お出かけ
毎日をそれなりに忙しく勉強しているシュゼットにも時々何も用事がない時がある。
今日もそんな珍しい日だった。侯爵夫妻は領地の方へ数日前から出かけており、ミレディもミゲルもそれぞれの付き合いのため出かけていた。
社交界デビューしていないシュゼットはお留守番だ。
ただ、一人で勉強していてもなかなか捗らない。机に向かい、本を広げていたが一向に頭に入ってこなかった。ミレディが出かける前に今日は勉強を休んでも構わないと言われていたのもあって、これ以上勉強するのを諦めた。
シュゼットは気分を変えるために、庭に出る。そっと周りを見回してから、お気に入りの大木に近づいた。誰もいないことを確認してから、大木を器用にするすると登る。この木は枝もがっしりとしていて、座り心地がいいのだ。
よいしょと小さく言葉を漏らしながら、腰を落ち着ける。足をぷらぷらさせながら、遠くを眺めた。
「はあ、つまらないなぁ」
今までこんな風に暇を持て余すことがなかったので、本当に何をしていいのかわからない。前の生活だったら、暇であるなら体の疲れを癒すためにひたすら寝ていた。横になってじっとしていればお腹がすくこともない。
前の生活でも親しく話していたのは数人で、アリー以外だと洗濯屋の女将ぐらいしかいなかった。それでも仕事をしている時はとても賑やかで、寂しいなんてことはない。いつもは誰かが家にいるので、感じたことはなかったが、こうして一人になると突然放り出されたような気分になる。
ぼんやりと洗濯屋のことを思い出してみれば、彼女たちに最後の挨拶もせずにここにきてしまったことに気が付いた。母のゾーイが亡くなってからずっと目をかけてもらったのに、お礼も何も言っていない現実に愕然とする。
すごく遠い場所にあると思っていたのだが、実はあの洗濯屋は3の壁の外に出ればすぐだ。洗濯屋しか世界を知らないシュゼットは遠いところに連れてこられた印象であったが、実はそうではなかった。
この国は王城の周りに3つ程の外壁でぐるりと囲われている。王城に一番近い1の壁の内側は城の機能が集まっている。王城は総称であり、王族の住まう城と騎士団や政治機能を持つ建物のことを指している。ギャレットやミゲルも文官として通っていた。
その次の1の壁と2の壁に挟まれた領域が貴族街だ。貴族の屋敷や貴族たちが使う商業施設がある。そして2の壁と3の壁に挟まれた領域が平民街。比較的裕福な平民が住んでいる。その3の壁の外側が一般の平民だ。
シュゼットの住んでいる屋敷は貴族街にあるため、2の壁と3の壁を通り抜けることが必要だが、馬車を出してもらえばすぐの距離だ。
思い立ったら大人しくしていられず、シュゼットは急いで大木から降りた。早足で自室に戻り、衣裳部屋に入る。
目に付いた簡素なドレスを引っ張り出した。今着ているドレスを脱ぎ、コルセットを外す。下着もボリュームがあるので脱ぎたかったが、流石に布一枚巻くわけにもいかない。
急いで質素な格好になると部屋から走り出した。
「おっと」
「ごめんなさい。ちょっと急いでいるの」
急いでいたため、前から来る人にぶつかった。思いっきりぶつかったせいで、鼻が痛い。痛む鼻を押えながら、適当に謝ってそのまま脇を抜けようとする。
「ちょっと待て。どこに行くんだ?」
「どこって、どこでもいいでしょう?」
煩いことを言うのは誰だとムッとしながら顔を上げれば、鮮やかな青い瞳と視線が合う。驚きに固まれば、何故か腰に両手が掛けられた。抱き寄せるように近づいた彼にさらに体が硬直する。
「シュゼット、どこに行くつもりだ?」
「なんで、ローガン様がここに」
「一人で留守番だと聞いたから、様子を見に来た」
「そうですか」
どうやって切り抜けようと必死になって頭を働かせた。出会いからここに連れてきてもらうまで、何度も捕まって何度も失敗している。どうしても逃げられないと思ってしまうのだが、ここ数か月はそれなりに勉強していた。
だからきっとうまく抜け出せるはず。
「それにそのドレスはなんだ? それ、夜着だろう?」
「夜着?」
夜着と言われて自分のドレスを見下ろした。確かに普通のドレスよりも生地が薄く、踝まで裾はあるが、飾り気がない。ふわりとしているのは首周りだけだ。夜着と言われれば確かに夜着だ。
「今までこの夜着を着たことがなかったから気が付かなかったわ」
「はああ。部屋に戻るぞ」
ローガンはため息をつくと、ひょいっとシュゼットを抱き上げた。横抱きではなく肩に担ぎ上げたのだ。突然視線が高くなって、シュゼットは声を上げる。
「下ろして! 一人で歩けるから」
「却下」
「恥ずかしいじゃない!」
そう叫ぶと、ローガンが足を止めた。
「恥ずかしい?」
「そうよ。誰かに見られたら」
「夜着で外に出ようとしていたのに、今さら?」
「うっ」
夜着のことを言われてしまうと言い返せない。言い返せないが、本当にドレスだと思っていたのだから恥ずかしくはなかったのだ。洗濯屋で暮らしていた時はこの生地よりも薄くてガサガサのドレスを着ていたから、夜着だとは思っていなかった。
