元聖女
「ディアモンテガ、帝国軍ト密約ヲ結ンダカ……」
ローブで顔を覆った男が、怪しげな設備が取り揃えられた室内で確認するように反芻した。魔王と化したクィネと同等の戦闘能力を見せつけた人物だった。
その声は未だにたどたどしいが、以前クィネと相対したときよりはマシになっている。自らの聖術で焼けた腕は治りきってはいないが、体は以前よりも馴染んできたように彼には思えている。
陽気な鼻歌が暗い部屋に響いてきた。それに向かって彼は痛ましげな目線を向ける。良くも悪くも嘘がつけない男だった。それはかつての剣聖も同じだったが、彼の優しさは悪く言えば上から目線、よく言えば慈愛の心から出たものだ。
「正確には王国の意志ではなく、一部地域の貴族達と話がついた。そういうことのようですね。ようやくセイフ達の目的があからさまになってきました。塔国……ですか。意外ではあります。あそこはセイフにとっては何の縁もない国であるはずなのに」
金の髪は瑞々しさを失い、目は落ち窪んでいる。元が美女であるため美しさが完全には失われていないのが、かえって今の彼女を不気味に見せている。
聖女という称号を持つ彼女は今や魔女の肩書の方が似合う顔つきとなっていた。
しかし、狂った試行錯誤が成功した聖女は上機嫌なままローブ姿の前に薬湯を置いた。聖女の顔を正面から見据えながら男は薬湯を手に持った。
黒紫の液体が湯気を発している。その臭いを人の彼は不快なものだと判断して、魔なる彼は安らぎを覚えている。相反する感想こそがこの薬が有益なものである証だった。
「誰カノタメニ……アイツハ、イツモソウイウヤツダ」
粘っこいタールのような液を一息に飲み干してから男はそう言った。そこには敬意と友情、そして哀れみが満ちていた。
戦うことしか知らない男が誰かのために動こうとした時、それは結局は罪悪として機能してしまう。最早セイフが全てを覚えていないことは察している。一瞬の邂逅だったとはいえ命を賭けて渡り合ったのだ。
例え全てを忘れてしまっても、その者の本質が変わるわけではない。ならばかつての剣聖が落ちる先は……
「そうですね。貴方が帰ってきたのです。セイフとサリデナールも揃えば、きっと何もかもが上手くいきます。ねぇクレス」
それが叶わないということは君が最も分かっているだろうに……
それを口にすることも出来ない己の愚かさをかつて勇者と呼ばれた男は笑った。
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それは恐るべき逆転の発想だった。
思いついた者はいたかもしれないが、実行に移したのは彼女……聖女オニキスただ一人あるのみ。その事実だけでどれほど彼女の狂気の度が知れる。
それは本来の融合個体化と何ら変わりのない術である。人魔戦争時代には肉体の結合という形で始まった技術。それをサフィーレ帝国とディアモンテ王国が、存在座標の一致する存在の憑依という形で実用化したのだ。
オニキスが行った施術はそのどれとも同じだが、どれとも違う。
聖女が願ったのはかつての絆の復活であり、勢力拡大のための戦力補充や質の向上ではないため、違いが出るのは当然だった。
サフィーレ帝国の融合個体は人間をベースとして、そこに魔を呼び降ろす。質、特に知能や忠誠心は高くなるものの一方で成功確率が低いという欠点があった。魔族という元から精神体に近い生き物を内界の争いで屈服させることが求められるためで、強制的に徴収した者では耐えられないことが多い。
ディアモンテ式は獣をベースとしている。戦闘能力に特化した暴威を生み出す方向性だ。獣の本能によって魔族の側の魂が発狂するという危険性が大きいが、そこを指揮官役を専門家と鍛えることで無理矢理に解決している。
そして……オニキス式。これは魔族をベースにして、人間の魂の器とする。いわば死者の復活であった。
魔族は世界の裏側に住んでいる異界の住人だ。魔王という世界の境界に穴を穿ち、維持する存在がいたからこそ人間側の世界に存在できていた。
ゆえに魔王が倒れたという一点で長きにわたる人魔戦争は終わりを告げたのだ。そして、魔族はその勢力をかつての一割程度しか残していない弱小勢力となった。
なぜ全て消えなかったか?それは人間をはじめとした世界の表側の動物と縁が深い存在であったり、長い時の間に交わった者がいたからだ。
そこにオニキスは目を付けた。
辺境に修道院を作り上げ、そこを実験施設とした。
そこで彼女はかつての罪を精算するために、数百倍の罪を積み上げたのだ。
残存した魔族を片端から捕らえて、腑分けして融合の秘技を試みた。優れた聖術と法術の使い手とはいえ、専門外であるオニキスの実験は失敗の連続であった。
オニキスもまたディアモンテ第一の勇者隊の一人。協力者がおらずとも、
何体の魔族が犠牲になっただろう?そして一体どれほどの人間の魂が魔族の内部で消滅していったのだろうか?
……どちらも瑣末事。
全ては輝かしきあの日常のために。
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そして、オニキスは成功した。
成功するまで続けたのだから、当然であった。仮に成功しなかった場合……聖女の手によって魔族は死に絶え、そしてそれでも止まらなかっただろう。ゆえにこれは天の差配とも言える。
勇者クレスと存在座標が一致する魔族を引き当てた時、支配権の奪い合いという勝負を気にする必要は全く無いのだ。
クレスはかつて魔王すら倒した勇者の中の勇者。例え魔将をベースとしても、魔王の配下ごときに存在力で負ける可能性など無い。
その確信の通りに、数少ない上位魔神の内に勇者は復活を果たした。
材料と復活対象どちらの同意も得ていない狂気が実を結んでしまったのだ。
「ええ、これできっと何もかもが元通りになりますよ」
欠けていたピースはただ一つだけ。そう考えたことが彼女の過ちだった。




