庶民のお風呂
「ねぇ野菊。一緒にお風呂行こっか」
「…………」
「ちょ、野菊? なんでスッとスマホを取り出すの? どうして110番押そうとするの? 待っていやほんと通報だけはマズいって、ね?」
「うるさいわねその口を縫い閉じるわよこの性犯罪者!」
例によって、ガミガミと野菊が怒り出す。
まあ、ついに明日は経営会議だもんね。みるみるうちに過ぎていったこの一ヵ月半、ほとんど休みなしでやってきたんだ。
ついつい気が荒くなってしまうのも仕方ないよなあ。彼女の苦労を思えば、これぐらいのことではヘソを曲げる気にもならない。
とはいえ、風呂に誘ったぐらいでこうも不機嫌になられるのは少々残念な気持ちになるのも事実であった。
「野菊は、僕と一緒にお風呂に行くのは嫌かなあ?」
「あっっっったりまえでしょ! 結婚前の男女が肌を見せ合うだなんて、いかがわしいわ! 不潔だわ! 不純異性交遊だわ!」
「えぇ……別に僕と入るわけじゃあるまいし大袈裟な……」
「そうよ、この私があんたなんかと――へ?」
野菊が目をぱちくりさせる。
「え、だって、あんた今、お風呂にって……」
「うん。みんなでさ、広いお風呂に行かないかって話」
「……は?」
「明日がついに、決戦の経営会議なんだしさ。銭湯に行って、英気を養って、戦いに臨もうって話に今日なってさ。じゃあせっかくだし、野菊にも庶民のお風呂を体験させてあげたいなって」
「そ――」
野菊の頬が憤怒で真っ赤に染まる。
「そういうことは先に言いなさいよ、この駄犬!」
そんな叫び声と共に、彼女の張り手が飛んでくるから胸を後ろに逸らして避けた。
「避けるな、受けろ!」
「ええ……」
「困惑した顔をするのもやめなさい!」
こういう時の野菊は抱き寄せてよしよしと頭を撫でつつ軽く抱き締めてあげないと落ち着かないので、十分ぐらいそうしてあげる僕だった。
ついでにノリでキスしようとしたら頭突きされました。痛い。この~、照れ屋さんなんだから♪
「照れてないわよ!」
「野菊、僕別に何も口に出しては言ってな……」
「照れてないったら!」
これは照れてますね。
ついつい、視線が微笑ましいものを見るものになってしまう。
すると野菊が指をじゃんけんのチョキの形にしてこちらに――。
「って待ってそれは反則技!」
「うるさいわね私のハサミは岩をも砕くのよ!」
「それ砕こうとしてるの岩じゃなくて眼球!」
「砕くのは頭蓋よ」
「眼球が貫通!?」
眼窩に脳との洞穴開通、Yeah!
出来の悪いラップを刻みつつ、野菊の指を必死で避けるのであった。
* * *
というわけでやってきた銭湯で――。
「ふぃ~、いい気持ちだねえ~」
「う~ん、いいもんだねたまにはこういうのも」
僕と岩下と甲斐さんは、三人で並んでお湯に浸かっていた。
もちろん野菊は浸かっていない。男湯なので。
そのため、この場にいるのは今回の企画にメインで関わったこの三人だけであった。
「しっかしなあ。まっつぁんがまさかマジでJK、それもあの花邑財閥の令嬢と付き合ってるなんてなあ」
肩までどっぷり浸かりながら、頭にタオルを乗っけた岩下がそんなことを口にする。
「俺ぁてっきり、まっつぁんの妄想だとばかり思ってたのによお。評判のい~い精神科だってちゃんと調べといたってのに、無駄な労力使わせやがって」
「……それを初めて聞かされた僕はなんて反応を返したらいいの? 正直、有難迷惑通り越してただの迷惑なんだけど」
「いやほら、だっておめーばっかやろ、考えてもみろよ。いない歴=年齢の童貞がよ、超絶美人な財閥令嬢のJKでしかも女社長なんかと付き合ってるとか聞かされたところで、それなんてエロゲだよって言いたくもなるだろ、普通」
確かに、改めて考えてみるとその通りだと思った。
僕が野菊と出会い、そして付き合っているというのは、普通に生きていたらあり得ないことなんだ。それこそあの日、マッチングAIシステムに僕の遺伝子データを登録しなかったら。
「思いがけないことがあるよねえ、生きてると」
岩下の反対側で、甲斐さんがしんみりと呟く。
