最後の戦いへと
『スフェーン、眠れないの?』
穏やかな声が脳裏に響く。
それとは対照的に不吉な音色が魔将の腕から奏でられている。正当な持ち主を上回りかねない豪腕によって引かれることで、弓が悲鳴を上げている。調子が狂った弦楽器が奏でる音のように聞くものを不安に陥れる。
『スフェーンは元気ね。でも、髪が汚れてしまっているわ。さぁこっちへ……』
ええ、今すぐそこへ行きます。
優しい思い出が復讐への燃料へと変化していく。
貧民の生活などどこも似たり寄ったり。その程度の悲劇などそこら中に転がっている?
病の治療が成されるだけ、他の国よりもマシ?
分かっていますとも。だが、それがどうした。同じような悲劇が世界中に溢れていれば、私は納得して引き下がらなければならないのか? まぁそうかもしれませんね。だけど私はここまで来た。
『優しい子、可愛い子――』
姉はそんなこと望まない。知っている。
矢を向ける相手を間違っている? そうでしょうね。
私以上に姉様のことを知っている人間などいるはずもない。だから分かるのだ。復讐は何も生まないと、勝手に死者の弁を決めつける者も多いが、姉様は本気でそう言うはずだ。
「スフェーン、そんなことしないで」と――
有象無象の影がありとあらゆる反論が静止を投げかけて来る。最愛の姉が涙とともに訴えてくる。それらに対して答える言葉は一つだけ。「知ったことか」。
私は私の復讐を果たすためだけに来た。余人が何と言おうとも止まること無いと知れ。
弓は弓聖から奪った遺物、〈巨人の弓〉。
だが矢はかつての槍矢とは違い、この日のための特注品。もはや槍ですら無く恐ろしく柄の長い大剣に近い。
眼前には塔主の軍勢達が陣を強いているが、それには目もくれない。既に恐れるような相手ではないこと以上に、無色透明の壁という恨みの対象がいるのだ。目線はずっとそこに固定されている。
「さぁ、行きなさい」
隠すこと無く異形へと姿を変えている両腕の力を限界まで引き出して――スフェーンの矢が放たれた。
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矢は軍勢を飛び越えて、その壁に激突した。
着弾地点から波紋が広がり、そこに壁があったのだとようやく気付かされるような光景だった。住人全ての生命力で構成された恐るべき壁。
城壁すら穿つだろう〈巨人の弓〉の一撃を受けても、撓んだだけである。なにせ塔国が城壁以上の鉄壁として使っている障壁だ。石造りの城壁よりも柔らかい道理はない。
しかし、たわんだのを確認した第2軍団長、そして皇帝は微笑んだ。
たわむことが分かれば、これからの仕掛けが問題なく上手く行く。全てはあの日、至高の剣士を同士に迎え入れた日から始まっていた。
放たれた矢は衝撃で先端が砕けると、次の部位がぶつかるように出来ている。それは第2軍団長の私財をほとんど投じて、世の聖剣魔剣を分析して作った細心の付呪武器なのだ。
1つ目は単純な物理、そして次は炎を帯び、次に氷、次に次に――
ブロック式で構築された矢が次々と砕け、そして壁に激突していく。まるで達磨落としが横になったような矢だった。
そして最後の風の部位が衝突した瞬間、障壁のたわみは最高点に達した。壁がいかなる魔術をもってして編まれているか分からないから、全ての属性を叩き込んだのだ。
「ああ――私のクィネ。私の勝者よ」
そしてスフェーンが放った“矢”は一つではない。
壁の前に布陣していた塔国軍は、障壁の異常にどよめいて思わず振り返っている。“もうひとつの矢”からすれば、それは致命的な隙だった。
もし彼らが壁を信じ切って前を向いていれば、結果は変わったかも知れない。だがそうはならなかった。
黒い旋風が人と人の隙間を抜けるように、そして矢とほとんど変わらない速度で動いて行くのを塔国軍は気付かなかった。
黒い風は遥か空中へと飛び上がり、矢の最後の部位と同時に着弾点へと到達した。
「見事な矢だ。スフェーン。今、俺にもこの壁の流れがはっきりと見える」
そう。たわんだ時点で成功だったのだ。
クィネの目はそのたわみから壁の魔力の流れと継ぎ目をはっきりと感知していた。そして、そこに叩き込まれる斬魔の一閃。
火球を切り裂くのと同じ原理によって、不落の壁が剣によって切り裂かれていく。
塔主達の叫びを耳にした確信でスフェーンは恍惚となった。
「壁は魔術。再生するでしょうが……私の作品と私の勝者がそれを見逃すはずもない。ただの一瞬の穴、それによって我が故郷は崩壊するのです。さぁ……蹂躙の時間です」
宣言通り、斬魔の剣が振り下ろされるのと同時に塔国内部へと飛び込んでいく影達。
言うまでもなく、融合個体達だ。これから守る者のない内部で行われることも想像に難くない。
壁が崩れているのは一瞬。再び住人の生命力で再構築が行われるだろう。だが、それによって外の軍と内部は分断される。
「我々の勝利です」
ここに帝国軍の勝利は決まった。
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ここに帝国軍の勝利は定まった。
だが、俺個人となると話は完全に別である。
剣を振り終わり、自由落下へと移っていく最中に敵は現れた。この高さでである。そんなことが可能な者は、現時点で一人しか知らない。
「やはり来たか。顔馴染みの見知らぬ人」
その姿を隠していたローブは今回は無い。なぜかそれだけで彼が抱いた不退転の決意を理解したように思えた。見たままの異形。自分たちよりも遥かにおぞましい外見に、清らかさを秘めた融合個体。
「君は私が止める。そう言ったはずだ」
「何故か気に入らないが……約束に律儀なのは良いことだ。今度は名前を聞かせて貰えるのか?」
斬滅にも劣らぬ凄烈の一撃が向かってくる。それを大曲刀で受け止めると同時に、敵の声を聞いた。
「我が名はクレス。かつての友、優しきセイフを止める者だ」
「ああ――やはり知らぬ名だ!」
最強の戦士たちは空中で争いながら、塔国へと落ちていった。




