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プロローグ
私がまだ小さかったころ。三歳ほどの、物心がついたころ。
母は私を膝に乗せ、ゆっくりと頭を撫でながら。或いは優しく抱きしめながら、よくこう言っていた。
「あなたはママの宝物」
その時の母の顔は覚えていない。というより、見たことがない。母は対面式で私を膝に乗せることはなかったからだ。
さすれば、必然的に私の視界に入るのは、テレビだとか、食器棚だとか、玄関へ続く扉だとか、雑多なリビングの中の限られたものだけだった。
私の顔の見えない中、母はとてもやさしい声で、幸せそうに、何度も何度も言うのだ。あなたはママの宝物。
一般家庭の幸せなワンシーン。思い返す度にそう感じる。
幸せだった。私は何も知らず、わからず、ただその家庭に居たのだ。生涯で一番、幸せな日々。
そう思うほどには、ただただ、幸せだった。
そしてその十年後、私は初めて手首を切った。自らの手で、自らの手首を、かみそりで、切った。