第86話 帰還
「ほれ、終わったぞ。犬の方も無事だ」
「あ、ありがとう……ございます」
かつて私の命を救ってくれた一人、医者のジャン。
私は再び彼の世話になっていた。
「全く無茶をしおって。そんな犬一匹のために自分の命をふいにする奴がおるかい」
「……確かに、人間に比べたら犬の命は軽いのかもしれないけど……けど私は守りたかったから」
「ふん、後悔していないならいい。それと、守った以上は大事にしてやれ。最後までちゃんとな」
「はい。もちろん」
「ワン! ワン!」
既に子犬はすっかり私に懐いており、私の中でも他人とは思えないほどに距離が縮まっている。
馴れ初めを知った人には“一時の正義感”に映るかもしれない。
実際、私の背中を押したのは怒りという瞬間的な感情だった。
でも今は違う。使命感なのか責任感なのか。上手くは言えないけど、私は重みを感じている。
それも何だか温かくて、心地が良い重みだ。
「ニカワ」
「ワン?」
「あなたの名前はニカワよ」
「ワン! ワン!」
それが私とニカワとの出会いだった。
「よう、ジャン! ラキュアは助かったかい?」
しばらくしてストライクがやってきた。
先ほどまで死闘を繰り広げていたとは思えない、いつも通りの爽やかな声だ。
要するに、彼の中では死闘ですらなかったということか。
「傷は小さい。すぐに良くなる」
「なら良かった」
「ストライク、あの二人は……?」
「適当なところに放り出してきたよ。たっぷりと脅しつけてきたし、もう二度と来ないだろうぜ」
そう言って、ストライクはご機嫌そうに笑った。
……本当に大丈夫かな。少し不安だ。
「あぁ、それよりラキュア。あんたにお客さんだ」
「…………えっ!?」
「道に迷ってたところに偶然、会ってな。安心していいぜ、セパみたいなのと違って悪い大人じゃないから」
「…………」
言っている意味が分からない。
私に用事があるなんて、そんな人がこの世に存在するのだろうか?
やがて彼が連れてきたその人物を見ても、やはり私に見覚えなど無かった。
「初めましてお嬢さん。私はペッグ。世間では名探偵として知られています。ペガメンテの紐解きシリーズ、ご存じでしょう?」
「いや、知らない……」
敵意は感じられないが、どこか胡散臭い。信用していいものだろうか。
今すぐ背を向けて逃げ出した方がいいんじゃないか。
そんな私の考えは、次にペッグが放った言葉であっけなく吹き飛んだ。
「シエラ・グルーのご令嬢、ウルシア・グルー嬢で間違いありませんか?」
「っ!? あ──」
両足を吹き飛ばされたかのような錯覚に襲われ、私の体は床へと崩れ落ちた。
落ち着きを取り戻すのにどれほどの時間を要したのか分からない。
その男は私を落ち着かせようと、ただひたすらに自分の武勇伝を語り続けていたようだった。
祖父が私に莫大な遺産を遺そうとしている。
あまりにも突拍子の無い話ではあったが、それが嘘ならこうやって死んだはずの少女を捜そうとはしないだろう。
「いかがでしょうか、ウルシア嬢」
「…………」
誰がどう考えたって結論は一つだ。
私が暮らしてきたこの世界より、遥かに上質な世界が待ち受けている。
「…………」
それなのに、私はどうして頷けないのだろう。
ラキュアが消える世界に迷いを抱いている。
ウルシアが現れる世界に不安を抱いている。
この四年間という年月は決して短いものではなかった。
私の心を歪に捻じ曲げて、偏った人間に作り替えるには十分すぎる時間だった。
「行ってきなよ、ラキュア」
「え……」
そんな私の背中を押したのは、やはりストライクだった。
「ニカワも一緒に連れていってやりな。お前がいないときっと寂しがるからさ」
「でもストライク、私がいなくなったら──」
「いいんだ、お前には幸せになる権利がある。そいつを捨てちゃ駄目だぜ。あの日、お前の命を救って良かったって、俺にも思わせてくれよ」
「……!!」
ストライクは自分のことのように喜んでくれていた。
それが嬉しくて、何よりも嬉しくて、私は……!
「……分かった。分かったよ。私……!」
ペッグと共に行くことを決める。
「ご両親のことは気の毒でした。今さら犯人を裁くことはできないでしょう。ですが長老はずっとそなたのことを気にかけておりました。そなただけは幸せになれるよう方々に手を尽くし、今もなお全身全霊で生きながらえているのです」
「私、その遺産が欲しい……! 本当に手に入るの?」
「えぇ、もちろん! そなたは失った幸せを取り戻すのです!」
その遺産があれば、ストライクたちに恩返しができるかな……?
