やまいの山井堂
「それじゃあごゆっくり」
黒い三日月のような目を更に細くして山井さんは微笑んだ。
柔和で人懐っこさを感じさせる、接客のお手本のような笑顔を見せる女性だ。
勝手口から通り抜ける風で鴨居にかかった私のスカートが揺れる。
幸いにも打ち水の被害は少ない。それほど時間はかからずに乾いてくれるだろう。
貸してもらったナフタレンの匂いがする大きなチュニックのような臙脂色のワンピースはレトロで、薄暗い部屋とかすかな畳の匂いに見知らぬ人の実家に来たような気になる。
外の炎天下が信じられないほど部屋は涼しい。見たところ空調の類いは一切無く、建物の性質なのだろうか。
表看板には「やまいの山井堂」と書かれていた。ダジャレのようだが部屋から見える店内の様子は歴史ある漢方薬局といった体で、温度や湿度に変化が少ないようにできた建物なのかもしれない。
この町には何度か来ているけれどこの店は初めて見た。客先への行き帰りなので見落としていただけだと思うが。
ぼんやりと帰り道を歩いていた私にうっかり打ち水をかけてしまった店主の山井さんに強引に店の奥へと連れ込まれ、こうして麦茶を飲んでいるとこれから職場に戻る気分にならない。
客先では話し込むことが多く、戻り時間なんてあってないようなものだから直帰連絡をしてしまうのもいいかもしれない。
雰囲気に何故か落ち着いてうとうとと船をこいでいると、話し声で揺り戻された。どうやらお客さんが来たらしい。
店のほうを見るといかにも偉い人、という雰囲気のスーツのおじさんが山井さんと向かい合っていた。
「いつもの、二日分で」
「はいはいすぐ用意しますね」
山井さんは引き出しを開けて紙の束を取り出すと何かを書き込んでいる。
「効果は今日の夕方から明晩まででよろしいですか?」
「ああ、頼む」
はて?
薬を売るにしては妙なやり取りだ。
もしや、いけないほうの薬を売ってる?
「それではー……仮病二日分と偽薬で五千円いただきます」
ん?
私の疑問をよそに、おじさんはなんの戸惑いもなく五千円札を差し出した。
「はいちょうどいただきます」
その言葉を合図にするように、おじさんの顔が薄暗い店内でもはっきりとわかるくらい突如青白くなった。
どこからどう見ても具合が悪そうだ。
「いつ来ても、信じられない店だな」
そんな、声まで喉を悪くしたかのようにガラガラになってる!
「明日までお大事にー」
「また頼むよ」
おじさんは具合が悪そうなまま店を出て行った。大丈夫、なんだろうか?
「あら、見てたの? なにか面白いことでもあった?」
おじさんを見送った山井さんは振り返って微笑んだ。
それは恐ろしげなところなど微塵もなく、世間話の延長みたいに。
「ええっと、ここってなにを売ってるんですか」
「表看板見なかった?」
「見ましたけど。大きく『やまいの山井堂』って書いてある看板」
「うちは『やまい』を売っているの」
だからそこが理解できないのだ。
やまいを売るってなに?
「さっきのお客様は仮病を買いにきたの。仮病を買ったから、すっごく具合悪そうに見えたでしょう?」
もうここはそういう店として受け入れるしかないのか。
病を売るなんてにわかには信じがたいことでも、どうせ納得のいく説明など受けられない。
「仮病なんてわざわざ買うものなんですか」
「いつも部下の方が具合が良くないのに無理に出勤して早退しないときにいらっしゃるから、今回もそうじゃないかしら? 自分が具合悪いからって理由で一緒に早退できるでしょう?」
確かに上司が具合悪くて帰るとなれば、その下についてる人は帰りやすくなるかもしれない。
あれだけ具合が悪そうな仮病なら周囲も疑うことはないだろう。
「うちはその人が本当に必要としているやまいであればなんでも売りますよ。仮病も死病もなんでも」
死病を必要とする……どんな人なのだろうと思ったけれど口に出すのはやめておいた。
「買いに来た本人しか発病しないから死病なんて買う人滅多にいませんけどね」
それでもいるのか。
なんというかさっきの光景も山井さんの言葉も自分の目と耳がばかになったような感じで、私はまだ船をこいで夢を見ているんじゃないだろうか。
これが夢なら安心なのだけど。
「そろそろ良さそうね」
山井さんはそんなことを言いながら干していたスカートをハンガーから外す。
「あ、では着替えたらお暇させていただきますね。本当にありがとうございます」
「いえいえこちらのせいでしたし。これも縁だと思って今度は普通に遊びに来てくださいな」
結局自分が寝ているのか起きているのか曖昧なまま服が乾いたらしい。
借りてたワンピース着心地良かったな。今度似たようなの探してみよう。なんてタグをチェックしながら服を着替える。
元のスーツに着替えればもうふわふわとした気分も吹き飛んで、日常がすぐ横に近付いてきた。
うん、特に問題ないな。
挨拶をして店を出ようと思ったそのとき、また店にお客さんがやってきた。
山井さんに挨拶するなら落ち着いてからのほうがいいよね?