「話は着替えてからな」
ローガンは止めた足を再び動かした。
******
「お待たせしました」
部屋に戻り、侍女に手伝ってもらいながら先ほど脱いだドレスを着なおしていた。恥ずかしくてそのまま逃亡したかったが、シュゼットの部屋で待ってもらっていたので逃げることができなかった。
顔をやや赤くしながら寝室から出る。
長椅子でお茶を飲みながら待っていたローガンはシュゼットの姿を認めると、笑みを浮かべた。
「ようやくまともになった。お前はいつもあんな格好しているのか?」
「違います。今日はたまたまです」
「それならいいんだが……」
どうやら普段からあんな格好をしているのだと勘違いされていたようだ。シュゼットも長椅子に腰を下ろす。侍女がすかさずお茶を用意した。
「ローガン様の用件は?」
「先ほども言ったが、一人でいるのなら少し出かけようかと思って」
「え?」
「ここに来るまでもあまり街を見せてやれなかったし、俺に対してもあまりいい印象はなかっただろうから」
驚きに声がすぐに出てこない。まじまじとローガンを見つめれば、ローガンは少しだけ視線を下に向けた。
「気にしてくれてたの?」
「そうだな。俺も逃げられないことに精一杯だったから、怖かったのではないかと」
「……ありがとうございます」
気にしてもらえたことが嬉しくて、自然と笑みが浮かぶ。ローガンはシュゼットの笑みを見てほっとしたような顔をした。
「それでどこに行きたかったんだ?」
「一人で行くので大丈夫です」
なんとなく洗濯屋に行くとは言いにくくて、笑ってごまかした。ローガンはシュゼットのあからさまな態度に目を細めた。
「行き場所を言えないのなら許可できないな」
「ローガン様の許可はいらないです」
不思議なことを言われて首を傾げた。ローガンはため息をついた。
「家人に言えないような場所なのか?」
「いいえ? ちょっと街をうろつこうかと」
「……洗濯屋に行くつもりか」
ローガンはとてもかわいそうな子を見るような目で見てくる。
「どうしてわかったの?」
「シュゼットは外出したことがないと聞いている。街にある店を見て回ることはなさそうだが、どうしても行きたい場所となると限られてくる」
「なるほど」
こうやって人の行動を読んでいくのかと、シュゼットは手のひらをポンと叩いた。シュゼットもたくさん勉強をさせられているが、こうして先の先までを予測することは難しい。貴族は大変だとしみじみと感じた。
「いや、平民でもこれぐらいは考えると思うぞ」
「そうですか?」
「……まあ、いい。それで洗濯屋にはどうしていくんだ?」
「わたし、ローガン様に連れられて挨拶もないまま出てきてしまったので」
挨拶をしに行きたいのだと伝えれば、ローガンは納得したように頷いた。
「シュゼットの気持ちは分かった。だが、すでにここに連れてくる前には洗濯屋の女将に連絡してあるし、今までの礼もしてある」
「え?」
「当然だろう? ガリガリに痩せていたが生きてこられたのは周囲の人間のおかげだろうから。ミゲルも相当の礼をしているはずだ」
驚きに固まった。ミゲルもミレディも何も言っていなかった。だからこうやって自分の時間ができるかで全く思い出すことがなかったのだ。自分のことしか見えていないことに、シュゼットは自分自身にがっかりした。
「わたしって本当にダメ人間だわ」
どんよりと俯いたシュゼットにローガンは優しく笑う。
「仕方がない。それだけ環境が変わったということだから」
「でも、一言自分でもお礼を」
「シュゼット。君はもうあの場所に入ることはできない」
「どうして?」
シュゼットは洗濯屋に行くことができないことに納得ができなかった。むっとして唇を尖らせた。
「困ったな。ミゲルは説明しなかったのか? シュゼットはもう貴族令嬢なんだ。むやみに立ち入ると、親しかった人たちが危なくなる」
「危険?」
「そうだ。よからぬことを考える人間はどこにでもいるものだ。貴族になっても変わりなく親しくしていると知れば、彼女たちを人質にとって色々な要求ができると思う者も出てくる」
考えてもいなかったことに、シュゼットは息をのんだ。ローガンは優しく言い聞かせるように続ける。
「貴族になると行動には制限が出てくる。それは本人のためもあるし、周囲の人のためでもある」
「……窮屈なのね」
前の生活も決してよくはなかった。一日中働かないといけないし、自由なんてなかった。
でも。
自分自身の行動で誰かの命が脅かされることはなかった。
「さて、説教はここまでだ。出かけるぞ」
「え?」
突然出かけると言われてシュゼットはついていけない。呆けた顔で立ち上がったローガンを見上げた。
「貴族街の店を色々見て回ろう」
「いいの?」
「そのために来たんだ。ほら、立って」
ローガンに手を差し出されて、その手を取った。