「人との出会い、それに別れ。思わぬ展望に予期せぬ不幸。人とも出来事とも、出会って別れてそれでも道は続いていくことに、僕なんかはロマンを感じるんだよなあ」
「なんか所長、今日はセンチメンタルなこと言うんですね」
「こういう時ぐらいはね。明日は、『甲斐クリエイトデザイン』始まって以来の大舞台だから」
明日。僕と野菊が出会う大本となるものを作り、そして今は引き離そうとしている竜蔵さんに僕は……いや、僕らは挑む。
だけど、僕にできることは、もうこの先に用意されていない。
「不安かい、重松君」
そんな気持ちを、所長は見透かしているようだった。
「明日の経営会議。うちから行けるのは、僕と花邑取締役だけだからね」
「そうですね……」
そう。明日の花邑グループの経営会議に、一介の社員でしかない僕の居場所はない。
席を用意されているのは、所長である甲斐さんと、取締役の地位にある野菊だけ。
僕は一度、目を閉じる。そして、胸の内にある気持ちと向き合った。
そしてそれから目を開き、「いいえ」ときっぱり首を横に振る。
「野菊はとてもすごい子です。僕が最も尊敬する人間の内の一人です。立派に立てる彼女でダメなら、他の誰にもこの仕事はできないと僕は思ってます」
「……そうか」
「それに、僕も力を尽くしましたから」
全力を尽くしたつもりだ。不安がないとは言わないけれど、ここまで来ればもう結果を恐れるだけ無駄だという気持ちになっていた。
そんな僕の言葉に、岩下も「そうだよな」と前向きな言葉を口にする。
「やるっきゃねえよな、ここまで来たら。仕事に明け暮れたこの一ヵ月半、無駄な時間にするわけにゃいかねえよ」
「ああ」
「それに、経営会議が上手く行きゃあ俺にもチャンスがあるかもしんねえからな」
「チャンス?」
岩下の言葉に首を傾げる。
すると彼はニッと笑って言った。
「……ほら、村岡さん、いい女じゃね?」
「……あー」
そういやあんた、好きでしたね、熟女。
* * *
太槻が男三人で風呂場で語り合ってる頃――。
「ねぇねぇねぇねぇ、取締役って重松君と付き合ってるんですか!?」
野菊は女湯で、女子社員にもみくちゃにされていた。
「は、ははははははあ!? つ、つつ付き合ってなんか、だってあんな駄犬なんかとっ!」
「でも今回の企画って重松君が取締役に持ち掛けたんですよね?」
「そ、それは……そうね」
「で、しかもしかも、取締役のお父様に交際を認めさせるために、って話ですよね!?」
「あ、う……ど、どうしてその話が……!?」
湯舟に肩まで浸かりながら、顔を真っ赤にする野菊。
すると野菊の隣で、村岡がクールな口調で告げる。
「ええ。先日わたくしがみなさまにお話しした通りです」
「村岡さん!?」
「お嬢様と重松様の交際についてご理解いただけなければ、今回のプロジェクトを通すことはできないかと思いましたので」
と村岡はしれっと口にしているが、それを知らされた野菊はたまったもんではない。
動揺のあまり、あわあわと口を開けたり閉めたりしてしまう。
そしてまるで、そんな野菊の動揺に追い打ちをかけるみたいに――
「「「きゃああああっ」」」
女社員たちの黄色い声が女湯に響いた。
「すごいわ! だって相手はあの花邑財閥の会長なのに!」
「重松君も根性あるなあ。ただの恋愛偏差値ゼロのヘタレオタクじゃなかったのね」
「それ聞かされると、なんだかシゲちゃんの株も急上昇的な!?」
野菊を囲む女社員たちのボルテージが急激に上がる。
そのテンションの上がりように、逃げ場のない野菊は「ち、ちが……そうじゃないのよ、本当よ?」などと小さな声で弁解しようとすることしかできない。
だが、コイバナは女子の養分だ。大好物を目の前にぶら下げられた彼女たちが、その程度の制止で止まるわけもない。
「なんだかなんだか~、ドラマみたいなお話じゃな~い?」
「う~ん、そうだよねえ。重松君ったら、こんなガッツと根性ある男だとは思わなかったな」
「わっかる~。ってか、あいつ童貞だと思ってたけど実は違った的な?」
「えええ~、それはないよぅ……え、ないよね? それとももしかしてあるんですか取締役!?
