て……ヴォルフガング辺境領へ、わたくしを追放していただけないでしょうか」
ホールは水を打ったように静まり返った。
誰もが私の言葉を理解できずにいるようだった。
ヴォルフガング辺境領。
一年中雪に閉ざされ、魔物が跋扈し、土地は痩せこけた極寒の地。
そこを治めるのは『氷の辺境伯』と噂される冷酷非情な人物。
貴族にとって、そこは流刑地同然の場所だった。
だが、私にとっては唯一の希望だった。
誰にも干渉されず、聖女の姉として比べられることもない。
静かな場所で土をいじり、ささやかな家庭菜園でもしながら暮らす。それが私の長年のささやかな夢だった。
アルフォンスは私の突拍子もない願いに一瞬戸惑った後、侮蔑に満ちた笑みを浮かべた。
「辺境送りとはな。自ら惨めな暮らしを選ぶとは、お似合いではないか。いいだろう。その願い、聞き届けてやる!」
こうして私は、聖女の妹にすべてを奪われた嫉妬深い姉という罪状で、王都から追放された。
そして、ようやく手に入れたのだ。自由を。
北へ向かう馬車の中で私は長年隠し持っていた母のレシピ本を胸に抱きしめ、生まれて初めて心からの笑みを浮かべるのだった。
ヴォルフガング辺境領は噂以上に過酷な土地だった。灰色の空はどこまでも低く、凍てついた風が容赦なく肌を刺す。
到着した私を出迎えたのは無表情な執事と、『氷の辺境伯』、カイゼル・フォン・ヴォルフガングだった。
銀色の髪にまるで冬の湖のような青い瞳。
彫刻のように整った顔立ちは人間離れした美しさを持っていたが、その表情は一切の感情を映していなかった。
「……お前が、王都からの厄介者か」
その声は、彼の瞳と同じくらい冷たかった。
「好きにしろ。だが、俺に迷惑だけはかけるな」
そう言い捨てて去っていく彼の背中を見送りながら、エリアーナは不思議と安堵していた。
王都で向けられた偽りの同情や、ねっとりとした好奇の視線より、この無関心の方がずっと心地よかった。
与えられたのは城の離れにある小さな部屋。
食事は硬いパンと味のない塩漬け肉、そして水っぽいスープだけ。だが、エリアーナは絶望しなかった。
むしろ、彼女の心には静かな闘志が燃えていた。
「ここなら、誰も文句は言わないはず」
彼女は厨房の隅を借り、持参したわずかなスパイスと母のレシピ本を頼りに料理を始めた。
そして城の裏手にある凍てついた地面を、来る日も来る日も根気強く耕し始めたのだ。
周囲は「無駄なことを」と嘲笑したが、エリアーナは気にしなかった。
彼女は知らなかった。
自分の魔力には植物の成長を促し、土地の力を活性化させる、地味だが非常に稀有な特性があることを。
彼女が愛情を込めて土に触れるたび、凍てついた大地の下で何かがゆっくりと目覚めていた。
数週間後、奇跡が起きた。彼女の小さな畑から青々とした葉野菜の芽が出たのだ。それはやがて、瑞々しく、生命力に満ち溢れた野菜へと育った。
その日、エリアーナは収穫したばかりの野菜をふんだんに使ってコトコトと時間をかけてスープを煮込んだ。
鶏ガラで丁寧に出汁を取り、野菜の甘みを最大限に引き出す。最後にほんの少しの塩とハーブで味を調えたスープは辺境では考えられないほど豊かで、優しい香りを漂わせた。
夕食の席、エリアーナは恐る恐るそのスープをカイゼルの前に置いた。彼は訝しげに眉を寄せたが、一口スプーンで口に運ぶとその動きがぴたりと止まった。
彼の青い瞳がわずかに見開かれる。
「……なんだ、これは」
「カブと人参のポタージュです。お口に合いますでしょうか……」
「……温かい」
ぽつりと、カイゼルが呟いた。
それは味の感想ではなかった。
まるで生まれて初めて温かいものに触れたかのような、戸惑いを帯びた声だった。
彼はそれから無言でスープを最後の一滴まで飲み干した。
その日から、城の食卓は一変した。
エリアーナの作る料理はカイゼルの凍てついた心を、そして荒んでいた城の者たちの心を、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていった。
黄金色のグラタン、肉汁あふれるパイ、ふわりと甘い焼き菓子。彼女の料理はただ美味しいだけでなく、食べる者の心をじんわりと温める不思議な力を持っていた。
カイゼルは食事の時以外にも、何かと理由をつけてエリアーナの前に現れるようになった。
彼女が畑仕事をしていると、何も言わずにその隣に立ち、ただじっと彼女の手元を見つめている。
彼女が厨房でレシピ本を読んでいると「それは何の本だ」と声をかけてくる。
その声にはもう最初の頃のような刺々しさはない。
ある吹雪の夜、カイゼルは暖炉の前でグラスを傾けながらぽつりぽつりと自分の過去を語り始めた。
かつて魔物の大侵攻で家族と多くの領民を失ったこと。その日以来、彼の心は凍てつき温かい食事も、人の優しさも、感じることができなくなってしまったこと。
「だが」と、彼は言った。
「お前の作るものはなぜか温かいと感じる。腹の中だけでなく、この辺りまでだ」
そう言って彼は自分の胸を無骨な指でとん、と叩いた。
エリアーナの目から一筋の涙がこぼれ落ちた。
虐げられ、否定され続けた人生で誰かにこんな風に肯定されたのは初めてだった。
その頃、王都では未曾有の危機が訪れていた。
聖女リリアンナの力が完全に枯渇し国中が凶作と原因不明の厄災に見舞われたのだ。
神官たちが調査した結果、ようやく彼らは真実にたどり着く。リリアンナの聖女の力は常にそばにいたエリアーナの持つ「浄化と育成」の魔力を無意識に増幅して発揮されていたものだったのだ。
エリアーナこそが国の豊穣を支える真の源泉だった。
真っ青になったアルフォンスは慌てて使者をヴォルフガング辺境領へ送った。
「丁重に。何としてもエリアーナ様を王都へお連れしろ」と命じて。
しかし、城門の前で使者を迎えたのは氷の視線をたたえたカイゼルだった。
「エリアーナを王都へ?何の権利があってそんなことを言う」
「そ、それは国王陛下のご命令で……国が、エリアーナ様のお力を必要としております!」
「笑わせるな」
カイゼルの声は、吹雪よりも冷たかった。
「お前たちが石ころのように捨てた女だ。今更どの口がそれを言う。彼女がいた場所は、俺の隣だ。彼女の作る温かい食事を食うのも、彼女の笑顔を見るのも、この俺だけの特権だ」
彼は踵を返し厨房で夕食の支度をするエリアーナの元へ向かった。そして、背後から彼女を優しく抱きしめ、その肩に顔をうずめた。
「カイゼル様?」
「……エリアーナ」
彼の低い声が耳元で甘く響く。
「お前はもうどこにも行くな。俺の胃袋ごと、心ごと、お前に捕まれてしまったんだからな」
凍てつく辺境の地で追放された地味な令嬢は誰よりも熱い愛とかけがえのない居場所を見つけた。
彼女の作る料理はこれからもこの凍土を豊かにし、愛する彼の胃袋と心を、永遠に温め続けるだろう。
王都の未来などもう彼女の知ったことではなかった。
お読みいただきありがとうございました。
よく小説書いてます。よろしくお願いします。