あ――――――――――も――――――――――――――っ!!
渋谷の街は坂道が多い。
渋谷駅を中心に、すり鉢状に街が広がっているのも当然である。
その坂道を、僕と野菊は公園通りの方面へ向かって足を進めていた。
「はぁ、はぁ……な、なんなのこの非効率的な街の造りは。やたらと人で混み合うし、坂道だっていちいち多いし、まったく不愉快極まりないわね」
僕に手を引かれながら、ぶつぶつと野菊が文句を口にする。
どうやらあまり歩くのは慣れていないようで、握る彼女の手の平にはさっそくじんわりと汗が浮かび始めているようだった。
「野菊、大丈夫? 疲れた時はいつでも言ってね。僕の方でも気づけるように気を付けるけど」
「っ、べ、別に疲れてなんかないわよ! あんまりバカにしないでちょうだい!」
「それだけ言い返せるなら、大丈夫そうだね」
彼女の様子にひとまず胸を撫で下ろし、人の波を縫うように僕は野菊を先導する。
「……ほんっと、生意気な駄犬なんだから」
そうやって毒づきながらも、野菊の腕が僕の手を離れることはない。じんわり手汗を滲ませながらも、どこか縋りつくように強く手を握ってくる。
「別にっ、あんたを頼ってるわけじゃないんだからね! ただ、これは――そう! 散歩だから! 犬の散歩だから主である私はリードを手放すことができないだけで……」
「野菊、野菊、僕まだ何も言ってない」
「~~~~~こ、この私に恥をかかせようだなんていい度胸だわ!」
「どれだけ恥を上塗りしても野菊の愛らしさが損なわれることはないと思うなあ」
「なによ! バカにしてるの!? バカにしてるのね!」
「野菊をバカにするわけないじゃないか。さっきから腕に当たる感触が幸せだとは思ってるけど」
野菊はいつの間にか僕の腕を抱きかかえるようにして腕を組んでいた。
「~~~~せ、セクハラよ! 痴漢よ! 変態よ! 発情犬だわ! 色情犬だわ! 色狂いの変質者だわ!」
「幸せと同じ手触りがした」
あと渋谷の真ん中で変態と叫ぶのはやめよう。
みんなが、ほら、見てるから。
「それにしても、今日は和装じゃないんだね」
今日の野菊の装いは、シックな黒のワンピースに、踵の低いミュールといった比較的シンプルな服装だ。
野菊の誘いで連れ出される時はいつも着物姿が多いから、こういった年相応な感じの華やかな服装は新鮮だ。
これはこれで普段とは違う美少女っぷりを見ることができて、僕としてはとても嬉しい。
「専属の仕立て屋に作らせたの。さすがに着物でこんな場所を歩き回るわけにはいかないもの」
「それはいわゆる、オーダーメイド……」
いったいいくらかかったんだろう。精神衛生上、聞かない方がよさそうだ。
ちらっ、ちらっと野菊が上目遣いで僕を見上げる。
「……ん? どうしたの」
「べ、別になんでもないわよっ」
「でも、僕の顔見てたよね、今」
「見てないわ。なんで私が駄犬の顔を覗き見ないといけないのよ」
「う~ん、僕はちょっと分からないかなあ。でもきっと野菊なら分かるんじゃない?」
「わ、分かるわけないじゃない!」
「野菊にも分からないことがあるんだね」
「バカにしないで! そんなものあるわけないじゃない!」
「じゃあなんで、野菊は今僕のことをちらちら眺めてたの?」
「そんなの……今日の格好が変じゃないか気になっただけ――」
言いかけ、野菊の顔が真っ赤に染まる。
それからぷるぷると全身を震わせ始め……。
「な、なによっバカにして! 別に、駄犬の感想なんて全然求めてないんだから!」
「じゃあ僕、何も言わない方がいい?」
「…………言うなだなんてことは私一言も言ってないはずだと思うけれど?」
「じゃあ、言うね。野菊はワンピース姿もやっぱり似合ってる。とても美人だ」
「~~~~~へ、変態だわ! 痴漢だわ! 発情犬だわ! 色情犬だわ! 気持ち悪いわ! へ、変質者! セクハラ魔!」
「だからそういうこと渋谷の街の真ん中で叫ぶのやめようね」
あと恥ずかしそうに僕の腕に顔をぐりぐり押し込んでくるのもやめようね。
痛いので。
* * *
(あ――――――――――も――――――――――――――っ!!)
