透明な壁
虫食いとなったディアモンテ防衛線を抜けて、とうとう王国内部に拠点を作ることにしたサフィーレ帝国。こうなれば兵士たちの戦意は否応なく高まっていく。なにせ強国の崩壊は人魔戦争時代にすら無かったことだ。選ばれた時代に生まれた者という意識が末端に至るまで行き渡っても不思議ではない。
……例えそれが怪物剣士の功績が大きいとしてもである。
優れた個ごと敵軍を蹂躙して回る“サフィーレの死神”の働きはディアモンテ王国攻略を年単位で早めたとさえ言われている。
その評判とは裏腹に、当のクィネの周囲には誰も擦り寄らない。
普通であれば英雄の周りには人が集まる。当人の人柄はそこに関係ないのだ。
だがクィネは違う。雰囲気や気質もあるが、それ以上に単純に強すぎた。格どころか次元の違う強さの持ち主は、蟻のように人間を捻ってしまえるだろう。何かの拍子に破裂する岩の上には立ちたくない……それは人が捨ててきたはずの野生における生存本能なのかもしれない。
そんなクィネにわざわざ近づいてくる者があった。その足音は静かで訓練の成果と言うよりは、単純にその人物の体が軽いからのようである。
柔らかそうな金髪に緑の宝石のごとき目。高位の将であることを示す証を軍服の上に飾り付けてはいるが、小柄な体が衣装の印象を裏切っている。
クィネの直接の雇い主であり同志でもある第2軍団長スフェーンであった。
「来たか、スフェーン。待ちわびたぞ……負傷はもう良いようだな?」
スフェーンは第3軍団長ハックマとの激闘で大きく肉体を損傷していた。
魔族の影をその身に宿す融合個体といえども、修復には大きな時間がかかるために帝都で養生の日々を送っていた。それももう終わったらしい。
敵の自爆により受けた火傷も欠損も全てが元通り。これだけ見ても融合個体の恐るべき活力が分かるというものだ。
「ええ。随分と休ませて貰いましたからね……クィネ、貴方は何か……変わりましたか?」
気遣わしげな口調であった。
クィネとスフェーンの関係は同志でくくるには些か込み入っていた。なにせ対外的にはクィネがスフェーンに付き従っているが、クィネの方が勝者なのである。そして、スフェーンはこの怪剣士に憧れとも思慕とも取れる感情を抱いている。
僅かな変化にも当然のようにも気付いた。
「奇妙な気分ではある。おそらくは融合個体化を使った影響だろうが……調子が悪いわけでもない。俺は何かが変わったのか? そもそも俺らしいということはどういう状態だ?」
それを言語化するならば不均衡とでも言うべきか。以前よりも安定している。更には強力となっていることすらも見て取れるが、スフェーンには何か酷く危ういものが感じられたのだ。
しかし、口に出すことはついにできなかった。
「……まぁいいさ。お前が前に出てくるということはいよいよ塔国か? ディアモンテはどうするのだ?」
「陛下の体調が思わしくありません。前倒しで進めることになりますので、進路が開ければ後は放置になりますね。そのあたりの話も、もうしばらくでつくことになるでしょう」
外交で通行を認めさせる代わりに何かを提供するということだと、クィネも気付いた。それがディアモンテ全体に対する譲歩なのか、一部に対する配慮をするだけなのかは判断がつかない。
どちらにせよ命を賭けて戦う前線の兵にとっては悪い冗談ではある。表向きの国是である帝国による文化統一を信じ切っている者も少なくはないのだ。
「半分になっても、生き残りたいか……」
自分には分からないという顔をするクィネ。それにスフェーンは微妙な表情となる。
当の本人がまさにその半分だけなのだ。そして、以前見られたディアモンテに対する静かな感情が見られないのはどういうわけなのか。
皇帝が言っていたように、これが真にセイフがクィネとなることなのか?
