文句を言うのは好意の証
『とろいわ。いつまでダラダラと仕事しているの。まったく、だらしない犬ね』
一時間で仕事をやっつけ、オフィスを出た僕が野菊に電話すると、彼女はそんな言葉で労ってきた。
昨日と今日でなんとなく分かってきたけれど、野菊はストレートな愛情表現が苦手だ。だからつい、捻くれた物言いや罵倒みたいな言い回しになってしまいがちなようである。
つまるところ、先の彼女の発言は要約すると、「お疲れ様、お仕事は終わった? 早く会いたいな」とかそんな感じになるのである。多分。
だから、返す言葉としての模範解答はこうだ。
「うん、ありがとう。僕もだよ」
『……罵倒されて喜ぶなんてどんな趣味をしているの? 気持ち悪いわ、変態なの?』
マジでドン引きしてる反応が返ってきた。
どうやら僕は返す言葉を間違えてしまったらしい。
まあ、確かに冷静に考えてみれば、『だらしない犬』なんて言われて『ありがとう』なんて返したら変態と勘違いされても文句は言えない。野菊検定一級取得はまだまだ先の話のようだ。
とはいえ正直なところ、今僕が喜んでいることは否定できない。
だって仕事終わりに彼女の声を聞けるんだよ。「あー、今日も仕事終わったー……」って言って一人寂しく部屋に帰ってコンビニ弁当をつついたりしなくていいんだよ。
こんなのもう嬉しいに決まってるでしょ。「とろい」だの「だらしない」だの「犬」だの言われたって、人の温もりのほうが遥かにでかい。なんなら仕事を終えたあとなら、どんな罵倒セリフだとしても野菊の口から出る言葉ならなんでも嬉しい。
「僕は幸せ者だなあ」
なんて、思わずスマホに向かって僕は言っていた。
『は……?』
野菊はさらにドン引きしていた。まあ、そうだよね……変態って呼ばれて幸せを感じているように野菊の立場だと思うよね……ごめん。
自分の彼氏が変態だと勘違いさせたままなので、僕は思ったことを正直に告げることにした。
「いや……仕事を終えたあとに彼女の声が聞けるなんて、それだけで僕はなんて幸せ者なんだろうなあって思ってさ」
『なっ――』
そんな風に野菊が息を飲んだかと思うと、デジャヴを思わせる何かの落ちるような音が聞こえてきた。
どうやらまたスマホを落としたらしい。そそっかしいところもあるよなあ、野菊は。
『お嬢様、どうされたん――あー、ご婚約者様とお電話ですか。さっきからかけようか迷っては仕事の邪魔をしてはいけないって何度も我慢されてましたものね』
『む、村岡さん!? そういうのはだからやめ――』
なんだなんだ。野菊も僕と話したかったのかあ。
内心で村岡さんにグッジョブと親指を立てる。こういう援護射撃は大歓迎だった。
『と、とにかく。身の程知らずにも私を待たせた罰よ。可及的速やかに私のもとまでやってきなさい。いいわね?』
「うん、分かったよ。僕も野菊と早く会いたいしね」
『……ッ、すぐ、そういうドキっとするようなことを言うんだから……』
……? 今、すごく小さな声で野菊がなにか呟いた気がするけど、なんだろうな。
でもこういう時に問い詰めると野菊は多分怒るので、僕は気づかないフリをして「またあとで」と告げ電話を切るのであった。
* * *
野菊の家……もとい、お屋敷……もとい、豪邸があるのは、僕の勤めるオフィスから電車で三十分ほどかかる高級住宅街にある。
コンビニとかがいちいち景観を損ねないように高級仕様になっているような住宅街だ。
「遅くなったから、なにか差し入れでも買ってくのもいいかもな」
駅に到着したところでふとそんなことを思う。いち早く会いたい気持ちと、野菊に何か物をあげて喜んでもらいたい気持ちとを秤にかけ、僕は結局差し入れを買っていくことにした。
とはいえ、何をあげれば喜んでもらえるのかがいまいち分からない。僕でも名前を知っているような高級洋菓子店の店も通りにはいくつかあったが、そういったものを彼女は食べ慣れていることだろう。
どうせなら物珍しいものでも買ってやりたい。そう考えたところで、ふと名案が浮かんだ。
「……案外、コンビニのスイーツとかいいかもな」
バリエーションも豊かだし、最近のコンビニスイーツはなかなかおいしいと評判だ。そしていかにも庶民的。
そう思い、高級仕様な外観のコンビニでいくつかデザートを見繕い、僕は野菊の住まう豪邸へと向かった。
そうしてやってきました大豪邸。
「……昨日も思ったけどでけえ」
