約束の口づけ
なんでそんな表情を浮かべているのかは分からない。だけど何かを痛むように、それでいて諦めすら滲んでいる彼女の素振りに、僕はどうしたのかと心配になる。
「野菊、どうかしたのか?」
「別に。ワン公の気にするようなことじゃないわ」
つい、そう問いかける僕だったが、顔を上げた野菊からはついさっきまでまとっていた雰囲気など綺麗さっぱり消えていた。
でも野菊、脇が甘いよ。
ワン公の気にするようなことじゃないわ――この言い方だと、まるで『何かある』みたいじゃないか。
「そうか。何にもない、か」
確認するように僕はそう言ってみるけれど、野菊の表情は小揺るぎもしない。静謐な黒瞳の奥にあるものを、このときばかりは見通せなかった。
「いいえ、何もないわ。――いえ」
ふと、思い出したとでも言わんばかりに野菊がひとつの箱を取り出す。
「ひとつだけ。あんたに渡すものがあるわ」
「僕に?」
「ええ。破廉恥極まる庶民犬にはすぎたものだけれど――これを」
小箱を受け取り、蓋を開ける。中に入っていたのは、シンプルなデザインの鍵だった。
月明かりに、きらりと鍵が銀色に輝く。
「これは?」
「シティ・アイランド・タワーZeusの最上階、ポードレッタイト・フロアの鍵よ」:
「ゼッ……」
彼女の言葉に僕は思わず絶句する。
シティ・アイランド・タワーZeusといえば、この日本でもっとも高い高層マンションとして有名だ。高い、というのは文字通り二つの意味でめちゃくちゃ高い。
最上階は実に地上から328メートル。もっとも安い部屋ですら、一ヶ月辺りの賃貸料金は百五十万円からと超高額。
スパやスポーツジム、各種飲食店、地下には居住者なら無料で使えるバッティングセンターやテニス場などの運動設備が取り揃えられており、二十四時間体制の警備システムが導入され、部屋はもちろんオートロックでセキュリティ万全。
そんな部屋の最上階ともなれば、一ヶ月辺りいったいいくら取られるのだろう……一億とか行くんじゃないか?
「な、なんでそんな鍵を僕に……?」
「……お父様が、ここにあんたと二人で住めって言ったから」
「は!?」
「も、もちろん二人きりって意味じゃないわよ! 村岡さんを始めとした使用人だってついてくるし、二人でいるからって破廉恥なことをしようとしたら絶対に容赦はしないから!」
「ああ、いや、破廉恥なことはしないけどさ……でも、本当にこれを僕が受け取っていいの?」
「いっ」
一瞬、野菊の視線が迷うようにさまよう。だがそれも束の間、すぐに腹も据えたと言わんばかりに彼女は言葉を続けた。
「いいわよ! だってお父様の命令だもの。いつだってお父様は私にとってよりよいものを与えてくれるし、従っていれば問題は――」
「本当に?」
だが僕は彼女の覚悟を遮った。
「野菊はそれで後悔しないの? 僕としては帰ったら恋人が部屋で待っててくれるなんてとても嬉しいことだけど、そこにちゃんと野菊の気持ちがついてきてくれてたほうが嬉しいかな」
「で、も……お父様は」
「野菊の父ではなく、僕は野菊の選択を尊重したいよ」
そう告げて僕は、鍵の入った箱を野菊へと返す。
呆然とした表情で、彼女はその箱を受け取った。
「でも、だって」
「……こういうのはきっと、急いでもいいことなんてないと思うんだ」
動揺の抜けない彼女の頭をそっと撫でながら、優しく野菊に語り掛ける。
「だから急がなくてもいい。焦らなくてもいい。野菊の心の準備が出来たとき、またそれを僕に渡してくれればいいだけのことだから」
僕の言葉にも、野菊はどこか途方に暮れたような顔つきになる。
もしかすると、僕は彼女にとってとても酷なことを言ってしまったのかもしれない。そもそも選択をするというのは大変なことだ。決定するたびに、人は精神をすり減らすようにできている。
でも、だからといって従い続けることが正解だとは僕は思わない。その先に、求めているものがあるとは限らないから。
だから僕は、野菊の頭をそっと引き寄せると。
「鍵の代わりに、今夜は『約束』をもらっておこうかな?」
「え?」
唖然とする彼女の額に、月に照らされる中で、そっと唇を落とした。
「なっ、ななななななになになによ今のは! この――破廉恥! 変態! 色情犬!」
「ダメだったかな?」
「だっだだだめに決まってるでしょ! わ、わた、私の私の初めてが……」
額を押さえて、さっきまでとは別の意味でうろたえる野菊を、僕は微笑ましく思いながら見つめる。
君はそうやって、顔を真っ赤にしたり、うろたえたり、怒ったりしているのが似合うと思うよ。
だから暗い顔なんてしなくていい。
「だって今、僕らは約束したもんね」
「はあ!? なんのことよ、この駄犬!」
グーにした拳をぽかぽか振り下ろしてくる彼女に、心の中で僕はそっと語りかけた。
――二人で幸せになりましょう、と、今一方的な約束を僕は君に告げたんだよ、なんて。
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