もう一人の側室
ヨランダ・カーチスはこの日を心待ちにしていた。嬉しさに緩む顔を何とか笑みの形にして、しずしずと案内された部屋へと進む。
恋焦がれた王太子の側室になるため、今日は一番美しく見えるドレスを身にまとった。宝石類もできる限り大きく似合うものを選んでいる。きっと恋が叶う女性の輝きと相まっていつも以上に輝いている。
女性騎士に案内された場所には国王夫妻と王太子であるアンドリューがいた。ヨランダは思わず笑みを浮かべてしまう。
付き添いで来ていたカーチス伯爵が大げさに奏上する。国王は無表情にそれを受け、頷いた。
「わかっていると思うが、王女が嫁いでくる3年後には貴族家に下げ渡す。嫌ならば今のうちに言うがいい」
「3年であっても王太子殿下のお役に立つのであれば、喜んでこの身を捧げましょう」
ヨランダは恭しく頭を下げた。アンドリューは特に表情を崩すことなく、ヨランダを熱のない目で見つめていた。それでも彼の目に映ったことにヨランダは喜びを感じていた。
いつもならば目に入ることもままならず、声をかけようにもさりげなく避けられていた。彼の視線を一身に浴びて、ヨランダは胸が高鳴った。
柔らかな茶色の髪は緩く波立ち、瞳は新緑のようにはっきりとした緑。
美貌で知られるヨランダは社交界の中心にいた。少し勝気な顔立ちをしているが、それも彼女の魅力だと言われている。そんなヨランダの感心を買おうと、沢山の令息がヨランダに近寄った。中には跡取りではないが侯爵家の子息もいたのだが、ヨランダはもっと上位の男と結婚したかった。
手を伸ばしては多方面から吟味して、相手を選んでいる最中に出会ったのが王太子であるアンドリューだ。
アンドリューは王族特有の美しさがあり、他を従える力を持っていた。それは次代の国王の資質であり、ヨランダも彼の隣に侍りたいと初めて挨拶をした時から望んでいた。
だが、ヨランダがアンドリューと顔を合わせた時にはすでに彼には同盟国の王女と婚約をしており、とても近寄ることができない。
「ではこれから3年間、良く務めるように」
国王がヨランダの返答に対して、そう締めくくった。お互いに書類に著名される。ヨランダは内容を知っていたが、3年のうちに子供さえ作ってしまえば、優しいアンドリューが臣下に下げ渡すことはないと考えていた。だから、この3年で一番愛される側室になるつもりだ。
「では、後宮に案内してくれ」
アンドリューは扉の側にいる騎士と侍女に指示をした。ヨランダは衝撃を受けたように目を見開いた。
「あの、一緒に後宮へ行ってくれるのではないのですか?」
「残念ながら、これから公務がある」
アンドリューは宥めるような笑みを浮かべ、そう説明した。ヨランダは公務と聞いて、これ以上のことは言ってはいけないのだとぐっと唇をかみしめた。だがこのまま別れてしまうのも、気が済まない。せめて何か……。ヨランダは辛そうな顔でアンドリューをひたりと見つめた。
「あの、今夜、お部屋でお待ちしております……」
アンドリューはそれに対して特に返事はしなかった。ただ頷いただけだ。ヨランダは自分の強請るよう仕草に全く靡かなかったことに落胆したが、これ以上言い寄っても煙たがられるだけだと理解していた。一度に押してしまうのは男女の駆け引きでは悪手だ。
謁見の部屋から出て、後宮へと案内される。後宮は5人ほど入れるようになっており、すでに第1側室であるシュゼット・ウィアンズ侯爵令嬢はすでに後宮に入っていると説明された。聞いていなかった情報にヨランダは眉を寄せる。
「いつからなの?」
高圧的に後ろをついてくる侍女に尋ねれば、侍女は素直に答えた。
「一週間ほど前でございます」
「そう」
ぎりっと唇をかみしめる。何とか感情を抑え込んだ。そもそもウィアンズ侯爵令嬢が後宮に入る権利を持っていたから、ヨランダにも後宮に入る機会が巡ってきたのだ。やや強引と思われるやり方ではあったが、カーチス伯爵はさらなる地位を求めて金をばらまいていた。カーチス伯爵は権力を、ヨランダはアンドリューの寵を求めており、父娘の利害が一致した結果だ。
「ウィアンズ侯爵令嬢にご挨拶した方がいいかしら?」
「……あとで伺っておきます。今日は無理かと」
「あらどうして?」
何かを隠そうとしているのを敏感に感じ取って、ヨランダは侍女に聞き返した。侍女は言いにくそうに顔を伏せた。
「ねえ、教えて?」
「シュゼット様はその、王太子殿下への夜のお勤めで……昼過ぎまで起きてきませんので」
ヨランダは手に持っていた扇をぎゅっと握りしめた。きしむ音に侍女が顔色を変える。
「それはいつからなの?」
