花邑さん家のお家事情
「そっか……野菊は、僕と同じだったんだね」
結論から言うと――竜蔵さんは、野菊の実の父親ではなかった。
伯父と姪。竜蔵さんから見れば、実の妹が遺した娘。
いくら野菊が『お父様』と呼び慕い、父のように思っていても、二人の間に親子としての血の繋がりはない。
それは、両親と死別し、叔父さんと叔母さんに育ててもらった僕の境遇と似通っていて――。
だから、少しだけ僕も分かってしまう。実の親に対するそれよりも、手間とお金をかけて育ててもらったことに対する、大きな感謝と無視することのできない引け目。
「……かつて、お父様は私に言ったわ。『お前の名前は戒めだ。だからこそお前は、いずれ幸せにならねばならん』と」
「戒めって……」
「無教養なあんたは知らないかもしれないけれど――『野菊の墓』という小説を知ってるかしら?」
僕は黙って首を振る。
野菊が言った通り、僕は生憎教養のある方ではない。文学については特に疎い。だがそれでも、彼女の口にした題名にどこかゾッとしたものを感じた。
「……伊藤佐千夫の書いた恋愛小説よ。道ならぬ恋……従姉弟同士で恋仲となり、最後には引き裂かれた二人について描かれたものね」
「道ならぬ、恋」
「ええ。そして母は……花邑早苗は、恋愛関係にあったのだわ。私の血縁上の父親と」
そして、その父親は、花邑グループとは天地ほども身分の違う、ただの一般庶民だった。
「お父様は何度も説得されたそうよ。立場の違いすぎる男と付き合っても、いずれ後悔することになる、と。でも母は情の深い人だった。一度想えば、それを捨てられない人だった。だからお父様の言うことに、頑なに首を振り続けたそうよ」
「それは……」
「だからお父様はやり方を変えたそう。血縁上の私の父に、手切れ金を渡して母と別れるように告げたのだと。血縁上の父はそれを受け入れたわ。それが……母が私を身籠っていると知れる一ヵ月前の出来事なんですって」
淡々とした口調で野菊が言葉を並べる。
だけど、その内容は、僕からしてみれば壮絶の一言に過ぎた。
情の深い母親。金で縁を切った実の父。そして、父と母の交際に反対し続け強硬に別れさせた伯父。
「お父様を恨んでいるわけではないの」
と、野菊は言う。
「尊敬しているわ。心の底から憧れている。生まれてからずっと、面倒を見てきてくれた人だもの。本当の意味で憎むなんてこと、できるわけがないわ」
「それは、そうだろうね」
「でも同時に思ってしまう私もいるのよ。もしもお父様が、父と母の交際に強硬に反対しなければ……今とは違った在り方ができたのではないかしら、と。父がいて、母がいて、そしてお父様……優しい伯父様がいて、もっとのびのびと過ごしている今があったのかもしれない、と」
そう考えてしまうのも無理はない、と僕は思った。
両親を失って叔父さんと叔母さんの家に引き取られた時のことは覚えている。
親族と家族の圧倒的な違いに心を磨り潰されそうな不安感があった。家の中に家族として受け入れてもらったのに、まるで天涯孤独な気持ちをあの時の僕は味わっていた。
今では、もうそんな不安は感じていない。叱ってくれて、励ましてくれて、ちゃんと受け入れてくれたあの人たちのことは大好きだ。
それでも野菊の、『両親さえいてくれたなら』と思う心を――僕は否定も批判もできないんだ。
「幼い頃に、母は死んだわ。私を産んだ時の肥立ちがよくなくて、三年か、四年か――それぐらいの間病室にいたけれど。最後には体力も尽きて」
「……」
「母のベッドの横には、いつも『野菊の墓』が置かれていたわ。今でも私は覚えている」
――野菊、野菊。ああ、私の情、私の想い、私の未来、私の憧れ、野に咲く紺の恋なりき。
病室を訪うたび、野菊の母はそう言って彼女の頭を撫でたという。
当時は、その言葉の意味を彼女もよく分かっていなかった。だが、十歳になった頃、ふと野菊の花言葉を調べてみた。
「……私の名前が意味する花に与えられた言葉は、『障害』だったわ」
「野菊……」
「そうよ。野菊は『障害』の象徴よ。母は私に何を思ってこの名をつけたのかしら。そんなもの分かり切ってるわ。きっとあの人にとって私は『障害』の象徴で……後悔でしかなかったのよ」
だから、野菊は母を想うことをやめた。
その代わり、花邑竜蔵を父と思うことにした。呼び方を『お父様』に改めて、その地位と仕事に憧れて、経営者としての勉強をして、その勉強の場としていくつかの会社の経営権を求めた。竜蔵はそんな野菊の気持ちに応え、いくつかの会社を彼女に与えた。
だが一方で、竜蔵もまた準備を始めていた。
最愛の姪が妹と同じ末路を辿らぬようにと、何人もの技術者を巻き込んで最適な配偶者を選出するためのシステム開発に取り組み始めたのだ。
それが、『ある日突然運命の相手に出会えるプロジェクト』
僕と野菊が出会うきっかけになった、マッチングAIシステムだ。
「そっか……竜蔵さんが野菊の交際相手に厳しい条件を課すのは、そういう事情があったんだね」
「ええ。私も……お父様が選んだ相手と、お父様が望むような形で交際するつもりだったわ。最初のうちは」
「そういえば、高級タワーマンションの鍵を渡してきたり、事あるごとにすごい豪勢なデートに誘ってくれたりしたね」
「あれもすべてお父様の意向ね。あの頃はまだ、それでいいと思っていたわ。お父様を安心させるためのものだと、そう割り切っていたつもりだったわ」
でも、と野菊が表情と口調を険しくする。
「今さらになって、あんたと私の、その……えっと、あーなんていうか……交際……に反対をしてくるようなら話は別よ!」
「野菊、野菊、ごにょごにょのところが何言ってるかよく聞こえなかったからもう一度口にしてもらっていい?」
「うるっさいわね黙りなさい駄犬! 上唇と下唇を塞ぐわよ!」
「野菊の唇で? やったね、いつでも塞いでほしいな」
「針と糸でよ! 破廉恥だわ! 変態だわ!」
「ほんとにそんなことしたら、キスできなくなって後悔するのは野菊の方だと思うんだけどなああ」
「…………」
「あ、今、キスできなくなった時のことを想像した?」
「しっししし、してないわよそんな想像!」
「そうなんだ」
「そうよ!」
「僕はしたけどね。野菊とキスする想像なら」
そう言ってみると、無言で睨んできた野菊が平手で胸元をバシバシ叩いてくる。でも、視線が隠せていない。キスのことを口にしたせいか、野菊の目はさっきから僕の唇にちらちらと注がれている。
試しに顔を少し近づけてみると、彼女は顔を真っ赤にして「と、とにかくっ」と両手で胸を押し返してきた。
「お父様に私たちの、その……交際を黙らせるには」
「交際だね」
「黙れ駄犬! いちいち茶々入れんな!」
「……………………」
「黙り込むな! 適宜合いの手入れなさい!」
「注文が多いなあ」
「誰のせいだと思ってるの!?」
「それはもう、腹を空かせた山猫のせいじゃないかな」
「料理店の話はしてないわよっ」
顔を真っ赤にして野菊が突っ込んでくるのが可愛い。
「で、黙らせるには?」
野菊に言われた通り、合いの手を入れる。
すると野菊は胸を張って、
「あんたを私の……えっと……交際相手……として、どうあってもお父様に公の場で認めさせるしかないわ!」
「うん、交際相手だね」
「ううううっさいわワン公!」




