エピローグ
皇帝の崩御と第2軍団長の失踪。3大強国の中で勝ち残ったと言っていい帝国もまた、それによって血なまぐさい状況に追い込まれていた。
帝国はラズリ4世に代わり、新たな皇帝を打ち立てたが……新皇帝は毒にも薬にもならないような者であり、各軍団長が操るために玉座へと座らせたようにしか見えなかった。
そうなれば元より北が根城の軍団長が有利であり、南に進軍していた軍団長の不仲は加速していった。
「帝国も北と南で分かれるのかね? ディアモンテと講話して、ペリドントの首都が何故か無くなった……平和になったのはほんの一瞬だったな。残らなくて良かったのかライザ?」
顔に傷のある男……傭兵タンザノはかたわらの美しいと言っていい女傭兵に声を投げた。万事強かなライザは少しだけつまらなそうに返す。
帝国の首都を一望できる小高い山の上で、一時過ごした街を眺めて感傷に浸っている。
「唯一生き残った強国で成り上がるなんて、幾ら生命があっても足りないわ。特に第2軍団長みたいな魔族との融合体みたいな技術があるんじゃ……近寄りたくもないわ」
「ホエスは残るんだってな。すげぇ複雑そうな顔してたが」
「こっちで正式に大学の学徒に成れそうな見込みがあるらしいからね。無学者には何が良いのかは分からないけど……素直に応援しておきましょ」
彼らはしばらくは世間を離れる決意をしていた。先の戦争での裏側をほんの僅かだけ知る者でも、生命あっての物種という真っ当な思考である。
「クィネは……どうなったんだろうな……」
「生きてはいない……と考えた方が無難でしょうね。塔国への遠征軍は首都を壊滅させた代わりに被害は甚大だったって発表だしね……」
沈黙が2人の間を流れる。
一時的に彼らの仲間だった奇妙な男。2人はいずれまた戦場に戻って金を稼ぐだろうが、あれほど存在感のある男は二度と現れまい。
「出世して、死んだんじゃ世話ねぇな……まぁでも将軍まで行きゃ悔いはねぇのかも知れねぇな」
きっと折に触れてあの褐色の男を思い出すだろう。
クィネという傭兵がいて、あり得ないほどの強さを誇っていたと口を滑らすこともある。
これが戦中に現れた、多大な功績を打ち立てて忽然と姿を消した将の人となりを示す記録となった。
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かつてペリドント塔国と呼ばれていた廃墟に彼らはまだいた。フードで姿を隠し、生き残った住人達を陰ながら支援していた。
己の仲間を倒したという衝撃から未だにここに残っていたのだ。だがそれも終わる。
「計画通りの展開ではあったけれどー、後味は悪いわねー」
いつもの間延びした口調で大魔女は言う。
なにせ仲間を世界そのものから追放したのだ。それも相手が殺された方がマシだと思う人物だと知っていながら。だからこそサリデナールの内心は酷く傷ついていた。
「なぜですか……もう一度4人でやり直せる機会だったのに……」
墜落の聖女もまた嘆きの縁に変わらず立っている。
計画を知らされていないオニキスにはこの事態は完全に予想外だった。きっとかつての仲間が再び揃い、輝ける明日へと戻るのだと信じていた。
異形の勇者はその手を優しく握った。
「セイフにも言ったけど、そんな機会はもう無かったんだよ。生が一度きりだからこそ人間は全力を尽くす。かつて僕たちが魔王に立ち向かえたのも、それが元だったはずだ」
「そんな……ではっ、では私がしてきたことは……」
「僕も力を貸す。できるだけ多くを償い、己を全うするんだ。誰に石を投げつけられようとも……君はどうする、サリデナール?」
大魔女は肩をすくめて、豊満な胸を揺らした。
「……似たようなものねー。私は世界中にある魔族を利用した秘儀を潰していくわ。それがある限り、魔王があちらから来るどころか、こちらから呼び寄せかねないから」
