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逃げ出すのはお菓子を食べてから


 シュゼットは窓から入る朝の光で目が覚めた。


 昨日倒れた後、医者に診察してもらい、栄養失調だと診断された。栄養失調に驚かれたものの、体に優しい食事をとり、一晩寝れば体調はそれなりによくなる。


 誰もいない部屋で体を起こした。大きく伸びをしてから、ため息をついた。気分はよくなったが、シュゼットの置かれている状況が好転しているわけではない。


 一体どうしたらいいのだろうか。


 解決しない疑問を持て余していた。明日のご飯を心配する以外で頭を使ったことのないシュゼットにはひどく難しい問題だ。


 シュゼットは母親が亡くなってから、生き残るためにすべきことしか考えたことがない。体が小さいシュゼットが薪をたくさん集めるためにはどうしたらいいかとか、母親が着ていた服をどうやったら着られるようになるかとか。その日を生き抜くためのことだけを考えてきた。


 それはシュゼットだけが特別ではなくて、あの洗濯屋の用意した部屋を借りている人たちは似たり寄ったりだ。日々の生活だけで精一杯が普通だ。家族がいれば、家族がその日を生きていけることだけを考える。


 シュゼットは母が亡くなってから一人だったので、自分のことしか考えてこなかった。シュゼットは深く物事を考えると辛いことばかりなので、母親が亡くなってからは悩むことをやめた。計算ができなくても、文字が読めなくても、周りには助けてくれる人がいるのだから困ったことはなかった。


 人間、死ぬときは何をしても死ぬ。できる限り苦しくない死に方をしたい、とそれだけだった。


 深く考えない性分であっても、流石に今の状態は無視できない。上手い話には絶対に裏があるのだ。

 アリーが何度も何度も教えてくれた。何の庇護もない女性がたどる運命など大抵一つしかない。


 シュゼットは自分が見ず知らずのおっさんに弄ばれる自分を想像し、ぞっとした。決して女性らしい体つきをしていないが、世の中、理解できない性癖を持つ人間など山ほどいる。アリーの具体的な説明を思い出したら、気分が悪くなってきた。


 とりあえず、ここから逃げ出すことを考えた方がよさそうだ。逃げ切った後はまたその時に考えればいい。想像力の乏しいシュゼットが思いついたのは、お手伝いを装ってこの部屋を出て洗濯屋に戻ることだった。それ以上の案は出てこないので、とりあえず実行することを決める。


「あの、そろそろ体もよくなってきましたので、お手伝いします」


 朝の身支度を手伝いに来たジョアンナに恐る恐る申し出た。下心があるせいか、妙に胸がどきどきした。お手伝いと言われて驚いたのか、ジョアンナは目を大きく見開いた。


「お嬢さまのお世話をするのがわたしの仕事ですので、お手伝いはいりませんよ」

「わたし、お嬢さまじゃないです。シュゼットと呼んでください」

「ではシュゼット様とお呼びしますね」


 反応がおかしい。


 シュゼットは予想外の反応に唖然とした。一体どういうことなのか、理解できない。

 ジョアンナはそんなシュゼットを見て、困ったように笑った。ジョアンナは自分の仕事を進めながら、それ以上のことは言わない。仕方がなく、シュゼットは彼女に問いかけた。


「ええと。下働きをするわけではないのなら、何故こんなところに連れてこられたのでしょう?」


 何人もが暮らせるのではないかと思えるほど広い部屋を与えられ、身に着けているドレスは飾りはないものの、着たことがないほど肌触りが良い。そして温かくておいしい食事。


 最底辺だったシュゼットが与えられるのは過ぎた待遇だった。次から次へと教えられていた嫌な考えばかりが浮かんでくる。

 ジョアンナは混乱しているシュゼットを安心させるように、頭を撫でた。母親のような手の温かさにほんの少しだけ気持ちが緩んだ。


「ローガン様はご立派な方ですから、心配するような扱いをされることはないと思います」

「……立派な方というのが理解できない」


 シュゼットにとってローガンは人攫いでしかない。だがジョアンナにとってはそうではないのだろう。

 ジョアンナに訴えてもどうにもならないと、肩を落とした。シュゼットはジョアンナに促されるまま大人しく身支度をする。身支度が終われば再び寝台に戻された。

 倒れたのは空腹だから、もう大丈夫だと思うのだが、過保護だ。


「この後、お医者様がいらっしゃいます」

「わかりました」


 頷くと、ジョアンナは部屋を後にした。一人残されたシュゼットはそっと寝台を降りる。ぺたぺたと裸足のまま部屋を歩き回り、靴を探す。ここに連れてこられた時に着ていた服と靴が見つからないかなと寝台の下や棚の中を見た。

 期待はしていなかったがやはり自分の物は見つからず、ため息だ。


 見つけたのは華奢で歩きにくそうな靴と部屋で履く布でできた柔らかな靴。


 この部屋に連れてこられてから、シュゼットに用意されたものだった。


「あと逃げるとしたら……」


 部屋の窓しかない。腰の高さの窓は逃げられなくもない。暖かな日差しを浴びながら、窓の外を覗いてみる。空が綺麗に見えると思ったら、かなりの高さがあった。降りることのできる木がないか探したが、窓の側には細い木があるだけで、とても飛び移れる気がしない。