着替えに使った奥の部屋から元居た茶の間に移動する。山井さんの接客が終わったらすぐに出られるように待機しておこう。
今度のお客さんはおじいさんだった。そこそこ大柄で痩せている普通のおじいさん。
「ヤマさん、もう駄目だ」
「どうしましたか」
山井さんと顔見知りなのか親しげな様子だ。
「俺、ボケが始まったってよ」
「まだそんな歳でもないでしょうに」
「医者で言われたんだ。まだ初期だって、こんなに早くわかるのは珍しいとさ」
「そうなんですか」
「俺にはもうヨメも息子もいないけど、息子の嫁がいるんだ。俺一人だったらボケて野垂れ死んでもいい。でもあの子は死んだ旦那の親にも気を遣ってくれる良い子なんだ。あの子に知られたら俺の面倒を見させることになる。だからヤマさん、俺に死病を売ってくれないか?」
「ボケて迷惑かけて死んだより、病気で死ぬほうがいいと?」
山井さんの問いにおじいさんは頷く。
「自分の葬式代くらいはあるし、今なら少なくとも遺産もある。若くして死ぬようなバカ息子の親として、そんなバカを選んでくれたあの子にはなにか遺してやりたいんだ」
「こっちは売ってくれと言われれば売ることは出来ますけれど、もっと病気じゃなくて確実な死を売ってるお店とか他にあるんじゃないですか?」
そんな店あるか、と思いつつ自信が無い。病を売って病を買う人がいるなら、「死そのもの」を売る店もあるのか?
「ヤマさんの店で最期の買い物をしたかったんだよ」
「そういうことならなるべく苦しまずすぐ死ぬような病を選ぼうか」
「おう、夜布団に入ってそのまま目覚めないくらいのやつで頼むわ」
えーちょっと待って。目の前に死にたい人がいて、死ぬ方向で話がまとまりかけているけど、それを私は見過ごしてても良いの?
だっておじいさんの遺産が確実に息子のお嫁さんに渡るなんて限らないじゃない。
孫がいるならまだしもいないんでしょ?
遺書とかあるのかな……あったとしてこの人ちゃんと法的効力のある遺書用意してるの?
「あの!」
頭がぐるぐるしてわからない。だけど私には見過ごすなんて無理だ。
「おじいさん、死なれる前にきちんとした書面で遺産についての指示は書かれていますか?」
唐突に割り込んできた私を見ておじいさんはぽかんとしているが気にしない。
「死んだ後に望んだように遺産が渡らないことが多々あります。遺書を書かれていても法的効力のある遺書でないと、その通りにするのは難しいのです。ですから、どうか死なれる前に私の勤め先にいらしてください」
勢いよく名刺を差し出すと、おじいさんは勢いで私の名刺を受け取った。
「えっと……行政書士事務所?」
「効力のある遺書は専門家を交えるのが一番の近道です! 私は行政書士ではありませんが、お嫁さんのために遺したいものがあるなら、どうか一度お話だけでもしにきてください」
私の顔と名刺を交互に見て、やがておじいさんは力なく笑った。
「ああそうか、そうだよな。なにもせずに死んだらそれこそ無責任だ。ありがとう嬢ちゃん」
「すみません。商売の邪魔をしてしまいまして」
かっとなってとんでもないことをしてしまったと今更ながら思う。
「いいのいいの。私だってお客様に死んで欲しいわけじゃないんだし、それにきっとまた来るでしょう? ちゃんとした遺書を作ってからね」
こういうかっとなりやすいところ先生にも気を付けるように言われてるんだけどなあ。
「覚えておくわ。死にたい人を引き留めた正義の人ってね」
本当に申し訳なく思ってます。
「私は心から褒めてるのに」
ふわっと柔らかいものに包まれる。
気が付くと山井さんが私を抱きしめていた。
「ありがとう。あのお客様は死ぬのにはまだ早かったから助かったわ」
「あ、はい。どういたしまして?」
挙動不審になりながら訳のわからない返事が口を出た。
今日はどうにも締まらない日だ。
店を出るとすっかり夕暮れだった。
少し歩いて振り返ると、そこにはもう店はなかったし、そんな気はしてた。
きっとまた縁があればお邪魔することもあるのだろう。
病を売る少し不思議なあの店に。