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「私と仕事、いったいどちらのほうが大事だというの!?」「そんなの野菊に決まってる」

 それにしても彼女かあ、とその日の勤務中に僕は思う。


 具体的に、現実で、彼氏と彼女というものはいったいどんなことをしているのだろう。


 そんなことがふと気になって、隣のデスクに座る岩下に問いかけてみた。


「なあ、岩下」


「なんだ」


 と、眠気覚ましのコーヒーを口にしながら岩下が答える。


 岩下は僕と同じ事務所に所属する同期のプログラマーだ。気のいいやつだが熟女好き。付き合いも今年で五年目になるこいつは、僕の数少ない友人でもある。


 そんな彼に僕は聞いた。


「付き合い始めのカップルというものは、普通どういうことをするものなんだ?」


「ぶぶぉおおぉお!?」


 あ、吹いた。


「げほっごほっ……い、いきなりなんだ熟成童貞二十七年」


「……おい待てなんだその不名誉な称号は」


「お前という存在を端的に説明するとこうなるだろ?」


「説明できてる部分の狭すぎることが問題だと思うんだけど?」


「いいじゃねえか事実なんだしよ。あと、ワインも童貞も古いほど美味いわけじゃないから気をつけろよ。発酵しすぎるとどっちも口にできたもんじゃない」


「熟女好きがよく言うよ」


「熟れた女をバカにすんな。落ち着きあるし余裕もあるしガキみたいに面倒くさくねえ。あれを知ると、十代や二十代の女とはまるで付き合う気になれんね」


「そういうもんかね」


 こぼしたコーヒーをティッシュで拭きながら言う岩下に、僕は軽く肩を竦めた。


「で? 出し抜けになんだよ。彼女でもできたのか? 妄想の」


「妄想じゃないほうの彼女ができた」


「ほう」


「昨日付き合い始めたんだけど、恋愛経験がないからどうすればいいのか分からなくて困ってる」


「どんな彼女なんだ?」


「うーん……」


 どんな、と言われてもなあ。


「個人資産が四十六億で、ワン公とか駄犬とか言って罵ってくるのが愛情表現で、十七歳の女子高生で、寿女学院に通ってる子なんだけど……」


 僕の言葉に、岩下の操作していたキーボードが立てていたカタカタという音が止まった。


 どうしたのかと思いそちらを見ると、岩下がアルカイックスマイルをこちらに向けている。


「……なんだ、そのキモい顔は」


「悪いことは言わん。いい精神科紹介してやるから。な、元気出せまっつぁん」


「おい」


「いつか夢が現実になることもあるさ。そうやって夢見るのだって悪くない。でもな、いずれ現実というやつとお前も向き合わないといけない日が――」


「だから、おい」


「分かる、分かるぜ。俺も昔はそういう妄想にとりつかれた頃が――」


「妄想じゃねえよ話聞け」


「よし分かった、今日は一杯奢ってやろう!」


「あ、今日僕は仕事終わったら真っ直ぐ帰るから。彼女と約束あるし」


「そうか……そこまで深刻なことになっていたなんて、ダチなのに気づけなかった俺を許してくれまっつぁん!」


 ……面倒くせえ。


 いや、確かに野菊は設定盛りだくさんな女の子だと思うけどさあ……ここまで正気を疑わなくてもよくないかな? ああ、うん、僕が岩下の立場なら確かに精神科を勧めるんだけどさあ……。


「分かった。そのうち精神科には行っておくことにするから、僕のことはさておくとして一般的な付き合い始めのカップルがまずするだろうことを教えてくれ」


「えーと、それならまあ普通にセッ」


「ま、待て、言うな、僕にその言葉はさすがに刺激が強すぎる!」


 言いかけた岩下の言葉をとっさにさえぎる。


 それから恐る恐る、確認するようにして問い直した。


「い、いきなりそれをするのか? ヤっちゃうのか?」


「はあ? 普通だろ、大人同士なら。地味に重要なんだぜ、相性ってやつも」


「そ、それはそうかもしれないけど……」


 未経験の僕には、その相性というやつがどれくらいの重要度なのか分からないからなんとも言いがたい。だけど、想像するだけでなんとなく下半身に血が集まっていくのは分かった。


