デートしよう
「これがね、ほら、うん、渋谷だよ」
JRは山手線。
渋谷駅のハチ公前広場で、僕は彼女に告げた。
「ゴミゴミしてるわ」
「そうだね」
「臭いわ」
「人がたくさんいるからね」
「こんなところ耐えられないわ。帰る」
「まあまあ、そう言わないでくれよ」
「こんなところまで連れてきて、一体どういうつもりなのよこの駄犬は!」
「僕の胸に顔を埋めながら言っても説得力は……ああうん、ほら叩かないで? みんなが見てる」
そう言いながら、僕は胸に顔を埋めながらぽかぽか拳を振り下ろしてくる野菊を宥める。
「とりあえずぶらっと街を歩いてみようよ。ほら、今日はそういう趣旨だったでしょ?」
「でも……」
「辛くなったら、今みたいに僕の胸に顔を埋めたっていいからさ。ほら、ね?」
「っ、べ、別にあんたの胸に顔を埋めたりなんかしてないわよ! 変な言いがかりをつけるのはやめなさい、このワン公!」
慌てて後ずさりながら二秒前の現実をなかったことにしようとする野菊。しかし悲しいかな、さっきまで彼女が僕の背中に腕を回しながら胸に顔を埋めていたのは紛れもない事実である。
「うん、その様子だと大丈夫そうだね? じゃあ行こうか」
「あ、ちょ、待ちなさいよ! 私をこんなところに置いていったりなんかしたら承知しな――ああもうっ、分かったわよついていけばいいんでしょ!」
歩き出した僕の背を野菊が追いかけてくる。それから、後ろから僕の左腕に抱きついてきた。
「いいこと? この私をちゃんと守りなさいよ? それが、こんな庶民の街にまで連れ出してきたあんたの仕事なんだから!」
そして、そんなことを言いながら、離すまいとでも言うかのようにぎゅっと抱きつく腕に力を込めてきた。
野菊にとって初めての渋谷。初めての『庶民の街』。
僕と彼女がこうして渋谷の街を訪れた理由を語るには、三日ほど時を遡る必要があるだろう。
* * *
「なあ岩下。ごくごく普通の学生がする庶民的なデートって、どんな感じだと思う?」
三日前の昼下がり。俺は同僚の岩下にそんなことを訊ねていた。
その日もその日とて、僕も岩下もパソコンに向かってひたすらマウスやキーボードを動かしていた。うちのような外注専門の中小規模な下請けの事業所は、常に新案件を抱えている。その日の僕の仕事はひたすらモデリング、モデリング、モデリング……仕様書のデザインを3Dに起こす作業だった。
カロリーメイトをかじりながらマウスを操作する俺に、岩下が答える。
「お前学生だったのか」
「ちげぇよ。彼女がJKって話、前したろ」
「それは嘘だと思ってるし、事実だとしたらそんなおおっぴらに言うようなことでもないと思うが?」
「親にも了解もらってるし、何よりまだなんも手を出してない」
キスはしたけど。
そんな話をすると、岩下がギィと音を立て椅子の背もたれによりかかる。
「うーん……でも俺、三十以上の女性としか付き合ったことないぞ?」
「なんだよ、参考にならねえな……これだから熟女マニアは」
「おい熟女を――」
「バカにしてない。まあでも、学生の頃はじゃあ、岩下はどんなところに行ってたんだ?」
「そうだなあ」
岩下はふと考え込むようにそう前置きをしてから、言った。
「俺はけっこう、彼女に連れられて六本木とか? あと周りのやつらは割と原宿とか渋谷とか池袋とか行ってたぞ。あと秋葉」
「あー、その辺か……秋葉はけっこう行ってたな」
「オタクだもんなお前」
「こんな仕事してる以上岩下も大概人のこと言えねえだろ。あとはまあ……渋谷かな、僕がある程度分かるのは」
渋谷はこの前の仕事でフィールドのデザインをしたため、取材がてらかなり歩き回った。半年ぐらい前のことだ。
異界の侵攻により半異界化した渋谷の街で、異界のモンスターと地球のハンター側に分かれ対戦するアクションゲームだ。渋谷駅周辺のデザインを僕は担当した。
「その中なら、まあ……渋谷かな」
「学生っつったらそういうイメージあるもんな。捻りはねえけど」
「捻りなんてなくていいんだよ。二千万円もするディナークルーズとか、自家用機で北海道日帰り旅行とか、そういうデートばかりだと胃がもたれるだろ」
僕の言葉に、岩下が「はあ?」と呆れたような反応を示す。
「あー、例の設定な。いや、二次元の彼女の話だっけ? あれまだ活きてたんだ」
設定じゃねえよ。
* * *
