既成事実
「既成事実、というのはどうでしょう?」
村岡さんがにこやかな笑顔を浮かべて言った。野菊が『カッチーン』と固まった。僕と野菊の交際をいかにして竜蔵さんに認めさせるか、という会議の最中の出来事であった。
「既成事実、というと?」
「はい。重松様とお嬢様の間にお子様が誕生すれば、旦那様もお二人の仲を認めてくださるのではないか、という話です」
さらなる村岡さんの発言に、『コッチーン』と野菊が固まる。
だが、そんな野菊の様子に村岡さんは頓着しない。氷漬けとなった野菊をよそに、村岡さんの言葉は続く。
「古来より、孫は子よりかわいいという言葉がございます。お嬢様が子どもを授かれば、孫可愛さに旦那様も重松様のことを認めるほかなくなることでしょう」
「……いや、そんな簡単な話なのかなあ」
「もちろんでございます。祖父に対する孫力は、一説によると核ミサイルに等しい破壊力があると言われております。ましてやお嬢様のお子様であれば、核ミサイルどころかビッグバンを三度起こしておつりが戻ってくるほどの孫力を備えていることは必定。閻魔王のごとく厳格な旦那様とて、その理性をどろどろに蕩けさせることでしょう」
「ううん、一理ある……のかなあ?」
僕は首を傾げる。
さすがにそれは、少し無理があるのではないだろうか?
「あ、ああああるわけないでしょそんなもの!」
そこで、再起動した野菊が悲鳴じみた声をあげる。
「こっこここっこ、子ども……だなんて、そんなのダメよ! あ、あり得ないわ! それも私と駄犬との間に……だなんて、無理無理無理無理、そんなの無理よ!」
「ですが、お嬢様。旦那様がどれだけお嬢様を大事にされていたことか。それを一番よく存じ上げていらっしゃるのは、お嬢様ではありませんか?」
「う……それは、そう、なのだけれど……」
「でしょう? 目に入れても痛くないほどにお嬢様を大切になさっている旦那様でございます。そんなお嬢様がお子様を授かれば、その態度も和らごうというものです。そうなれば、旦那様を説得する余地も生まれるかと」
「う……そう言われると、確かにそんなような気もしてくるけれど……」
「それに何より、わたくしの悲願はお嬢様の子をこの手で取り上げることでございます。お嬢様の子であれば、さぞかしかわいらしいことでしょうねえ。想像するだけで、今からとても楽しみで幸せな気持ちになってきてしまいます」
それもう村岡さんの個人的な願望では……?
だが、そんな村岡さんの説得に野菊がだんだんと押され始めている。
そんな野菊に、
「いいですか、お嬢様?」
と、追いうちをかけるかのごとく村岡さんがさらに何事かを野菊へと耳打ちをし始めた。
耳打ちの内容は僕のところまでは聞こえてこない。だけど野菊が時折、「そんなバカな!」とか「は、破廉恥よ!」とか「ででででも婚前交渉だなんて!」とか「……お、男って、そういうものなの?」とか「で、でも、未経験なのにそんなこと上手くできるかしら……」とか、いちいち顔を真っ赤に染めながら言葉を返していた。
それからやがて、
「うっ……わ、分かったわよ! そういうことなら、私も腹を括ろうじゃない! 私を誰だと思っているの。花邑財閥の一人娘、花邑野菊よ! それぐらい、やってのけようじゃない!」
と高らかに宣言してから、やけっぱちな目つきで僕を睨む。
「の、野菊……?」
「と、いうわけよ! 駄犬。慈悲深い私が特別に、こ、子どもを作るための、その……そういう行為……をすることを許してあげるわ!」
「ごにょごにょ……って、セッ」
「そういうの言わなくていいから!」
クス、まで口にするより前に野菊が言葉を遮ってきた。
「た、確かに婚前交渉だなんて、そんなの破廉恥極まりないわ! 本来なら、天下の花邑財閥の一人娘であるこの私に、そんなこと許されるわけないわ」
だけど、と野菊は言葉を続ける。
「これは本当に特別よ。だ、だって仕方ないのよね? お、男というものは、えっと……性欲……を、本能的に我慢できなくて、無理に耐えさせたらストレスで死んでしまというのなら、その……そう! これは医療! 医療行為なのよ!」
「医療行為!? って、何が!?」
「〇〇〇〇に決まってるじゃない! だってだって、男は交際相手ができたら〇〇〇〇しないと死んでしまうという病に侵されてしまうのでしょう!? 駄犬がそれに罹患しているというのなら、こっこここっここ……交際相手……である私が責任を持って治療をしなければならないというのは確定的に明らかであり、その上でお父様の説得材料を得られるのならばこれは世に言う一石二鳥というものでもあるわけで……」
