王太子の頼み事
シュゼットが毒から回復するまでに10日間かかった。実際は3日後には元通りになっていたのだが、一般的な服毒した場合と同じだけの日数、寝込んだことになっていた。
毒を食べた後、一昼夜は吐き気と腹痛でトイレの住人になったが、それ以外は何ともなかった。熱も微熱程度で寝込むほどでもない。
侯爵家に引き取られる前までは食料の足しとして食べていたおかげだと医師は感心していた。
王族は毒物を幼いころから体内に慣らしていくのが普通だそうで、それと同じことを無意識にしていたことになる。
仮病を使っている間、何故かアンドリューがシュゼットの部屋で仕事をしていた。大量の書類を持ち込み、処理が終わったものをローガンが執務室に届けるということを繰り返している。
暇を持て余したシュゼットは向かい側にある長椅子に座ってぼんやりとアンドリューの働く姿を見ていた。アンドリューは王族であるから、見た目がきらきらしているのだが、その彼が真剣なまなざしで書類に目を通し、何かを書きつけている様子は目新しくて不思議な気持ちだ。
「そんなに見つめられると、くすぐったいな」
書類に落としていた視線を上げてアンドリューはシュゼットを見た。シュゼットと真正面から視線が合うと、彼女はわたわたとする。
「アンドリュー様も仕事するんだと思って」
率直な感想を口にすれば、アンドリューは小さく笑みを浮かべた。
「気楽にしているのはシュゼットと一緒の時だけだよ。本当に楽で助かる」
「褒められている?」
微妙な言い方で、何となく引っかかった。女性らしさを感じないというのか、気を使わない存在というのか、どうでもいい感じにも思える。
「ところで来月なんだけど、隣国から使者が来るんだ」
「使者?」
隣国の使者が自分とどう関係するのか、皆目見当がつかずにシュゼットは首を捻った。
「それなりに重要な要件はあるんだけどね。一番面倒なのは婚約者の王女が乗り込んでくることかな」
「え?」
「私に寵姫ができたと聞いて、確認に来るみたいだ」
「確認と言っても。わたしは王女様が嫁ぐまでの間のつなぎでしょう?」
アンドリューは書類をまとめると、ふうっとため息をついた。まとめた書類を執務室に届けるようにと部屋の隅に控えていた騎士に託す。休憩に入ったアンドリューにジョアンナがすかさずお茶を用意した。
「シュゼットには婚約者である王女を大切にしたいと言ったと思うけど、実は彼女の成長次第なんだ」
「成長次第? ……身長?」
訳が分からず適当なことを言えば、アンドリューは首を左右に振った。
「違う。彼女の性格。婚約が調った時は4年前だったから、王女もまだ9歳だった。その時は可もなく不可もなくだったけど……」
アンドリューの表情が少しだけ冷ややかになる。冷ややかな雰囲気にシュゼットは驚いた。アンドリューはいつだって朗らかで、余裕の笑みを浮かべている。そんな印象しかなかった。そんな彼の冷たい一面を垣間見て背筋がぞくりとする。
「報告によると、3年前、彼女の母親が側室から王妃に格上げになってから自己中心的な性格になってしまったようなんだ」
「自己中心的と言っても、13歳ならばまだ可愛い我儘でしょう?」
「気に入らないから鞭打ちにして放り出す、ミスを犯した侍女に手が腫れ上がるほど執拗に折檻する。これは可愛い部類に入るのかな?」
「……」
挙げられた事例にシュゼットは言葉を返せなかった。13歳の王女だからと目をつぶるにはあまりにも残酷な内容に聞こえた。それとも貴族社会では普通なのだろうか。
シュゼットは想像して顔を歪めた。確かに最下層の住人は意味もなく虐げられることもある。それは貴族から受けるものの他に、商人や豊かな平民からも暴力は振るわれる。シュゼットは幸いにして、貧しい割には周囲の大人たちに守れてきたため、直接的な暴力を受けた記憶はない。
「わが国でも体罰を良しとする貴族はいる。屋敷内で行われていると表沙汰になりにくい。ただ王族では感情による体罰は許されていない」
「そうなのね」
とりあえずアンドリューがそうでないことを知り、ほっと息をついた。アンドリューは憂い顔でこめかみを揉みこんだ。
「感情に任せるところが多いと報告されると、次期王妃として迎えてもいいものか悩むんだよね。ウィアンズ侯爵家の人たちは無意味な罰は与えないから、見たことはないだろう?」
「ええ、知らないわ」