その疑問に大して、質問が返ってくる。
「そろそろ聞かせてもらおうか、塔国とはどんな国だ?」
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用意された専用の幕舎で湯気が立つ薬茶を前にスフェーンはぼつぼつと語りだす。
塔国……人類の三大強国の残り一つであるこの国は、謎が多いことは既に述べた。
八つ当たりに近い形とはいえ、皇帝とスフェーンが憎んでもすぐには復讐の牙を向くことができなかった原因。“透明な壁”。それは如何なるモノで、そして中にはどのような国があるのか。
「かつて陛下が洩らしたように、私はあの国の出身です。最も貧しい生まれでしたから、国の風土についてはそれほどには知りません。なにせどの国も貧民など似たり寄ったりですからね」
ペリドント塔国については世間で言われている程度にしかスフェーンも知らない。6つの塔に囲まれた不落の都市国家。統べるはその塔主達。
勢力圏は勝手に臣従してきた国が少数あるだけであり、恐らくは3大強国の中では最も弱い国だ。
魔族との戦いにおいて、同盟諸国に派遣された軍が精強であったことがその名を知らしめる切っ掛けであった。そして人魔戦争が長く続くに連れて、その軍よりも堅牢な国家として知られた。
他のどの国とも違い、ペリドント塔国だけが陥落したことがないのである。
サフィーレ帝国とディアモンテ王国ですら一時期は首都を失っていた時代があった。一度失陥して取り戻したからこそ、より強く立ち上がったとさえ言われる。それを考えれば塔国は異常であった。
「そのあたりのことはむしろ……国を離れてから知ったことです。あの中でのことで覚えているのは、真っ白な街の中で薄汚れた区画と、細い細い姉の体のことだけでした」
貧民はどこも同じと言ったスフェーンであったが、思い返せば塔国には奇妙なところがあった。そして、それが透明な壁の原理だった。
「貧民なんて放っておけ。それが世の習いですが……塔国にはそこにだけ奇妙な風習がありました。衰えている者が貧民街に異常に多かったことと、多産が奨励されていたこと。そして誰かが死にそうになったときだけ、薄気味悪いローブ姿の神官達が現れて無言で治療を施していくんです」
それにも限界はあったのか、あくまで怪我によるものだけだったらしい。衰弱死や病気の場合には救いの手は無かった。
「半端に白さが残った街で、うずくまる人だけが毎年少しづつ増えていくのは酷く奇妙なことのように思えました。そして……とうとう」
虚弱なスフェーンの姉は倒れて、起き上がらなかった。
生まれつきの脆さには神官達も現れず、唯一の家族と別れることになったスフェーン。
「姉は優しい人でした。いつも黙って微笑みながら、こう……手を私の頬に触れてくるんです。私はそれが好きでした。そして、それだけが楽しみだったんです。姉がいなくなった後は途端に塔国の雰囲気が気味悪く感じられて、逃げ出すことを考えはじめました」
その時に塔国に張り巡らされている壁のことをスフェーンは初めて知った。
外への徹底した守りは内への柵でもあった。スフェーンはあらゆる場所を試したが、どこからも出られなくなった。
「どうしてああまで真剣に逃げようとしたのかは、今なら姉の死から逃れたかったのだと分かりますが……当時の私には謎でしたでしょうね。ともあれ、一箇所を除いてすべて試しましたが出ることは叶いませんでした。……その過程で姉が死んだ理由を知って、本気になったのですが」
その時、塔主の一人が留守にするということを使用人に化けていたスフェーンは知ることになった。時期を考えればかつてのラズリを捕らえるために動いたのだろう。
そして試していない一箇所……街を囲む主塔の上という場所を試す機会が訪れたのだった。
「結果は成功でした。塔主が出る時にだけ、あの街の結界は一部分が解除されるのです。それで私は塔国からの脱出に成功したんです。多分、史上初じゃないでしょうか?」
そして主塔から落ちて瀕死のスフェーンは軟禁中のラズリと出会い、復讐という目的を手に入れたのだった。
黙って聞いていたクィネは一つだけ聞く。
「その結界というのは……もしや」
「はい。首都に生きる者全ての生命力を吸い取って起動している巨大な魔法陣。それが塔国の正体です。それはあくまで平等に行われますが、特別な力も無く貧しい者達から死んでいくことになります」
どこであろうとも変わらない世界を加速させるための仕組み。
とはいえ、それで安全が保たれて来たのだから正義は塔主達にあるのだろう……
「ですが、私は気に入りません。姉を殺して動くものなど壊れてしまえばいい。それだけで私には十分なのですよ。……軽蔑しますか?」
「別に。お前にとって姉という存在が、国というものよりも遥かに重いというだけのことだ」
正誤の天秤なぞどうでもいい。それが復讐というものだった。
「恐らくは塔主達は軍で攻めても動かないでしょう。ならば我々は正面からそれを打ち破る。弓聖の大弓と……」
剣聖の絶技があればそれは成る。
崩れ落ちる塔を幻視してスフェーンは微笑んだ。