門の前で思わず呟く。というか、門からしてでかい。多分高さ五十メートルぐらいはある、やたら瀟洒な趣の門なのだ。いやこれはでかい。超でかい。
こんなでかい門、一体何に使うのか。僕には皆目見当がつかないが、おそらく意味あってのものなのだろう。
……いやほんと、こんな豪華な家の娘とマッチングするなんてなあ。こうして豪邸を前にすると、改めて信じられない気持ちになる。
とはいえ、なんとなく僕には確信があった。野菊以外にありえない、なんて確信が。
……野菊もそう思ってくれていたらいいな。
「なんて、な」
そう思ってもらうためには僕も頑張らねばならない。気持ちを新たにしながら、門の横にさり気なくつけられているインターフォンを押した。
程なくして門が開き、花邑家の使用人が出迎えてくれる。
「ようこそいらっしゃいました、重松様」
「はい。お世話になります……って、その声!」
現れた女性の声を聞いて、思わず僕は目を開く。
「もしかしてあなたが、村岡さん!?」
「はい。今朝と先ごろはどうやらお楽しみのようでございましたね、重松様」
なんて言いながら村岡さんがニヤリと笑う。
村岡さんの年齢はおそらく四十絡みだが、妙に愛嬌のある顔立ちだった。色気がある、というよりは、愛らしいといったほうが的確だろうか。
いかにもいたずらが好きそうな目をしている。
「……電話の向こうで、わざと僕に聞こえるように野菊をからかっていましたね?」
「花を愛でるのに理由はございませんから」
「それについては同意します」
「しかしまあ、『殿方と電話する時はスピーカーモードにするのが淑女の作法でございます』という言葉をなんの疑いもなく信じたのはわたくしと致しましても少々驚きでございました」
犯人はコイツか。なかなか愛されてるみたいだなあ、野菊も。
くすくす笑う村岡さんの姿は使用人というよりは、貴婦人のような優雅さがあった。まるで村岡さん自身が高貴な家の出のような佇まいだ。
「それでは参りましょう。お嬢様が、象の鼻よりも遥かに首を長ぁ~くして待っておりますから」
言いながら、村岡さんが僕を車に案内する。ダックスフントみたいに胴の長い黒塗りのリムジン。言わずと知れた高級車である。
昨日もそうだったが、敷地内でも車での移動が必須なぐらいこの豪邸は広いのだった。
「首を長くって……そんなにですか」
乗り込みながら問いかける。
「そんなにですよ。昨夜重松様とお会いしてからずっと、どうにも浮足立っている様子でございますから、お嬢様は」
「へぇ」
後部座席に座る僕は、村岡さんの話に耳を傾けた。
「お嬢様ったら、随分と熱に浮かされているようでして。やれ、重松様のここが気に入らないだとか、どれ、重松様のどこそこがだらしないだとか、そんなことばかり仰るんですのよ」
「あはは……まあ、野菊からしてみれば僕なんて庶民もいいところですからね」
身分も身分だ。僕みたいな一般人が恋人だなんて、不平や不満の一つや二つぐらい出ても仕方ないだろう。
だが、村岡さんが首を横に振る。
「いいえ。お嬢様は、好意を抱いていない人間に対して文句を言うことなんてありませんわ」
「……そうなんですか?」
「ええ。お嬢様にとって世の中の人間は、使える人間とそれ以外しか存在しませんでしたから」
「……」
「ですから、使えないと判断した人間には不平も不満も言いません。ただ黙ってお嬢様の中で『使えない人間』としてごみ箱にポイされてそれでおしまい。記憶の片隅にも残ることはないでしょうね」
ですから、と村岡さんの声が嬉しそうに弾んだものになる。
「お優しくてとても厳しいお嬢様が、こんなにも不平や不満を口にされた相手は、わたくしが知る限り重松様だけでございます」
「……そうですか」
「はい。ですから一使用人としても、お嬢様をお慕いする者の一人としても、重松様にはどうかお願い申し上げます。お嬢様のことをどうかよろしく、と」
ハンドルを握る村岡さんの表情は見えない。でもきっと、真剣な顔をしているんだろう。声の調子からもそれが分かる。
だから僕は、背筋を正して、
「はい、もちろんです」
はっきり、そう言ってうなずくのだった。
というわけで本日『昼』分です
夜も更新します。残機は相変わらずゼロです。気合と根性を本気で出せば残機ゼロでも更新できます
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