夢だけではお腹がいっぱいになりません
シュゼットはお腹を空かせて、固い寝台の上で丸くなっていた。自分に与えられた部屋は外の雪のせいで、いつも以上に寒い。
薪は自力で取ってきたのでまだ少し残っているが、それも心もとない量だ。できる限り節約するために、シュゼットは部屋にある寝台の上で毛布を体に巻いて暖を取っていた。
昨日ようやく手に入れた10日分の給料で買った食料をすべて持っていかれて、シュゼットはどんよりとしていた。
「シュゼット、入るわよ?」
同じ洗濯屋の仲間であるアリーが返事を待つことなく入ってきた。アリーは寝台の隅に丸くなっているシュゼットを見つけてため息をついた。頭まですっぽりと布の中に入っている。
アリーは同じ洗濯屋に雇われているシュゼットを何かと目にかけていた。シュゼットはわずか13歳で、この洗濯屋に雇われている人間の中で最年少だった。
3年前に洗濯屋で働いていた母親を亡くし、わずか10歳で洗濯屋で働くことになった。幼い頃から母親の手伝いをしていたが、手伝いではなく働き手の一人としているのだ。もちろん、小さいから、幼いからという甘えはない。
アリーも12歳で働き始めたので、洗濯屋の仕事の辛さはよくわかっていた。その時に助けてくれたのがシュゼットの母親だ。だから、こうしてシュゼットの様子を見ているのだ。シュゼットにとっては年の離れた面倒見のいいお姉さんだった。
そっとシュゼットの丸くなっている寝台に寄り、側に腰を下ろす。優しく頭だと思われるところを撫でた。嫌がっていないのはわかるが、顔も見せてくれないので心配になった。
アリーは優しく頭を撫でながら、声をかけた。
「まだいじけているの?」
「いじけているんじゃないわ。落ち込んでいるのよ」
「だから言ったじゃない。老婆には気を付けろって」
アリーはシュゼットが老婆に捕まり、食料をすべて奪われてしまったことに同情していた。
この洗濯屋では一日一度きちんと食事がついているが、大抵は貰った給料で食料を買うのだ。身寄りのない人間にはこの洗濯屋は非常にありがたい雇い主だった。
理不尽な暴力はなく、給料も少ないがちゃんと働きに合わせて支払われる。真冬の洗濯はとても辛い仕事だが、それでも屋根のある個室が与えられ、食事だって一度は食べられる。
一日一度は食事にありつけるが、やはり少ない。だから皆、働いたお金で食べ物を買う。
「だって、逃げようと思ったのに逃げられなかった」
「シュゼットは優しいからねぇ」
「優しくないわよ。ちゃんと逃げようとしたんだから」
むっとして言い返してくる。アリーはシュゼットがまだ元気だと内心でほっとしていた。老婆の噂は洗濯屋だけではなく、この辺り一帯では有名な話だ。
巻き上げられただけで大した占いであればまだいいのだが、『運命が動き出すだろう』と言われた人間が遅かれ早かれ消えていくのは事実だった。消えた人間がどうなったかは、誰も知らなかった。
消えてしまった人たちを探すとしても、皆余裕がない。気を配る程度で探すことは滅多になかった。
「ほら、これみんなから。同情による施しよ」
アリーは一度だけ小さくため息をつくと、務めて明るい声を出した。のそのそとシュゼットが布の中から出てくる。紫の綺麗な瞳がアリーの膝の上に釘付けになった。
「パンだ!」
「ふふ。聞いて驚きなさい! ふわふわの焼き立てよ!」
「ひゃああああ!」
シュゼットは満面の笑顔で歓喜の声を上げた。アリーはシュゼットの喜びににっこりと笑顔になる。
「ほら、お湯を入れてあげるからちゃんと椅子に座んなさい」
アリーは寝台から立ち上がると、手早く暖炉に火をつけた。
「暖炉ぐらい使ったらいいのに」
「だって、落ち込み過ぎて薪を拾いに行くのを忘れた」
アリーは部屋の作業台にある鍋に水を入れて沸かし始める。シュゼットは言われた通りに粗末な椅子に座った。テーブルの上から目が離せない。輝く焼き立てのパンをうっとりと見つめながら、お湯ができるのを待っていた。
「それで、おばばには何を言われたの?」
好奇心なのか、アリーが聞いてくる。シュゼットはアリーからお湯の入った椀を受け取り、顔をしかめた。
「お前は寵姫になるだろうって」
「はあ?」
突飛ない言葉が出てきてアリーが呆ける。アリーの驚きすぎた顔を見て、ため息をついた。
「水晶にね、素敵なドレスを着て、かっこいい男の人と踊る自分が映っていたの。そしてね、美味しいパンをたくさん食べて、お菓子だって食べ放題だって!」
「何、その水晶って」
「占いの道具みたいよ? なんか映っていた」
アリーは顔をしかめた。
「何かって……あまりおばばを信じたらだめよ。惑わすために変な薬を使うらしいから」
「薬の匂いはしなかったけど……あれってどういう仕掛けなんだろう?」
シュゼットは今更ながら首を傾げた。アリーは空いている椅子に腰を下ろして、しみじみとシュゼットを眺めた。
「それで、寵姫になれると本当に言われたの?」
「うん」