「……とにかく、僕にはその情報はまだ早い。他に初心者向きのことはないのか?」


「んー、まあそうなると普通にデートとかじゃね? あとは手を繋いだりとか、食事を振る舞ってもらうとか」


「デート……食事……」


「まああとは俺の場合はだけど、相手の車でカーセッ」


「いやそれはいい」


「なんでだよ。ちなみに俺の初体験もカーセッ」


「だからそれはいいっての」


 友人からアレな体験談を聞かされるのはなんとも気まずい。勘弁願いたいものであった。


 * * *


 やがて夕方となり、定時を過ぎた。


 だが、今日はまだ仕事が残っている。モデリングや3DCGデザインなんかを仕事にしていると、定時に帰れる日のほうが少ないぐらいだ。


 岩下も、「うあ~、春子さんと約束あるのに~」と隣でブツブツ不満を口にしながらキーボードをカタカタ言わせている。


 ……速攻で終わらせて野菊のところに行こう。


 ちょうど僕がそんなことを思ったところで、所長の甲斐さんが話しかけてきた。


「あー、重松。君、今日もう上がっていいから」


「……でも、このモデリング、今日中の締め切りって言っていたはずじゃあ」


「それがねえ、ちょっと逆らえないところから、君を定時で帰らせろと指示があって……」


 そう言いながら、甲斐さんが気弱そうな笑みを浮かべる。


「先方には僕のほうから頭を下げておくから、とりあえず今日のところはもう重松には帰ってもらえると――」


「いや、それは普通にダメでしょう。依頼されたものは可能な限りクオリティを保ったまま締め切りに間に合わせないといけないじゃないですか」


「あー、まあそれは確かにそうなんだけど、逆らったらうちぐらいの規模の事務所なんてペシャンコに……」


「大丈夫です。心当たりはあるので、僕のほうから話をつけます」


 言って、席を立つ。


 そして廊下に移動したところで、『心当たり』へと電話をかけた。


『私よ、駄犬』


 ワンコール以内に相手が出た。


「やあ、野菊。僕だよ。太槻だよ」


『そのようね。で、いったい何の用かしら?』


「野菊だよね? 定時に上がらせろって僕の働く事務所に指示を出したの」


『それが何か?』


「ごめんね。野菊が僕を想って指示を出してくれたんだと思うんだけど、まだ仕事が残ってるんだ。なるべく早く片付けるから、今日は少しだけ残業で遅くなる」


 そう告げた時の反応は劇的だった。


『なッ――』


 電話口で野菊はそう息を飲み、ついで聞こえてくるのはダンダンダンダンッ……また地団駄を踏んでいる。


 それから『私、不機嫌です!』とでも言うかのような声色で、


『……私と仕事を秤にかけるなんて、いったいこのワン公めは何様のつもりなのかしら』


 なんて言ってきた。


「秤にだなんて、そういうつもりじゃ」


『じゃあ何よ。私と仕事、いったいどちらのほうが大事だというの!?』


「そんなの野菊に決まってる。ごめんな、寂しい思いさせてるよな」


『っ、寂しくだなんて!』


「でも、やらなきゃならない仕事があるのにそれを残して会いに行くなんてのは社会人としてはダメだ。そんな自分だと、僕は胸を張って野菊の前に立つことができない」


『…………ちっぽけなプライドね』


「ちっぽけかもしれないけど、無責任な人間にはなりたくないんだ。もちろん、野菊に対してだってそう思ってる。それとも野菊は、責任の持てない大人が好きなのかい?」


『……二時間よ。それ以上は待たないわ』


 それだけ言うと、野菊は通話を切った。


 どうやら残業のお許しはもらえたらしい。とはいえ、二時間。二時間かあ~。


「……ま、なんとかなるでしょ。というか、する!」


 通話を終えた僕は、パソコンに向き直る。


 よーし、入れるぞ気合。出すぞ根性。世の中の大概のことは、気合と根性を本気で出せば大抵なんとかなるもんだ。


 それから一時間。僕はめちゃくちゃセッ……違う仕事した。

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