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クンカクンカ、スースーハー

 一通り歩き回ったところで、僕らはマックドナルドで休憩することにした。


 庶民の強い味方、マックドナルド。ワンコイン以下でドリンクと座る場所を手に入れることのできる、安上がりな休憩場所。うるさいのと客のマナーが悪いのと店員の態度が悪いことに目を瞑れば、これ以上使い勝手のいい店はなかなかない。


 だが、そんな庶民の強い味方に対して、上流階級のお嬢様はやっぱり不満たらたらのようであった。


「いかにも知能指数の低そうな内装ね」


 というのが、店内に一歩足を踏み入れた時の野菊のご感想である。


「おまけに客の頭も悪そうだわ。どいつもこいつもアホ面下げて……よくもこの私をこんな場所へ連れてこれたものね」


「各方面を思いっきり敵に回しそうな発言をするのはやめようね」


 レジまでの長い列に加わりながら、そんな風に僕は野菊を諌める。


「だけど事実だわ。こんな……いかにも安っぽい」


「安っぽいのは当たり前だよ。なんせマックドナルドは庶民代表。今回のデートは『庶民の街体験ツアー』というコンセプトなんだから、場所を外すわけにはいかないよ」


「その下らないお題目に付き合わされる身にもなりなさい。……なんなのよ、この化学薬品みたいな刺激臭は。不愉快ったらないわね、ほんと」


 臭い、臭いと言いながら、野菊が僕の胸に顔を押し付けてくる。


 今日一日で、何度となく目にした光景である。駅を降りれば臭いと言い、街をぶらつけば臭いと言い、マックドナルドに入っても臭いと言う。


 どうやらお嬢様には、渋谷の街の空気がお気に召さないらしい。まあ確かに、ごみごみしたこの街の空気は決して綺麗とは言えないだろう。むしろ排気ガスや人いきれで、野菊が普段吸っているものよりはるかに汚れているはずだ。


 だから彼女が、その空気から逃れるようにして僕の胸元に顔を埋めるのはごく当然のことであり――。


「クンカクンカ、スースーハー」


「…………」


 うん?


 今、まるでにおいを胸いっぱいに吸い込むかのような、深呼吸の音が聞こえた気がするんだけど……?


 いや、僕の気のせいだったならそれはそれでいいのだ。でも今も、僕の胸元に顔を埋めた野菊が思いっきりスーハースーハー深く息を吸っている音が聞こえてくる。


 そっと胸元を見下ろせば、すんすんと鼻をひくつかせている野菊の姿があった。


「野菊、野菊」


「なによ」


「つかぬことをお伺いしますが、もしかして野菊は僕のにおいを嗅いでいらっしゃる?」


「…………あら、犬がワンワンと鳴いているようね? 人語ではないからなんと言っているかまでは理解できないけれど」


「そのごまかし方はさすがに無理があるんじゃないかなー」


 僕が呆れている間にも、野菊は「クンカクンカ」と鼻を鳴らしている。犬みたいなのはいったいどっちなのやらという話である。


 もしかしなくても、「臭い臭い」とやたら口にするのはこうして僕のにおいを嗅ぐための口実かなにかだったりするのだろうか。僕のにおいソムリエでも野菊は目指しているのだろうか。


「野菊は本当に、僕のにおいを嗅ぐのが好きだなあ」


「うん♪ 好――」


 なんの気なしに思ったことを口にすると、野菊が嬉しそうな口調で何かを言いかける。


 だがすぐに彼女は表情を引き締めると、


「こっこれは、そう――健康診断! ペットの健康状態をにおいを嗅いで確認しているだけであって他意なんてものはまるでないんだから!」


 と、噛み付くような口調で言い直した。


「健康診断ですか」


「け、健康診断よ!」


「本当に?」


「本当よ!」


「でも今好きって言いかけ――」


「――てないわよ! この駄犬ときたら、ついに幻聴まで聞こえるようになったのかしら? まったく救いようのない犬ね!」


「じゃあ、野菊。僕の目を真っ直ぐ見て、においを嗅いでなかったとはっきり口にすることができる?」


 そう問いかけると、野菊があからさまに視線を逸らす。


「…………あら、犬がワンワンと鳴いているようね」


 意地でも自分のやっていたことを認めるつもりはないようだった。


 そんな彼女を見て、なんとなく微笑ましいものだなあと僕は思う。においぐらいならいくら嗅いでくれても僕としては構わないし、それを不快に思ったりもしない。むしろ、それだけ野菊が僕のことを受け入れてくれているということでもあるのだから嬉しいと感じる気持ちこそ強いことだろう。


 だが、野菊としては、人のにおいを嗅ぐなんてはしたない、恥ずかしいことだ、と感じてしまう気持ちのほうが強いに違いない。


 もともと良い育ち方をしてきたご令嬢である分、なおさら恥じてしまうのかもしれない。


 そんな風に恥じらう姿もまたいじらしく見えているのだが、その自覚は果たして野菊にあるのかどうか。見ている限りでは、おそらくは自分では気づいていないのだろうが。


 そんなあまのじゃくな彼女に代わって、僕ぐらいは素直な気持ちを積極的に野菊に告げるようにするとしよう。


「僕は野菊の体のにおいを嗅ぐの好きだよ」


「っっっっっ!?!?!?!?!?!?!?!?」


「野菊の体は、ちょっと柑橘系な香りがするよね。甘酸っぱい感じで、いつまででも嗅いでいたくなる」


 言いながら野菊のうなじに鼻を寄せると、彼女が「ぼんっ」と音を立てて顔を真っ赤に染め上げる。


 それから、キンキンと良く通る声で悲鳴を上げた。


「ひ、ひぃぃぃぃぃぃゃやああああああああ! 変態だわ! 痴漢だわ! 色情犬だわ! 不潔だわ! お、犯される……脱がされるぅぅぅぅぅぅ!」


「あ、いや、だから野菊、恥ずかしくて照れてるのは分かるけどこういうところでそういうこと言うのはやめて――あ、違います違います事案じゃないです通報しないで」


 その後めちゃくちゃ通報されかけた。

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