「ウィアンズ侯爵もミゲルも必要ならすると思うよ。でもそれは理由があることだから、咎められることじゃない」
アンドリューは少し考えてから、丁寧に説明を加えた。シュゼットはこういう話は一度も聞いたことがないので真剣に耳を傾けた。
「正当な罰はいいとして、問題なのは王女が感情だけで罰を与えることだ。嫁いできた後、教育するとしても矯正できるものかどうかわからない」
「そうですね」
真っ先に鞭打ちにされそうで、シュゼットは顔を歪ませた。
「ふふ、大丈夫だよ。シュゼットは私の側室で寵姫なんだから。婚約者の分際でシュゼットには手を出せないよ」
「信じていいの? 一か月後には挨拶をしないといけないのでしょう?」
「そうだね。シュゼットは寵姫、王女は婚約者だけどまだ成人前。シュゼットとイチャイチャした時の反応でも見ようかな」
恐ろしい内容にシュゼットは恐怖で顔をひきつらせた。
「やめてください。ただでさえヨランダ様からすごい目で睨まれているのに」
「この間ちゃんと寵愛がどこにあるか示したから理解しただろう?」
アンドリューは楽し気に目を輝かせた。シュゼットはヨランダの憎々し気な目を思い出し、むっと唇を尖らせた。
「わかっていてやったんでしょう!」
「大変なことになるって先に言っただろう?」
「そうだけど。見せつけるんじゃなくて、言葉で注意してくれたらよかったのよ」
「ヨランダのことは無視していい。彼女からもらったものも食べては駄目だ」
急に真面目に言われて、シュゼットは息をのんだ。どうしても冷静なアンドリューは怖いと思ってしまう。きっと二人でなければ、今の彼が普通の態度なのだろうが……。シュゼットは慣れなくて身じろぎした。
「ヨランダ様を疑っているの?」
「彼女を外す理由がない。調査しているけど、今は何とも」
毒の入った菓子がどこから持ち込まれたか、実はまだわかっていなかった。シュゼットには簡単な経緯しか伝えられていないが、それでも護衛騎士が増えたことと侍女の入れ替えが行われたことで物々しさを感じていた。
「わたしが勝手に食べてしまったのだから……」
「今度、ドレスと宝飾品を作るから」
まだ話している途中で遮られた。あからさまに話題を変えられてシュゼットは唇をかんだ。毒の入った菓子についてはシュゼットの意見など端から聞く気がないのだ。
「ドレス、沢山あるからいらないです!」
「婚約者が来るからね。見せつけるためにも、相応しいドレスを用意する」
「今でも沢山衣裳部屋に吊るしてあります。どれもこれもまだ一度も着ていないのにこれ以上はいりません」
シュゼットが受け取りを拒否すると、アンドリューは困ったように眉尻を下げた。
「寵姫に贈る首飾りがあるんだ。それに似合うドレスを用意したい」
「首飾り?」
首飾りと聞いて、記憶が刺激された。
どこかで聞いたことがあるような、ないような?
シュゼットは黙り込んだ。
「市井でも広まっているから知っているかもしれないね。寵姫の証と言われるものだよ。寵姫ができた時に寵姫だけに許された意匠で首飾りを作るんだ」
「あ! 思い出しました!」
シュゼットは寵姫の証、と聞いてようやくどこで聞いたのか思い出した。
「どこで聞いた?」
「占いのお婆です。わたし、寵姫になるだろうと予言されていてその時に水晶の中で見ました」
「占い? ああ、ミゲルが言っていたな」
眉根を寄せたがすぐにアンドリューは納得したようだ。
「わたし、寵姫の証をもらえるんですか?」
「もちろん」
「それは王太子妃に授けるものでは?」
「王太子妃には寵姫の証は渡さないよ。王太子妃には王太子妃の証がある」
とりあえず色々あることだけ理解した。
「あまり殺意を抱かせることはしてほしくないです。できれば、ずっと引きこもっていたい」
「寵姫としてのお披露目も兼ねて、エスコートしようと思っているけど」
エスコート、と言われて頭が真っ白になった。
「え?! 婚約者を押しのけてわたしをエスコートする気ですか?!」
「そのつもり」
「やめてください。わたしの繊細な心が壊れてしまいます」
修羅場しか思い浮かばない。情けない顔で訴えれば、そうだね、とアンドリューは頷いた。
「エスコートはやめてあげるから、茶会には出席してもらえるかな」
「……茶会ぐらいなら。でも二人きりというのはやめてください」
茶会もとても心配だが、夜会に出席よりましかと了承した。