「財閥令嬢で女社長で現役JKの美少女でDT卒業か……濃い初体験だなあ重松君」
「え、なにそれなにそれマジちょ~気になるんですけど!」
「でもでもっ、最近の重松先輩ならワンチャンその展開も許せる感じしませんか!?」
「そうだねえ、取締役と付き合い始めた頃から重松君の男ぶりも上がった気がするもんね」
「ぶっちゃけなんだけどウチ今のシゲちゃんならヤれる」
「分かります分かります!」
「え~? まあでも確かに男らしくなってきたかもね。顔も案外悪くないし、思ってたよりいい男……?」
野菊と太槻の話を肴に、女子会は大いに盛り上がる。
そして気づけば、ここ二ヵ月ほどで変わった太槻のいいところを上げる会となっており――。
「だ、ダメよ!」
結果、そんなことを野菊はつい叫んでいた。
「だ、ダメよ! あんな男なんてどこもかしこも魅力的じゃないわ! そう……そうよ! あんなヘタレの根性なし犬のどこに褒めるべきところがあるというのかしら!」
「でも、花邑財閥の会長に正面から喧嘩売る度胸とかかっこいいです~」
「そ、それは……その、そう! 私という虎の威を借っているだけでしかないじゃない! 人の影に隠れるしか能のない人間なんて無能の極みでしかないというか――」
「いや、でも重松君ここ最近すごいと思いますよ取締役。甲斐所長と並んで他の事務所に声かけてまとめたのも彼だし、外観内装まで含めてデザイン起こしてもくれたし」
「それぐらいのことはやって当然じゃない! 当たり前のことができる程度で満足するのではなく、先々のことまで見据えていないと成長なんて――」
「そ~いえば~、この前シゲちゃん、お昼ご飯食べながら建築関係の本読んでたよ。基礎知識ぐらいは知っておかないと、この企画通ったあとは必要になるからって」
「うるさいわねそんなの私だって知ってるもん! っていうかその本貸したの私だし! で、でも、あいつは駄犬で、それに変態魔人のセクハラ色情犬で――」
「ところでお嬢様? この前確か、重松様の仕事ぶりを随分と称賛されておりませんでしたか?」
村岡の言葉に、ただでさえ赤かった野菊の顔がさらに熱くなる。
そして。
「~~~~~~~~~~(ボスン)」
と、顔から湯気を立てて野菊の頭は機能停止した。
そしてそのまま、ブクブクと泡を立てながら湯に沈んでいく。
「取締役~、のぼせましたか~?」
「あ~らら、重松君のことちょっと褒めすぎちゃったかな~」
「え~? それってつまり、ウチらに盗られると思って嫉妬しちゃったってこと~? なにそれなにそれ、取締役めっちゃかわいいじゃん!」
(嫉妬じゃないわよ、バカ、もうっ!)
村岡の肩を借りてのぼせた体を床に横たえながら、野菊はぼんやりとそんなことを思うのだった。
(風呂を上がったら、あの駄犬を思い切り困らせてやるんだからっ)
天井を見上げながら、そんな決意を野菊は固めるのであった。
* * *
そして、運命の十月一日。
――経営会議の日が、やってきた。
運命が交錯する魔の十月一日




