動き出す運命
「寒い」
シュゼットはようやく手に入れた食べ物を抱え、ほうっと息を吐いた。今日は雪でも降りそうな曇天で、昼間だというのに空は冷たい灰色をしている。
息も吐けば白く、手持ちの服を何枚も重ねても大して温かくないシュゼットの服では寒さが身に染みた。薄着に慣れているとはいえ、今日の気温は体を芯から冷やした。
急いで与えられている部屋に帰ろうと、どうしても足が速くなる。
「そこのお嬢さん」
しゃがれ声で呼び止められた。シュゼットは気にせずどんどんと歩く。
「ちょっとお待ちよ、そこのお嬢さん」
「急いでいるの。他の人を引っかけてちょうだい」
シュゼットはちらりと後ろからついてくる黒の外套を纏った老婆を見て、そう言い放った。ここで足を止めたらだめだと瞬時に悟ったのだ。シュゼットは振り切る思いで、足をさらに速めた。
「きゃああ」
石畳の道が凍っていたのか、足を速めた途端足が滑ってしまった。無様にも勢いよく転んでしまう。大事に持っていた食料が派手に道に散らばった。
「あああ! わたしのパンが!」
慌てて立ち上がって、道にぶちまけてしまった食料をかき集めた。
「ほうほう。なかなかいいものを持っているじゃないかい。この哀れなおばばにも分けてもらえんかのぅ」
「どこが哀れなのよ! もっと羽振りのいい奴にたかりなさいよ!」
シュゼットはむかっとして老婆に怒鳴った。この老婆、この辺りでは有名なたかりなのだ。捕まったが最後、持っているものを毟り取られる。シュゼットはそんな忠告を嫌というほど聞いていた。平民の中でも底辺であるシュゼットには他人に分け与えるだけの余裕はないのだ。
「話を聞いて、気分がよくなったらちょっと分けてもらったらいいんじゃが」
「話? いらない。今はすぐに家に帰りたい。寒いのよ」
「ほらほら、短気は損気というじゃろう?」
「知らないわよ」
シュゼットは食料を紙袋に入れなおすと、おもむろに手を突っ込んだ。適当に掴んだものを老婆に差し出す。
「わたしのなけなしの給料で買ったものだから、大したものじゃないわよ」
不機嫌そうにしながらも、老婆に差し出したのは固いパン。シュゼットが買えるのはこうして古くなった固いパンだけだ。かちかちになったパンを見て老婆は目を細めた。
「おや、何も聞かずにくれるのかい?」
「寒いから早く帰りたいと言っているの! 聞いている暇なんてないのよ」
立ち止まってしまったせいで、体が冷え始めていた。靴底の薄い靴は立ち止まっていると冷気が上がってくる。
「では、ありがたく」
「じゃあね。おばばもあまり変な奴にたかると、殺されちゃうわよ」
「忙しい娘だのう。少し待てんかの」
老婆は走り出そうとしたシュゼットを引き留めた。シュゼットはまだ何かあるのかと、眉根を寄せている。それでも足を止めてしまうところが他の人と違って優しいのだが、シュゼットは気がつかない。老婆は変な息を吐きながら笑った。
「お礼に占いをしてやろう」
「はあ? 占いなんて何の足しにもならないでしょう?」
「希望は生きる力さね。時間はかからないよ。ちょいとこれに触ってくれたらいい」
そう言って老婆は懐から透明な石を取り出した。手のひら大の大きめの石だ。表面はつるりとしているが、形がいびつだった。
「ナニコレ?」
「見てわかるだろう? 水晶だよ」
「……占いに使う水晶は真ん丸だって聞いたけど」
シュゼットは老婆に胡乱な目を向ける。
「真ん丸でないと占いができないなんて三流なのさ」
「当たらなそうなんで辞退します」
シュゼットはこれ以上会話したらダメだと、無理やり話を切った。シュゼットは再び歩きだそうとしたのだが、しっかりと手に水晶を握らされた。
「ほい、おしまいじゃ」
「いつの間に……!」
愕然とすれば、老婆はひょうひょうと笑う。
「おや、なかなかいい運命を持っているね」
「へー、そうなんだ。お願い、手短に」
とりあえず老婆の気が済めばいいのだろうと諦めたのか、シュゼットは急かした。
「お前はいずれ寵姫になるだろう」
「はあ?」
予想外のことを言われて、シュゼットは目を丸くした。老婆はじっと水晶を見つめている。シュゼットは恐る恐るその水晶を覗き込んだ。
「う、わあ!」
驚きに目を見張った。水晶の中には見たこともない素敵なドレスを着た女性が美しい笑みを浮かべて、王冠を被った男性と踊っている。とても幸せそうな笑みに思わず見入ってしまった。
「お前も見えるだろう? 彼女は寵姫の証を付けている」
「寵姫の証?」
知らない言葉に問い返した。老婆はさも当たり前のように答えた。
「ほら、女の胸元を見てみるがいい。あの首飾りが寵姫である証だ」
「ふうん?」
シュゼットは目を凝らして、女の胸元を見る。物を知らないシュゼットの目にも細かな細工の首飾りは素敵に見えた。その上、ふんだんにキラキラした石がちりばめられ、中央には大きな赤い石が嵌められている。老婆の言うように寵姫の証と言われてしまえばそんな気もする。
「女の顔もよく見て見ろ。お前の顔だろう?」
「そうかしら? 髪の色が同じなだけじゃないの?」
シュゼットは手入れをしていない自分の髪にそっと触れてみた。水晶にいる女は綺麗な銀髪に紫の瞳をしている。美しく整えられた髪は緩く結い上げられ、彼女の銀髪によく似あう髪飾りが挿してあった。
残念なことに、シュゼットの知識では綺麗な石がどんな宝石であるかまではわからない。本当にまだ底辺ながらも幸せだった幼い頃、母親が大切にしていたキラキラした石によく似ていた。
「寵姫って美味しいもの食べられるのかな……」
「当然だとも。腹いっぱい柔らかいパンや食べたことのない珍しい菓子など、好きな時に好きなだけ食べられる」
「お菓子かぁ。どんなものだろう。美味しいんだろうな。食べてみたい」
ぼんやりと水晶の中の女性を見つめて、ため息を漏らした。シュゼットはすっかり目の前の美しい光景に見入っていた。
温かい場所で楽しいおしゃべりをしながらお菓子を食べる。お菓子というものがどんな味をしているのか知らないが、きっととても高級で美味しいものに違いない。
寵姫になればそれが叶えらえる。寵姫がどんなものかわかっていなかったが、シュゼットは非常に心惹かれた。
想像してうっとりとしていると、老婆の声がした。
「機会があれば上を目指すがいい。今日を境に運命が動き出すだろう」
はっとして顔を上げた。見入ってしまったのはどれぐらいの時間だったろうか。短いような気もしたが、踊っていた二人を見つめていたのだから、長い時間のようにも思える。
「予想外にいい運命だったのぉ。追加でこれは頂いていくさね」
気がつけば、老婆の姿はすでにない。手に持っていた食料も消えていた。シュゼットは茫然として立ち尽くした。ちらりちらりと白いものが空から落ちてくる。冷たいものが頬に触れて、ようやくシュゼットは我に返った。
「その台詞は聞いたら駄目だって言われていたわ――!」
老婆の告げた『運命が動き出すだろう』という台詞。これを聞いた人間は知らないうちに消えていく。
それがまことしやかに囁かれていた噂だった。