彼女のいる朝
本日二話目
『この駄犬。犬のくせに耳まで悪いなんて呆れを通り越して感心すらするわ』
野菊と出会った翌朝。僕は出勤前から、彼女のありがたい罵倒を頂戴していた。
『主人である私の言葉をちゃんと聞かないだなんて本当に愚図でのろまなワン公だわ。いったいどれだけ血の巡りが悪ければそこまで低能になれるのかしら』
「……僕だってちょうど今起きたところだったんだよ。まだ、ふぁ……頭が回っていなくってさあ」
『言い訳は見苦しいわよ! だいたい今何時だと思っているの? 朝の六時じゃない。普通なら起きて朝食を済ませ仕事へ行く支度まで整えていて然るべき時間だわ!』
すいません庶民の朝はだいたい七時ぐらいからなんです。でもそんなに朝早く活動できるなんて、きっと野菊はいいお母さんになれる素質があると思うな。
ちなみに、彼女がこんなに口汚いのは、怒っているというよりはおそらく照れ隠しなんだと思う。
つい五分ほど前に僕を着信音で起こしてくれた野菊は、開口一番に「仕事を終えたら昨日と同じようにうちに来なさい!」と電話口で言ってきた。
もうこの時点でだいぶ居丈高だったけど、「それはつまり、今日も僕に会いたいってこと?」と言葉を返したら耳が悪いと罵られたのである。
『私が会いたいのではなく、どうせあんたが私に会いたがっていると思ってこちらからわざわざ声をかけてあげたのよ! だというのになんて無礼な男なのかしら。私の気持ちを勝手に決めつけようだなんて数百万年早いわ』
「あ、うん。実はそうなんだ。野菊に会いに行きたいと思っていたんだけれど、昨日の今日だったからお邪魔しても失礼じゃないかって悩んでたから助かったよ」
『……っ、ふ、ふんっ。ワン公に施しを与えるのも主人である私の務めだもの。仕方がないから家に来るのを許してあげるわ!』
「うん。じゃあ仕事が終わったら行くね。あと、主人じゃなくて野菊は僕の彼女……になったはずだと思うんだけど、なあ?」
そう言ってみると、電話の向こうがドタンバタンとうるさくなる。そして直後、何かが落下するような音と、『あっ』という悲鳴みたいな声まで聞こえてくる。
どうやら『彼女』と言われた野菊が動揺してスマホを落っことしてしまったらしい。
しかも随分とうろたえているのか、『あ、や、きゃぅっ』なんて悲鳴も連続して聞こえてくる。昨日から薄々感づいてはいたが、野菊は案外おっちょこちょいなところもあるんだよなあ。
しまいには、
『あら、お嬢様。何かと思えば、今日は随分と朝がお早いんですね』
なんて、使用人のものらしき声まで聞こえてくる。
『なっ――村岡さん!?』
『あらあら。朝からご婚約者様とお電話ですか? お熱いですねえ。……あ、まさかそのために早起きを? それとも興奮してあまりお眠りになれなかったとか……昨晩は遅くまでお部屋の明かりが点いていたようですが』
『や、やめて、村岡さん、今通話中で……スピーカーモードで……あいたっ』
『あらまあ、ご自分のスマホにつまづいちゃってお嬢様ったら。……それではご婚約者様? 野菊お嬢様のこと、よろしくお願い致しますね』
スマホの向こうから使用人さんにそう言われ、僕はつい「あ、はい、こちらこそよろしくお願いします」と言葉を返していた。
『ぜっ、はぁ……』
すったもんだの末、野菊が再び電話口に戻ってくる。息が荒い。
「……野菊?」
『何も聞いてないわよね?』
「いや、それは正直さすがに無理があるというか」
『何も、聞いてないわよね?』
「だから割と色々ばっちりと――」
ダンダンダンダンダンダンッ。
地団駄を踏みしめる音が電話の向こうで鳴り響き、
『何もッ、聞いてないッ、わよッ、ねッ!?』
「はいなにも聞いてません」
『よろしい』
……照れくさかったんだろうなあ。
『とにかく。そういうことだから、仕事が終わったらこちらに来なさい。いいわね?』
「うん。楽しみにしてる。あ、あと――」
『なによ!?』
「朝から野菊の声が聞けて嬉しかった。おかげで今日も一日頑張れそうだ」
『□△✕✕※※!?!?!?!?!?!?!?』
あ、また野菊がスマホ落とした。
『あ、やだ、液晶が……』
割れたのか……。
しかし、まあ。
「朝から彼女と電話かあ……」
なんか、いいかもな、こういうの。胸がほんわか温かくなってくる。
いつもは行くのが憂鬱な仕事も、今はそんなに嫌じゃなかった。
これにてガチで残りストックがゼロ文字となりました。
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