僕と彼女の一日目
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「健史……」
「美咲……」
「好きだよ」
「僕も好き」
「私もっ」
がばっ。美咲が健史に抱きつく。
「ちゅっ」
「ちゅっちゅっ」
「ちゅっちゅっちゅ」
二人はキスをした。
「ちゅっちゅ」
「ちゅっ、ちゅちゅちゅっ」
「ちゅーっ、ちゅっちゅ」
二人はそうやって、愛をずっと語らっていた。
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「語らってないじゃない!」
「え、そうかな?」
「そうかな? じゃないわよ! キスしかしてないじゃない! この描写の中に語らいを感じられるシーンが一ミリもないわ!」
「だって……そういう経験したことなくてさあ」
「だとしてももう少しやりようってもんがあんでしょ!」
ブチ切れ野菊である。あまりに気持ちが荒ぶったのか、着物が少し乱れているのがなんだかセクシーだった。
「他のシーンも全部似たりよったりで、お互いの名前を呼び合ってすぐにキスをするか手をつなぐかしてデレデレする以外の描写がまるでないわ!」
「だ、だってさあ……仕方ないんだよ。僕だと、主人公とヒロインが隣り合って幸せそうにしてるっていうぼんやりとしたイメージしかなくて……」
「童貞拗らせた貧相な想像力ね」
その言葉に、少々僕はムッとした。
確かに僕は童貞拗らせ野郎だし、本物の交際だって知らない。
でも、想像力が本当に貧相かどうかなんてのはまだ分からないじゃないか。
「……念の為聞くけど、野菊は僕以外の男性と付き合ったことはあるの?」
「……貞淑なる乙女にとって恋愛とは結婚と同義であり生涯の連れ添い以外の相手を持つことは不徳とされることなのであって」
「つまり、野菊も本物の交際を経験したことはないってことだよね?」
僕の言葉に野菊がすっと視線を逸らす。図星だな。
「だったら、試してみる?」
「ひっ!?」
「野菊の手を取って、野菊の名前を呼んだら……どんな感じになるか、現実で試してみるのはどうだろう?」
僕の提案に、野菊は弾かれたようにソファから立ち上がると、ずざざざざざっと物凄い機敏な動きで応接室の壁際まで下がる。着物みたいに動きにくい服装で機敏に動ける野菊さんマジすげーっす。
「いいえそれについては検証の余地など微塵もないというか今この場でそんなことをする必要性がないというかあんたが私に触る口実でしかないでしょというかそもそもそんなことをされたら私多分ヤバいというか――ひぃぃぃ近づいてくる!?」
「何で逃げるんだい野菊。僕はただ、手を取り合って名前を呼び合うのが現実ではどういう感じか二人で確かめてみようと言っているだけじゃないか。それに、僕だって貧相な想像力だなんて言われたら黙ってはいられないし」
壁際まで後ずさって、野菊は逃げたつもりかもしれない。だが、それはむしろ逃げ場を自ら放棄するような行為である。
一歩、二歩、僕は野菊との距離を詰める。
「く、来るな来るなこの駄犬! これ以上私に近づく――ぁ」
そして、すぐ目の前にまでやってきた僕は、彼女の手にそっと触れ――。
「野菊」
「こいつはワン公こいつはワン公こいつはワン公――」
「ねぇ、野菊」
「こいつはワン公こいつはワン公こいつはワン公――」
「――野菊」
きゅっ、と強く野菊の手を握りながら、彼女の耳元で囁きかける。
「こいつはワン公こいつは――あふん」
そしてついにそこで野菊は陥落した。
そんな彼女を見下ろして、僕はにっこり笑いかける。
「ほら、手を取り合って名前で呼び合うのもなかなか悪くないでしょ? 僕の思ってた通りだった」
「……くっ、このワン公が」
「野菊も僕の名前呼んでくれない?」
「……嫌だ」
「僕のほうばかり野菊のことを呼んでるのは不公平じゃないかな?」
「そっちが勝手に呼んでるだけでしょ」
「野菊に名前で呼んでほしいなあ」
「~~~あああもううっとうしいなあ!」
バッ、と野菊が僕の手を振り払ったかと思うと、指先を突きつけて噛み付いてくる。
「いいわ、百歩譲ってあんたの交際相手になるというのは認めてあげるわ! でも――決してあんたみたいな弱小市民なクソ犬ワン公にデレたりなんかするもんかああぁぁぁぁっ!」
そう叫んで、野菊は足音も荒く応接室から立ち去っていく。すんげぇ勢いで『バタンッ』と扉も閉められる。むしろ『バゴンッ』って感じだった。壊れてないかな扉?
……そしてさらに五分後、まだ連絡先を交換していないことに気づいた野菊が、すごい気まずそうな顔で戻ってきたのは別の話。最後に頭を撫でてあげた時の、悔しいけど感じちゃう的な表情がもんのすげぇかわいくて。
ああほんと、もんのすげぇかわいくて、もんのすげぇ素直じゃない彼女ができてよかったなあ、なんて僕は思うのであった。
これが、僕と野菊の交際一日目。
そうしてこの日から先は、僕と野菊が『恋人同士ですること全部』やっていくだけの物語。
僕らの幸せ、少しでもお裾分けできたら、いいな。