「後宮に入られた夜からでございます」
侍女の答えにヨランダは怒鳴りつけたくなった。一週間も先に入ったのも業腹であったが、その差のついた時間のうちにアンドリューが取り込まれていた。これは予定外のことで、ヨランダは到底許せない。
どうしようかと悩み始める前に、騎士が足を止めた。
「こちらがお部屋になります。常に女騎士が護衛につきます。ご用は侍女へ申しつけください」
かちりとした挨拶をして、騎士は部屋の外へと控えた。一緒に来た侍女はそのままお茶の用意をする。ヨランダは部屋の中央にある長椅子に腰を下ろした。
「何か御用はありますか?」
「そうね。早いうちに殿下をお迎えする準備をしたいわ」
「わかりました。それでは午後の3時に支度にお伺いいたします」
恭しくお辞儀をして侍女は退出した。一人残されたヨランダは大きく息を吐いて、持っていた扇を床に投げつけた。壊れはしなかったがそれなりに大きな音が鳴る。
いつもなら八つ当たりをしても、慣れた侍女が後始末をしてくれるのだが、今日からは一人だ。侍女を誰も連れてこれなかったため、ヨランダはイライラした。
ここまで来られたのだ。あとはヨランダがどれだけアンドリューの心を掴めるかにかかっている。先に入ったからという理由で遠慮するつもりはなかった。
「何が何でもアンドリュー様をこちらに引き込まなければ」
ヨランダは立ち上がると家から持ってきたお茶類を探した。この中の一部に媚薬に近い効果のあるお茶を淹れてあるのだ。それを今夜やってきたアンドリューに飲ませ、さっさと体の関係を作ってしまうつもりだ。
一度でも体を繋げば、アンドリューだって男だ。きっとウィアンズ侯爵令嬢よりも気に入るはずだ。ヨランダは自分の体が男にとってどう見られているのか、熟知していた。
大きく張り出した胸と丸みのある形の良い尻、キュッとしまった腰。
誰にも最後までは許していなかったが、疑似的な行為は何度もしている。夢中になる男たちを思い、アンドリューも同じく虜にできるとほくそ笑んだ。
ヨランダはお茶の箱をいくつか確認して、ようやくお目当てのものを見つけた。それが入ったお茶の箱をわかるように分けておく。
持ってきた荷物を確認し、今夜着る官能的なドレスを選んだ。ヨランダの体形が浮かび上がる意匠のドレスだ。
時間になり侍女が3人やってきた。3人は黙ってヨランダを磨き上げる。すべての支度が整い、ヨランダはアンドリューを待つばかりになった。
******
結局、アンドリューはその夜、やってこなかった。
いつ訪れがあってもいいように、ずっと起きて待っていた。絶対に来ると強く自分に言い聞かせていたのだが、そんな強い気持ちも砕け散りそうだ。
まさか後宮に入った初日に、アンドリューの訪れがないなんて信じられない。
疑問、悔しさ、怒りと様々な思いが体の中を渦巻いて体が震えた。震える体を抱きしめて、まだ夜は空けないと自分自身を慰める。
窓から日が差し、夜が明ける。
じっと寝台に腰を掛けていると、ようやく扉が開く音がした。微かな音だったがヨランダの耳はきちんと拾っていた。慌てて立ち上がり、扉を開けるとそこには待ち焦がれていた人がいた。
突然開いた扉にアンドリューは驚いた顔をする。だがすぐにその驚きは綺麗な笑みで消された。
ヨランダはできる限り、庇護欲をそそりそうな悲しそうな目をして見せた。
「ああ、殿下、ようやく来てくださった―――」
「こんな時間にすまない。一言だけ言いたくて寄ったんだ」
「え?」
そっと寄り添おうとしたヨランダはさりげなく避けられた。アンドリューを上から下まで目を向けた。髪は乱れ、シャツの裾もだらしなく出ていた。ボタンも真ん中の二つしか止まっていない。今起きて、シャツを引っかけてきたという出で立ち。アンドリューは夜の名残の淫靡さを纏ったまま、気だるげに乱れて額にかかる髪をかき上げた。
「私はシュゼットを昔から気に入っているんだ。カーチス伯爵が無理やり君を押し込んできたから仕方がなく側室にしたけど、寵姫はシュゼットだ。あまり期待しないでくれ。3年間、大人しくしていたらそれなりの降嫁先を考えている」
「アンドリュー殿下?」
ヨランダの声が震えた。信じられない思いで彼を見つめた。どうしても手に入れたかった彼はとても冷ややかな目で彼女を見据えていた。
「それからシュゼットを傷つけることは許さない。後宮に残りたかったら大人しくしておくことだ。言いたいことはそれだけだ」
アンドリューは言いたいことを言って、ヨランダには何も言わせずに去っていった。
ヨランダは閉ざされた扉を見つめ茫然と立っていた。