王太子の要望
アンドリューはしばらく何かを考えていたが、すぐに何を考えているかわからない顔になる。シュゼットは貴族のこういう仮面のような表情が嫌いだった。
考えていることがわからないし、一体何を言われるのか全く想像がつかないからだ。ミレディなどに聞けば、自分が想像している最悪なことを考えているのよと言われたが、もしそうであるならば恐ろしいことだ。
他人が考えていることを想像して駆け引きをすることができないシュゼットはもうすでに疲れていた。
「ミゲルは他に何を言っていた?」
「……アンドリュー殿下がわたしが使えないと言うのであれば、帰っておいでと」
「なるほど。駆け引きをしない方が得策という事か」
なんだか嫌な言葉を聞いた気がした。アンドリューは間を作るためか、お茶の入ったカップを手に取り、話題を変えた。話題が変わったことにシュゼットはついつい耳を傾ける。
「知っていると思うけど、私の婚約者は同盟国の王女なんだ」
「聞いています。それ以上の情報はいりません」
きっぱりと断りを入れてみる。アンドリューは口角を少し上げて薄く笑みを浮かべたが、すぐに元の顔になる。
「政略結婚だけど、私としては彼女を大切にしたいんだ」
「素敵です。ではわたしは側室を速やかに辞させて……」
アンドリューとのやり取りだけで疲れてしまったシュゼットは側室は無理だと判断した。やはり底辺だった人間が王族の側に侍るなど無理なのだ。
何かあれば帰ってきてもよいと言ってくれている人たちだ。一日で戻っても、怒りはしないだろう。
「先ほど署名したからね。今すぐは無理かな?」
「何とかしてください」
真顔で頼むが、アンドリューは首を傾げるばかりだ。
「王女はまだ13歳で、こちらに嫁いでくるまで3年ある。予定外なことに側室を持ってしまったけど、他の女性との間に子供を作るわけにはいかないんだ」
「……?」
理解ができずにシュゼットは黙り込んだ。すっとアンドリューの笑顔が消えた。感情が消えた彼の顔は整いすぎていて冷たい雰囲気がある。淡々として口調でアンドリューは続けた。
「順序的には王女が二人ほど王子を生んだ後なら、側室に子供ができても問題はないと思う。ただし、側室の産んだ子供はすぐに養子に出されて、臣籍に入れる」
「その場合、手元では子供を育てられないと言うことですか?」
「そうなるかな。そもそも正妃が嫁いでくる前に側室を作ること自体があり得ないんだよ。継承権問題で国を荒らすわけにはいかないのだから」
貴族令嬢としての知識が乏しいシュゼットでも、後継者問題は国を衰退させると言うことはすぐにわかった。やはり逃げることは出来そうにないとため息を落とす。
「もし……わたしが側室を断ったらどうなっていたのですか?」
「聞きたい?」
「そう言われてしまうと微妙です」
絶対にもう一人の側室が必要であれば、選択肢は限られていることに気が付いた。シュゼットの考えを読んだのか、アンドリューが意地の悪い笑みを浮かべた。
「君が断ったら、ミレディを引っ張り出すつもりだった」
「そんな! お義姉さまは王太子殿下の婚約者候補であったからあのような足になってしまわれたのに!」
「でも今は歩けているだろう?」
さらっと言われて、シュゼットは黙った。だらだらと嫌な汗が出る。
「王家の密偵を甘く見てはいけないよ。大抵のことは調べられる」
「……そうですか」
シュゼットは余計なことは言うまいと、口をつぐんだ。もう今の段階でどうにもならないところまで追い込まれていた。貴族的な駆け引きなど無理だと思っていたが、やっぱり無理だったのだ。でも家に帰ると言ってしまえば、ミレディが幸せになれない。
アンドリューがカップを置く音がした。はっとして顔を上げれば、彼は体を乗り出して、シュゼットの手を握りしめた。手を引き抜こうと思ったが、それはしてはいけないと衝動を抑えた。
「君にお願いがあるんだ」
「……断っていいですか?」