「嫌よ。なんでこの私が、そんな『庶民の街』なんかにわざわざ足を運ばなければならないの。私を誰だと思っているの。花邑財閥の一人娘、花邑野菊よ」
「僕の恋人の花邑野菊だね」
「……っ、そ、そういうことを不意打ちで言うのは意地が悪いわ! これだから庶民は! これだから駄犬は!」
渋谷に行こう、とさっそくその日の夜に野菊に提案すると、彼女は難色を示した。まあ、予想してました。野菊が素直に首を縦に振るわけがないよね。
というか、僕からの提案という時点でまず素直に首を振ってくれない気がする。たとえ、興味があったとしても。
「ねぇ野菊。デートの場所が渋谷の街なのはそんなにダメなのかな?」
野菊のそういう『素直じゃなさ』はこの二週間で何度も目にしてきた僕である。
お嬢様の意志を再確認するように問いかけると、彼女は腕を組んで唇を尖らせた。
「当然だわ。考えてもみなさい。この花邑野菊が、貧相なデートなどするわけにはいかないじゃない。他の誰かに知られたりなどしたら、腹を抱えて笑われてしまうわ」
「他の誰かって……見栄を張るために出かけるわけでもあるまいし」
呆れたように呟くと、野菊の眉間にしわが寄る。
そしてバカを見る目を僕に向けてきた。
「所詮、見栄のためだわ。デートなんて」
そして彼女はそう言い切った。
「旅行にデート、パーティーや集会……何をするにつけても、『どれだけのお金を動かせる力があるのか』を周囲に示し続けることは大事だわ。それらはすべて、花邑の財力と影響力を知らしめることに繋がるのだから」
つまらなそうに吐き捨てる野菊に、僕は『なるほど』と心の中で納得していた。
それはきっと、野菊の植え付けられた価値観なのだろう。花邑財閥という並外れた資産と影響力を持つ家に生まれたからこそ、周囲に花邑の者であるということを示し続けなければならないと、そんな風に思っている。
私の家はこれだけ金を持っている、つまりそれだけ力がある、そんな『花邑』に逆らえるのか――とまあ、きっとこれもそういう意味では盤外での戦いということになるのだろう。
「駄犬の頭では想像などできないでしょうけれど――下手なデートなどしてごらんなさい。それを誰かに知られたりなどすれば、すぐさま批判と嘲笑の対象よ。花邑の娘が、渋谷などという卑しい庶民の街をうろつきまわっていたなどと言い触らされれば、困るのは私ではなく……お父様だわ」
「野菊……」
「だからワン公はおとなしく私に従っていればいいのよ。そもそも、この私と付き合うというのはつまりそういうことだもの。それとも、不満でも――」
「あるよ。不満なら、ある」
「な、なによ」
「見栄を張るために野菊がつまらなそうにデートするのは、嫌だよ。ディナークルーズでも、北海道まで日帰り旅行した時も、どこか浮かない顔をしてたよね?」
僕の言葉に、野菊が「うっ」と目を逸らす。
それから苦々しげな口調で、
「……必要なことだもの。花邑財閥の一人娘として、隙を見せるわけには」
なんて口にする。
「でも僕は、花邑財閥の一人娘と付き合ってるつもりはないよ。花邑野菊という、ただの女の子の彼氏をしてるんだから」
「そんなの……屁理屈だわ」
「じゃあ白状するけど。野菊が楽しんでくれてないと、僕だってデートを楽しめないよ」
「…………」
「というわけで、改めてどうかな? 名付けて、『お嬢様の庶民の街体験ツアー』みたいな感じでさ。僕は野菊と、ただ楽しいだけの一日を過ごしたいんだ」
逡巡するように、野菊がそっと目を伏せる。そんな彼女の頭をそっと撫で、
「たまにはね。『お嬢様』から『女の子』になる日が野菊にもあっていいと思うんだ」
そう告げると、ふるふる野菊が体を震わせる。
それから、不意に彼女が僕のお腹に頭突きを食らわせる。
「ぐふっ」
鈍い悲鳴を漏らす僕の腰に、野菊が腕を回してくる。それからくぐもった声で彼女は言った。
「……ふんっ。一日だけよ。一日だけ、あんたに付き合ってあげる。せいぜいこの私を楽しませてみなさい」
「もちろん。野菊には全力で楽しんでもらうつもりだよ」
「つまらなかったら、三回回ってワンと言わせるわ」
「それで野菊が楽しめるなら、僕はそれぐらいいつでもするけどなあ」
――こうして、『お嬢様の庶民の街体験ツアー』が行われることとなったのであった。
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