先ほどまで布の中に丸まっていたからなのか、銀色だと思われる髪はクシャクシャだ。手入れが苦手なのか、シュゼットの髪はいつだって絡まっている。洗濯屋なので週に一度、お湯に入ることを義務付けられているのだが、それでも絡まりすぎだ。
「シュゼットが寵姫ねぇ」
「そう。うっとりしちゃった。お菓子って美味しいんだろうなぁ。一度、食べてみたい」
「それで買い込んだ食料を持っていかれちゃったの?」
痛いところを突かれて、シュゼットの顔が歪む。アリーはため息をついた。シュゼットの話を総括すれば、ただ単に何かしらの手段で騙されてしまったのだ。
注意力がありそうで、どこか抜けているシュゼットなので、騙されることもあるだろうとは思っていた。予想通りと言えばその通りであるのだが、あまりにも単純に引っかかってしまって心配になる。
昨日は食料を盗られるだけだったからよかったが、人攫いに連れていかれて売られてしまうことも考えられる。治安のいい王都であっても、行き場のない吹き溜まりのようなこの地区では人攫いもないわけではない。
子供に言い聞かせるように滾々と説教をしてもいいのだが、本人がとても反省をしているのでこれ以上は言わないことにした。今回のことを教訓に、注意力を付けてもらえばそれでいいのだ。
「まあ、夢がないと生きていけないのは本当かもしれないけど」
「うううう、昨日沢山買ったからお腹いっぱい食べる予定だったのに。なんであの時、転んでしまったの」
「現実の空腹は夢だけでは収まらないわよね」
未来にたどり着くまで生きていかないといけない。特に最底辺で生きているため、現実は厳しいものだった。
「前途多難ね」
「でも、本当だったらいいな」
シュゼットはゆっくりと大切にパンを食べ始めた。
ふわふした綺麗なドレスを着て、温かくて美しい部屋で、お菓子やご馳走を沢山食べたい。
うっとりと夢見ていれば、力いっぱい頭を叩かれた。痛みに呻けば、いつの間にか、店の女将が部屋にいた。店の女将が手を腰に当て、呆れたような顔をして立っていた。
「どれだけ落ち込んでいるかと思って見に来れば、阿呆なことを夢見ているんじゃないよ」
「いいじゃない、夢ぐらい見たって。パンが食べたい! お菓子、食べたい!」
「はあ、もっとましな占いをしてもらえばよかったのに。国の寵姫だなんて、叶うわけがない。夢というよりも絶望だよ」
アリーも苦笑した。こんな底辺で生きているような人間が見るには遠すぎる夢なのだ。貴族に生まれたって願ってなれるものではない。それを底辺の人間が努力したところで、なれるはずがなかった。
「うぬぬ。わたしが寵姫になったら、絶対に謝らせてやる!」
「お前が寵姫になれたら、申し訳なかったと土下座してやるよ」
シュゼットがむっとして呟けば、女将が豪快に笑った。
「大体、字も読めない、簡単な計算もできないようなお前が寵姫になれるもんか」
「そんなことないもん」
「それにこのくしゃくしゃになった髪! せめて毎朝、梳かすくらいしたらどうだい」
アリーはいつもと変わらないやり取りに、小さく笑った。
こうしていられる時間も少なくなっている。アリーは結婚が決まっており、ここを出て行く。できればシュゼットにも守ってくれる誰かを見つけてもらいたい。
「妹がこんな状態では心配で出て行けないわ」
「……」
シュゼットが固まった。不安そうにアリーを見つめてくる。アリーはふんわりと笑った。
「ねえ、シュゼット。手始めに自分の手入れから始めようね」
「アリーはわたしが心配でお嫁に行けなくなってしまう?」
「そうよ。可愛い妹にはいい人と巡り合ってもらいたいもの。それには誰かに好きになってもらわないと」
「えええ――」
寵姫になると言っていながら、おしゃれもしない。
この矛盾に笑いがこみあげてくる。シュゼットにしても夢というよりも笑い話で、努力する気もないようだ。
しかもパンとお菓子のことに目がくらんでいる。寵姫とはそういう存在ではないのに、シュゼットには贅沢に食事をすることしか思いつかないのだろう。
「ほら、今日はわたしがやってあげるから」
「アリー。あまり甘やかすんじゃない。この子がダメ人間になる」
「今日だけ。綺麗になった自分を見たら、やる気が出るかも」
女将は呆れたようにため息をついた。アリーは立ち上がり、パンを食べているシュゼットの後ろに立つ。ゆっくりとクシャクシャになった髪を指でほぐすように梳き始めた。
「ところで女将さんは何しに来たの? わたしに説教?」
「説教なんかでここまでくるもんか。仕事を頼みに来たんだよ」
「え?! 今日休みよ!」
シュゼットが驚いたように声を上げる。
「天気も悪いし、そのつもりだったんだけどねぇ。沢山の汚れたシーツを持ち込まれたんだよ。流石に明日一日ではできないからね」
「じゃあ、明日で」
「今日入れば、倍の賃金をやるよ」
にやりと女将が笑えば、シュゼットは両手を胸の前で神に祈るように握りしめた。
「もちろん喜んでさせてもらいます!」
「あはは。あんたは本当に単純だね。ついでに温かいスープもつけてやるよ」
シュゼットはご機嫌で残りのパンを平らげた。
単純なシュゼットにアリーはやれやれとため息をついた。