私だけの幸せじゃなくて、みんなの人生も同じくらい幸せにできるかな……?
きっとできるよ。
もう終わりにしよう、呪われた人生を……みんなと一緒に。
「行こう、ニカワ!」
「ワン!」
この瞬間、私は再びウルシアとして生きることとなった。
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パーチメント王国の港から数時間の船旅を経て、長老の住む島へ向かう。
それ自体は初めての経験ではない。
遠い昔、まだ健在だった両親と共に挨拶に行ったことがある。
そう記憶はしているが、体の方は覚えていなかった。
青い海、潮風の香り、海鳥の鳴き声。私自身のありとあらゆる感覚がこの訪問を初めての体験であるかのように訴えていた。
「足元に気をつけて。こちらです」
「う、うん……」
島に着いてからも同じ。
船着き場から館へ向かうまでの一本道ですら、ペッグの案内に従うのみ。
私自身の意思で歩を進めるのを躊躇するほどに、そこは他人の世界だった。
「お待ちしておりました、ペッグ様。主人がお待ちです」
「お待ちしておりました、ウルシア様。そちらの子犬は名前が未登録です。どのようにお呼びいたしますか?」
「え、え……?」
館に入った私を出迎えたのは、人間らしさを微塵も感じさせない執事とメイド。
この二人については記憶に無い。完全に初体験だ。
「よくやってくれた、ペッグ。その子が……?」
「はい、こちらがウルシア嬢ご本人です」
そして長老。私の祖父。アウスハルト・ベイツメン・グルー。
当然ではあるが私の記憶よりも年を取っていて、そして私の記憶よりも痩せ細っていた。
本当に本人なのか確信が持てなかった。
……いや、それはきっと長老も同じなのだろう。
「私のことが分かるか……?」
「…………」
お互いに変わり果てた姿で両者が見つめ合う。
答えあぐねる私に代わってペッグが口を開いた。
「確かにご本人ですよ長老。シエラ殿の事故が起きた翌日、近くの病院に運ばれていますからな。年齢も合う。間違いありませんよ」
「うむ……」
ペッグがいなければこの静寂の時間は永遠に続いたことだろう。
時折、ニカワが体を震わせる音が聞こえるだけの、赤の他人のような空気が部屋中を包み込む。
そんな重苦しい空気を変えたのは一人の少女だった。
「お爺さん、お呼びですの?」
私よりも小さい子供。
グルーの館には似つかわしくないほどに傷や汚れが目立つ服を着ていて、そこから垣間見える身体は包帯が隙間なく巻かれていた。
「わ、私以外にも連れてこられた子供がいたの……?」
「何を馬鹿なことを。ペッグから聞いていないのか? その子供が私の主治医だ」
「ええっ!?」
一応、聞いてはいた。
私がもう一つ年を重ねるまで祖父を生き永らえさせる。そのためにギルド・カートリッジから派遣された人物がいるということを。
てっきり修道女のような大人の女性をイメージしていたのだが……。
「はじめまして、エフィ・ルレッドと申しますの。お会いできてとても嬉しいんですの。ここにはエフィみたいな子供もいなくて──」
目の前の少女は、同年代──というには私の方が少し年上だが──の相手と久しぶりに会えた、と喜々として語り続けている。
その雰囲気を肌で感じ、やはり彼女は別の世界の人間なのだと納得した。
確かに見た目の痛々しさは、私が今まで暮らしてきた世界から飛び出してきたと言われても不思議ではない。
だが、その目の輝きや喋り方には……何というかツヤがあった。
長老の目的のために不自由を押し付けられてはいるが、衣食住の保障された生活は送れているようだ。
それを私は“自分と同族”と誤解したわけだが、彼女はそこに怒りや悲しみは感じていないらしく、少しだけほっとした。
「何ですの? さては信じてないんですのね? ならばエフィのエリートぶりを見せてあげるんですのよ!」
「え? い、いや私は……」
「その子犬ちゃん、怪我してるんですのね? 大丈夫、エフィに任せるんですの」
警戒する目つきで睨むニカワに、エフィはそっと手を触れる。
そして……!
「『ピックニック・パッド』!」
エフィの腕から飛び出した包帯がニカワに巻き付いていく。
何が起きているのか……すぐに理解した。
「ニカワの怪我が……治ったの!? これって……!」
私と同じ。エフィ・ルレッドはプレーン能力の持ち主だった。