「サリデナール様!準備ができましたよ!」
息を切らせて少年騎士が駆け寄ってくる。それを優しく抱きとめて、大魔女は力強く笑った。
「また会えるかは分からないけど、次はもっと落ち着いている時にしましょう? 二人とも幸せになっても良いと思うわよー?」
/
どこまでも落ちていく。
表裏一体の魔なる世界へと落ちるというのもおかしな話だった。文字通りの世界であるとするならば、立ち位置をめくり返すように一瞬でそこへと到達する方が自然だろう。
闇の波紋が幾重にも重なる世界で、折れた曲刀を手にクィネは落ち続けていた。
時間の感覚も曖昧であった。丸一昼夜落ちている気もすれば、瞬きほどの時間のような気もしている。あるいは既に年単位で経過しているのかもしれなかった。
分かっていることは少ない。
己が憎んだ曖昧さに撃退されたという事実と、このままでは危険だという実感だ。無意識に手を上げれば、うっすらと向こう側の闇が見えていた。
それは瓦解の兆しだと、クィネには思えた。
思えば人魔戦争は“あちら側”から“こちら側”への侵略戦争だった。逆にこちら側……人の世界から魔の世界へと行った人間を聞いたこともない。
その可能性を考えていた人は少なくないだろうが、試そうとは思わなかったのだろう。あるいは試して戻ってこれなかったか。どちらにせよクィネには分からない。
「ああ……」
呻きがもれる。クィネは戦士であり、戦いを縁として地上と結びついてきた。ゆえにこうした何もできずに待つだけの時間こそが彼を腐らせていく。
その度に体は崩壊を早めていく。
それがなぜなのか朧気に理解はしているが、既に長くここにい過ぎた。最早独力での復活は不可能だった。敗北の果てにある惨めで孤独な最後……己が今まで振りまいてきたモノが返ってきたのだ。
『……ィネ』
そんな哀れな落とし子の耳に声が届く。
耳慣れた声は既に懐かしくさえ感じる。だが、元の人間の肉体へと戻った五感でも聞き逃すことは無い。
『……ィネ!』
そしてクィネは星を見つけた。
同じ外道を歩んできた同朋だが、その輝きはいささかも衰えていない。流れ星のように闇の世界を駆け下りてくる。
「クィネ!」
必死の顔で異形の腕を差し伸べている、その女の名をクィネは忘れてはいない――
「スフェーン……なぜ……」
その疑問には幾つもの疑問が込められていた。自由落下の如き姿勢のまま動けないクィネとは違い、スフェーンは男の元へと加速して来る。その姿も融合個体のままで、黒の外皮が無くなったクィネとは異なる。
だが、それよりも彼女はなぜ自分の元へと落ちてくるのだろう? スフェーンは塔国の戦いで離れた場所にいたはずで、聡い彼女ならば“穴”から退避するのもできたはずだった。
その疑問全てに答えるようにとうとう彼女は、己の勝者を抱きとめた。
「……ようやく追いつきました。我が勝者、クィネ」
「スフェーン、我が雇い主殿。貴方も罠にかけられたのか? それとも……」
「無粋ですね、単純に恩を返しに来ただけです。クィネ、あなたのお蔭で私達の願いは叶った。しかし、余韻に浸る暇もなかったですよ、全く……世話がかかる殿方です」
そう言うとスフェーンはクィネの存在を確かめるように、腕に少し力を込めた。
背丈ほどもある巨腕による抱擁は傍から見れば不気味この上ないが、クィネにとっては生まれて初めてのゆりかごのようである。
「迷惑を……いや、心配をかけた。俺はどれだけ落ちたのだ。それにこんなところまで来て、お前は戻れるのか?」
「表の世界で何日が経過しているかは分かりません。戻れる方法も知りはしません。ですが……この場を乗り切ることならできます。私は融合個体法の研究者であったのですよ?」
金と緑の星は、照れたように微笑んで見せた。