目を><にして主張する彼女の姿を見て、野菊と村岡さんの間にどんなやり取りがあったのかだいたいのところを察した。
大方、僕のことであることないこと村岡さんに吹き込まれたのだろう。妙に純朴なところのある野菊は、それを頭から信じ込んでしまったようだ。
「一応訂正しておくけど……別にそういう病に僕は侵されていたりしないからね?」
「そ、そうなの? でも、その……健康上の問題があるというのは事実なのでしょう?」
「そういう事実も存在しないって。というか、僕は野菊が学生の間はそういうことをするつもりなんてないからね?」
交際しているとはいえ、野菊はまだ高校生。仮にも僕が社会人である以上、良識を伴った交際をしなければならないと思っている。
ゆえに手を出すなんてのは厳禁。一時の欲に身を任せて、野菊や周りの人を失望させるような事態は避けなければならないだろう。
だが、野菊はそんな僕の考えを聞くと、不服だと言わんばかりに頬を膨らませた。
「……なによ。乙女の決意と覚悟を、塵屑にも等しい犬畜生風情が踏み躙るつもり?」
「踏み躙るって……そんな、人聞きの悪い」
「第一、孫ができればお父様だって態度を和らげるという話をたった今したところじゃない! そ、そ、それにも関わらず手を出さない? 学生のうちはそういうことをしない? ヘタれたことを口にして……まさか不能とでも言うつもり? そんなんでお父様を認めさせることができるとでも思っているの!?」
「いや、高校生を妊娠させたらそれこそ信用を失うような気もするけれど……」
ついそう返すと、野菊がダンダンダンッと地団駄を踏み始める。
「あの、野菊? ここ一応賃貸住宅であんまり騒いだりすると苦情が……」
「うっ……庶民ってのは面倒くさい気遣いをしなければならないのね。不便だわ」
注意すれば地団駄を踏むのをやめるが、態度は依然、不満げなままであった。
「……でもやっぱり腹立たしいわ。こうもはっきりと手を出さないなどと言われると、まるで私に魅力がないみたいじゃない。そんなことを面と向かって言ってくるなんて、自分の立場をちゃんと理解しているのかしらこの犬は」
「え~っと……」
僕にとって、野菊がどれだけ魅力的な存在かってのを彼女はきっと知らないんだろうなあ。
なんなら今すぐにでも裸に剥いて全身ぺろぺろしまくりたいし、一緒にいるときには体の中心に血液が集まらないように必死になって耐えてるし、あんなことやこんなことはしまくりたいし、もうすでに十件以上のラブホを調べてブックマークしまくってるし、日々のおかずは今ではすべて妄想の中で繰り広げられる野菊とのうっふ~んであっは~んなシーンばかりだ。
書籍も色々買ってみた。
『初めてのセックス』『本当の気持ちのいい初体験』『男のベッド術~感じにくい彼女のイカせ方』『童貞から始めるリード術』『1000人の女性とベッドを共にした男のトーク術』『愛撫と言葉~会話に感じる女たち~』……どれも重要だと思った部分は何度も読み返して暗記している。
ああ、この際白状しよう。
不能? バカを言え。そんなもん、野菊とヤりたいに決まっている。心の息子はもはやギンギン。僕の方の突入準備なんて、もうとっくの昔に済んでいる。
だけど。
「ねぇ野菊。僕は思うんだけど、こんな形で急いで関係を深めたところで、いい結果はついてこないと思うんだ」
「べ、別に私は急いでなんか――」
「それにさ、僕は不本意だな。政治的な理由で子どもを作るだなんて、なんだか悲しいことじゃないか」
「それは……」
「そういうことは、ゆっくりでいい。竜蔵さんを説得して、野菊が高校を卒業して――それからだっていくらでもできる。五年後、十年後も、僕は野菊と一緒にいるつもりだからね」
「でも、それならお父様のことはどうするつもり? 言っておくけれど、あの人を納得させるのは一筋縄ではいかないわ。それ相応の結果を示さなければ、きっと認めてはくれないわ」
「それならむしろ、好都合だ」
それについては、僕に考えがあった。
野菊が次の花邑グループの会長に足る器であると示した上で、竜蔵さんを僕に認めさせるための計画が。
だけど、その計画を実行に移すには僕の力だけでは足りない。
だからこそ――。
「野菊。いや、花邑グループメディア事業部役員、花邑野菊取締役。私から一つ、ご提案があるのですが――」
しがないCGクリエイターでしかない僕は、今この場にいる花邑グループの重役に協力を持ち掛けたのであった。