太槻の腕に自分の腕を絡ませながら、野菊は内心でそんな叫び声を上げていた。
(なんでこの人はすぐに私のことを褒めるのよ! 似合うとか綺麗だとか脱がせたいだとか言われると、びっくりしてドキドキして恥ずかしくなってきちゃうじゃない!)
顔が赤らんでいる自覚はあった。頬は熱いし、体はまるで風邪でも引いた時みたいにぽかぽかしていて、なんだか気分は夢見心地だ。
いちいち太槻の言葉に反応してしまう自分が腹立たしい野菊である。
こんな風にうろたえるなど、まるで自分がただの娘にでもなったかのようで居心地が悪い。普段の自分はもっと超然としているはずなのに、太槻が絡むとペースを崩されてばかりであった。
(第一、この犬も犬よ! こんな衆目の集まる場所でいきなり、ぬ、ぬ、ぬ、脱がせたい……だなんて、破廉恥だわ! 変態だわ!)
※なお、脱がせたいとは太槻は一言も言ってない模様。
(……だ、ダメよ、この私の高貴な肌を、太槻さんならともかく他の人間に晒すなんて許されることではないわ!)
※なお、脱がせたいとは太槻は一言も言ってない模様。
(で、でも……でもでもっ、太槻さんが望むなら、少しぐらいなら服をはだけさせることだってやぶさかではないというか……うぅ、考えるだけで、なんだか体が、お腹の下辺りがじゅんって熱く……)
※なお、脱がせたいとは太槻は一言も言ってない模様。
むしろここまで妄想を繰り広げてしまう辺り、野菊自身が太槻に脱がされたいという願望を深層心理で抱えている可能性すらありそうであった。
密かに、太槻の視線を意識しながらワンピースの胸元をパタパタさせる。
「……き、きょうわあついわねー」
ついでに、あからさまな棒読みでそんなことを言いながら太槻の気を引こうとしてみる野菊。
「ん? ああ、そうだね。冷たい飲み物でも買おうか?」
ただし太槻は野菊のアピールに気づかなかった!
(むぅぅぅぅぅぅ! なっんっでっ気づかないのよこの駄犬! これだからワン公は! これだからワン公は! これだからワン公は――――――――――っ!!)
そのことに不満たらたらの野菊である。せっかく勇気を出して、少しぐらいなら肌を見せてやろうとサービスしたのに、なんでこの朴念仁は動揺することも喜ぶこともしないのか。
太槻は素直にいつも好意を伝えてくれるし、優しくしてくれるし、こちらが喜ぶことをちゃんと考えてくれている。それはいい。素晴らしい。嬉しい。優しい人だといつも思うし実のところ感謝だって野菊はしている。
だからこそ、少しぐらいは際どいところを太槻に見せてやってもいいと思ったのである。なのに気づいてくれないなんて、勇気の出し損である。花邑財閥の一人娘である花邑野菊に対する侮辱にも等しい。
なんだかこれでは自分ばかり空回りしているようではないか。
「あいたっ。あれ、僕、野菊に足を踏まれるようなことした!?」
「……太槻さんのバカ」
「ん? ごめん、声が小さくてよく聞き取れなかった」
「このバカ犬って言ったのよ! いちいち二度も同じことを言わせないでちょうだい!」
野菊がそう言うと、太槻は少し困ったように笑いながら大人の手で頭を撫でてくる。
……この撫でられる感触とか、太槻の浮かべる笑顔の優しさが好きなんてことは、絶対に口にしたりなんかしない。今日も今日とて素直になれない野菊であったのだが――、
(……どうしよう。こうして二人で歩いているだけで、私、とっても楽しいわ)
なんてことを思ってしまう彼女なのであった。