「いいよ。だけど、断ってもそう見えるようにするだけだ」
「なんですか、それは」
笑顔で言い切られて、恐ろしい。シュゼットは手だけを彼に預けて体を少しだけ後ろに引いた。もうどうなってもいい。逃げたかった。
「いくらでも情報操作などできるということだよ」
「それは……怖いです」
「そう思うだろう? 私に協力してきちんと守られている方がいいと思わないか?」
「守られる? そんなに大変なこと?」
思わぬ言葉にぎょっとすれば、くすくすとアンドリューは笑った。
「二人しかいなくとも、ここは後宮だ。女性同士の争いはどうしても発生する。特にヨランダ・カーチスの性格を考えれば、何もしないなんてありえない」
「嫌味とか、足を引っかけらえるとかなら全然平気です」
「そんな悪戯ではすまないよ。暗殺者を送り込むとか、動物の死体を送ってくるとか。短刀の刃を送りつけてくるかもしれない」
嫌に具体的な内容にシュゼットはくらくらしてきた。
「何故そんなにも具体的?」
「過去にあったからね。ちなみにミレディも私の婚約者候補だった時に受けていたと思うよ」
どうして侯爵家の人たちが反対したのかようやく理解した。
やはり住んでいる世界が違う。
泣きたい気持ちでアンドリューを見つめた。縋るような視線を向けられて、アンドリューはどこか楽しそうだ。
「あの、後宮に捨て置くという選択肢は? わたし、余計なことは絶対にしませんから、放っておいてほしいです」
「放っておくことはできないな。その代わり、君の要望は叶えるよ」
要望を叶えると聞いて、シュゼットは希望を見出した。そんなにひどい人ではないと内心ほっと息をつく。
「要望……家に帰してください」
「私に協力したら帰してあげるよ」
シュゼットは黙った。がっくりと力が抜けてしまう。
「シュゼットは駆け引きが苦手?」
「無理です」
泣きそうな顔で即答したシュゼットにアンドリューが少し不思議そうに瞬いた。どうやらそのあたりから認識に誤解があるようだ。
「じゃあどうして側室になることを了承したんだい?」
「侯爵家に迷惑をかけたくなかっただけ。それに王太子様の側室ならば捨て置かれていても、くいっぱぐれることがないし、将来安泰かなと」
「くいっぱぐれる……基準はそこか?」
驚きに目を丸くする彼にシュゼットはため息をついた。
「重要ですよ。お腹がすくと何もかもが嫌になります」
「貴女は本当に可愛いね」
「……褒められているような気がしません」
「褒めているよ」
何故か宥めるように手を撫でられた。その撫で方に体が跳ねる。背中がぞわぞわとしたのだ。恥ずかしいような、怖いような変な気分だ。
「私のこと、少しは意識してくれた?」
「いえいえいえいえいえ、気のせいです」
「慣れてもらわないと困るな」
何が困るのか、理解できなかった。呆けたような顔をすると、アンドリューが立ち上がった。茫然と彼の動きを目で追えば、彼はシュゼットの隣に座った。距離がぐっと縮まり、彼の存在を全身で意識する。
体を強張らせたシュゼットをアンドリューは遠慮なく抱き寄せた。
「これぐらいまでは慣れてほしい。寵姫になるからキスもね」
「え?! 寵姫!」
「うん。私はヨランダ・カーチスに少しも寵を与えるつもりはないから」
耳元で囁かれて、シュゼットは目だけでアンドリューを探る。
「心配しなくても、君には専属の護衛を付ける。君はここで笑って過ごせばいい」
だから大人しく寵姫をしていて。
そう囁かれて。
シュゼットは放心してしまった。
寵姫というのはキラキラした世界の人物で。
世の中のすべての幸せを手にしていると思っていた。
水晶の中に見た寵姫も誰よりもキラキラして輝いていた。
綺麗なドレスを着て、美味しいものを食べて、素敵な王子様に愛の言葉を囁かれて。
それがどうだ。現実の寵姫は綺麗なだけではなかった。後宮に入る意味をきちんと理解していなかったことを後悔した。
命の危険をひしひしと感じた瞬間だった。