 ここから出るのは難しそうだ。ついでに自分がいる場所を確認しようと、遠くにも目を向ける。


「ここどこよ……」


 シュゼットは頭を抱えた。逃げ出すのはいいが、自分が一体どこにいるのかが全くわからない。見知らぬ街の様子に、困惑した。捕まった時に意識を失って、他国に運ばれたのではないかと思うほど馴染みのない街並みだ。


 どうしたことかと悩んでいる間に、外から誰かがやってくる音がする。慌てて寝台に戻ろうとしたときに、会話が聞こえてきた。


「……動けそうなら……。そろそろ会わせないと……」


 ローガンの声だ。シュゼットはそっと足を忍ばせて扉に耳をくっつけた。そうすると聞こえにくかった声が聞こえるようになる。


「移動ですか。今日の診察で体調がよさそうなら、許可を出せそうです」

「早く連れてこいとうるさくてね」

「わかっております。移動した後も体調には十分気を付けてください」


 なんてことだ。


 シュゼットは青ざめた。今日のうちに依頼主に引き渡されるらしい。

 逃げなくては。


 シュゼットは慌てて履物の所へ駆け寄った。自分の靴ではないが、何か履かないと外を歩くことはできない。華奢な靴と柔らかな部屋用の靴を見て、華奢な靴に足を突っ込んだ。サイズはぴったりだが、馴染んでいない靴の固さに驚いた。


 薄い部屋着の上に寝台の上に置いてあった羽織物を引っかけ、じっと扉が開くのを待つ。抜け出せるのは、一度きりだ。


 扉が大きく開いた。シュゼットは勢いよく飛び出した。


「おっと」


 不意を突いて飛び出したのだから、横をすり抜けられると思っていたのに呆気なく捕獲される。腰に腕が回され、小さな子供のように片腕で持ち上げられていた。風呂に入る前もこうやって捕まったなと自分の知恵のなさを嘆く。


「……診察はいりませんね」


 飛び出したシュゼットを驚いたように見てから、医師がくすくすと笑った。


「これほど元気なら、移動も大丈夫でしょう」

「わかった」


 移動と聞いて、シュゼットは全身で暴れた。ローガンは特に気にすることなく、彼女を抱え込む。


「どうやらお嬢さまは何か勘違いしているようだ。きちんと説明することをお勧めしておきますよ」

「わかっている」


 医師はぽんとローガンの肩を叩いてから部屋を出て行った。二人になってしまった恐ろしさに、シュゼットは慌てていた。


「お願い、元の場所に返して」

「それはできないな。俺が説明する間、大人しくしていられるか?」


 シュゼットは反射的にこくこくと頭を上下に振って頷いた。自由になることが先決だ。シュゼットの心を読んだのか、ローガンは長椅子に腰を下ろし、自分の膝の上にシュゼットをのせた。驚愕の状況にシュゼットは固まった。


 落ちないようにとの配慮なのか、ローガンは優しく自分の胸元へと引き寄せる。彼と触れ合っている場所から温もりを感じ、徐々に顔が赤くなってくる。男女のことに疎いシュゼットであったが、男女が何をするのかは知っていた。洗濯屋の部屋の壁は薄いのだ。

 警戒心と、恥ずかしさが混ざった感情でぐるぐるになりながら大人しく座っていると、膝の上に綺麗な箱が置かれた。


「菓子を買ってきた。人気の店の菓子だ」


 菓子、と言われて視線を箱の上に落とした。綺麗な赤い箱だ。

 菓子と聞いて、胸が痛いぐらいにどきどきした。どんなものだろうかとずっと想像していた菓子が手元にある。

 しげしげと見つめてから、視線だけ上げてローガンを見る。彼は視線でどうぞ、と伝えてきたので恐る恐る開けてみた。


 中には綺麗な模様の塊がいくつか入っている。これが菓子というものなのか。美味しそうではあるが、これが何であるかがわからない。じっと中身を見ていれば、ローガンが説明した。


「クッキーだ。女子が好き好んで食べるものだ」


 食べてみろ、と言われて一枚手に取った。口に近づけると、美味しそうな甘い香りが鼻を擽った。思い切って口の中に入れる。

 さくっとした軽い音と共に割れて、口の中でほどけた。驚きに目を見開いた。


「おいしい」

「それはよかった。全部食べていいからな」


 そう言われて夢中でクッキーを齧った。


「名前はシュゼットでよかったな?」


 シュゼットがもぐもぐとクッキーを食べながら頷いた。ローガンはすっと銀の髪に指を絡めた。なんとなく弄ばれて、恥ずかしくなってくる。照れ隠しのようにクッキーに集中した。


 逃げ出すのはクッキーを全部食べてからだ。ここを出てしまったら、次に食べられるか、わからない。下手をしたら、これが最後の可能性もある。


「君はウィアンズ侯爵家の血縁なんだ」


 侯爵家の血縁。


 予想外のことを言われて、シュゼットの食べる動きが止まった。



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