それは第2軍団長でも、魔将でもない、ただのスフェーンが見せる最後の笑みだった。
「魔族の世界は精神の世界。己を確固として描き、何もかもを心で行わなければなりません。ただ生きることすらも」
「ならば俺には無理だ……置いていけ、スフェーン。ここまで来てくれて感謝する」
「嫌です」
らしからぬ結論をはねつけて、スフェーンは解決策を提示する。
クィネに魔法を扱う素養はなく、融合個体であったときに後付された感覚があるのみだ。仮にその感覚を取り戻せても、消滅するまでに方法を習得する時間も残されてはいない。
この世界の狭間にあっては最強の剣聖も、大海へと落とされた雫に過ぎない。いずれ消え去るのみでむしろここまで保っただけで奇跡である。
「クィネ。融合個体になった時を覚えていますね」
「ああ……儀式を行い、己の中に入ってくる存在を屈服させて共存した」
「貴方は今、人間の魂だけの状態です。繋ぎ止める方法を知らないがため、取り込んでいた魔族の力も失われている。だから……これから私の存在座標を貴方に近づけます。そして私を食らうのです」
それは狂気的な結論だった。つまりは融合個体とさらに融合するということだ。
実験した記録さえない初の試みであり、仮に成功してもどうなるかも不明。
だが狭間にあっては表裏一体の存在を見つけることはできない。今ここにいるのは塔国から落ちた魔兵の素体しかおらず、遭遇する可能性は皆無だ。確かに方法はそれしかなかった。
「なぜ……? こんな俺を? 最早俺は敗北した身。お前の大願は成就され、そんなことをする価値は無いはずなのに……」
「決まっています」
透き通るような顔に浮かぶ笑み。
どこかで見たことのある、疑いなく信じられる澄んだ瞳だった。
「貴方を愛しています、クィネ。我が勝者。どれだけ落ちていても関係が無い……今度は私が貴方を助ける番なのです」
クィネは絶句する。
そんな思いを告げられたことは今までになく、この同志の思慕を今まで知ろうともしなかった。クィネの願いは敗れた。それは一人で戦っていたに等しいからだ。
「なるほど……俺の負けは必然だったか。ならばスフェーン、こんな俺だが恥を偲んで言う――共に生きて、このみっともない男と共に戦ってくれ」
「ええ。今度こそ二人で最後まで――」
/
かつてその地はペリドントと呼ばれていた。遠い昔には一国の首都であったとも。
一度完膚なきまでに滅び去り価値が無くなった場所。だからこそそこは以後、戦に巻き込まれることも少なく復興を遂げていた。
鳥が歌い、子どもたちが笑う。大戦を経た人間であるなら誰もが夢に見た光景がそこにあった。
この街には英雄たちの像が立ち並んでいた。
おとぎ話のような勇者達を象ったものであり、歴史書にも出てくる名前の像さえある。
そこに一つだけ名前の無い像があった。背が高く、細い男を象った石像。身の丈近い大曲刀を背負っている。名もなき像と呼ばれており、高名にならなった者たちを象徴しているのではないかとされている。
その像が突如として縦割りに裂けた。
まさに裂けている。不思議なことに像自体は物理的に壊れていないようで……そこから暗い穴が覗かれていた。
僅かな裂け目を掴むように指、ついで手が現れた。現実の生き物にはあり得ないような巨大さで、かつ硬質の金属のようなものでできている。
その時、この街から笑い声が消えた。
何か良くないことが起きることを、全ての人々が同時に感じ取ったのだ。
醜悪な手指は、奇妙な裂け目を強引にこじ開けていく。
それが石像の幅と同じくらいまで広がった時、一人の男が現れた。
背丈に近い豪腕を両腕に持つ、細長い体。金の髪と男とも女とも見える顔つき。
奇妙なことにそれ自体が狂気のような巨腕の先に、折れた曲刀を携えて……
この日より始まる戦いは後に、『人魔戦争』と呼ばれることになる。