後始末の始まり
遠く離れた傍観者達は待つだけだ。それは至尊の座にあるものでも変わらない。
いや、むしろ彼のような立場では尚更だと言えるだろう…兵の死も戦も遠くのこと。そして野望である塔国の破滅が達成されたとしても、それの報告を受け取るだけだ。
虚しいことだとラズリは思う。
何もかもが遠い。きっと最後まで自分はこうなのだろう。生も喜びも他人事のようで心の底には響かずに終わる。それがなぜ破滅の成就を願うのか。かつての失態が最後に味わった真実の感情だからであった。
隠し部屋で闇に向かってラズリは労りの声をかけた。
「スフェーンや。傷はもう良いのかね?」
「八割方……といったところでしょう」
「……ならば、今少し休むが良い。我々の決戦はまだ先だ。ここまでお膳立てをして不参加では格好もつくまい」
驚いたことに、その言葉には真実心配する響きがあった。
かつて拾った娘は今や孫のような存在であった。そして何よりも野望の代理人でもあるのだ。崩壊の瞬間を目に焼き付けて狂喜する……自分の代わりに。
その娘は顔つきが優れない。緑の美しい宝石が揺らぐのは負傷のためばかりではない。
彼女は一人の男を想っているのだ。自分とは関係のなくなってしまった真っ当な感情。それを未だ持つ同志を哀れにも、愛しくも思う。
「クィネの連絡が途絶えがちです。遠く離れたここからでは……」
「……クィネ? そうか、お前にはあの男がまだ……いやもうクィネに見えているのか。大した先見の明だよ」
「陛下?」
しかし皮肉なことに……女軍団長の想い人たる堕ちた剣聖についてより深く理解しているのは皇帝の方だった。
それは単により多くの人を見てきたという経験差でしか無いものの、怪剣士の内心の波を皇帝はほぼ正確に読み取っていた。そして近頃安定しているように見えていたのは、一種の……そこまで考えてラズリは頭を振る。
「人が変わるには切っ掛けが必要だ。……変化ですら無い新生には一体どれほどの切っ掛けがいるというのか。お前の気持ちも分かるよスフェーンや。この余ですら、あの若者の先行きを案じずにはいられない」
自分よりも哀れな存在は初めて見たとラズリは思う。あの男は常識がズレているだけで、極めて真っ当な感覚の持ち主だった。だからこそ栄誉からの転落でああも罅が入ってしまっているのだ。
そしてその不安定な男は世界でも最強に数えられる存在だ。その一剣が歪みを受け入れてしまったのならばそれこそ……
「この老いぼれには、もし彼が本当にクィネとなる日が来たのならば……全てが変わる。そんな気がするのだ。さぁ今は休みなさい。彼の決戦は今まさにこの時、端役が出張る時ではないのだ」
スフェーンとラズリが塔国との因縁があるように、鏖殺の剣聖と結ばれているのはディアモンテ王国だ。ならば、今こそが変革の時。それを止めることは淡い慕情などでは不可能だ。
そう確信したからこそ、皇帝は女軍団長の動きを留めることにした。
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妙だな。本当に奇妙だ。
第6軍団長は木製の台の上に置かれた駒を眺めて、眉をひそめる。
オーラは熱くなりがちな性質だが、充分にそれを自覚していた。だからこうして一人で駒を眺めて思索するのだ。他人を相手に模擬戦などすれば頭に血が上って判断を誤る。そうなる前に事前に一度知識を頭に入れておくのだ。
そうしておくならば激発した時であっても、出る行動は理屈で形成されたものになる。
「ディアモンテは古い貴族制……それが特徴だ」
冷静に事前知識を一人で呟く。
ディアモンテは言ってしまえば時代遅れの国だが、それが弱みだけとも限らない。侵攻の最前線である辺境ほど精強になる帝国軍とは違い、中央に行くほど敵兵の質が上がっていく。貴族達が自身の護りに置くためだ。
国の体制としては問題が多いが、帝国軍軍団長からすればそこはどうでもいいことだ。
しかし攻める側としては意外に厄介な性質である。帝国軍は各軍団が頭。そして王国は中央部分が頭。多頭の蛇が幾ら強くとも、端を切り刻まれても蛸は生きていける。
そして帝国が傭兵を矢面に立たせるように、王国は雑兵を延々と送り込んで数を増やす。いずれ衰えて死ぬにしても異常に粘られるのだ。
「それがここに来て動きが鈍い。保身に関して言えば我らでは影も踏めぬ連中が……何を出し惜しむ? 考えられるのは政変の類だが……」
王国の防衛線は形こそ保っているものの、維持だけで拡大していない。ディアモンテ本土が戦場になれば各種の被害が利益に差し支える以上は、意地でも戦場は傘下国に留めたいはずなのにだ。
……つまりは貴族達が金よりも命に走っている。兵を護衛として出来うる限り手元に置いておきたい。そんな心根が見えるようだ。
「しかし罠の可能性も捨てきれない。乗るか反るか……ふふっ贅沢な悩みになりそうだな」
女傑は笑った。
停滞のように見える波はつけ入る隙に溢れている。とはいえ自分だけで悩むことも無いだろう。そう考えてオーラはしばし眼を閉じることにした。
如何な彼女でも、この情勢を作り出したのが一人などということは思いつかなかった。
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この地を離れてからそれほど長くは無い。だというのに懐かしいと感じてしまう。この国も生まれた地から離れていることに変わりはない。
「それでも……俺はこの国が好きだったのだな。第2の故郷と思うほどに」
だからあの日に無様を晒したのだ。
好きだからこそ失意との落差が大きくなり、それは狭い関係の中でしか生きられない自分の心を容易く砕いてしまったのだ。
やはり、ディアモンテの勇者隊の一人であるセイフはあの日に死んでいたのかも知れない。今からやろうとすることは全てをご破産にする行為だというのに、清々しくさえあるのだから。
「あの日。あの時。逃げなかったのならば……どうなっていたのか?その答えを見るためだけに、この恥知らずは舞い戻ってきたのだ」
果たすは心残り。結末は一つ。
既に決まり、納得した流れを再確認するためだけの仮初の心。それが果たされた時に彼が始まるのだ。
もはや復讐ですらない。他人からすれば悪夢の再来となって、かつて仲間と共に守り抜いた国を滅ぼす。その先に自分がどうなるかを知りつつもセイフは止まらない。
彼は亡者だ。過去への未練だけを燃料に今を破壊しようとする地獄の悪鬼。
死者に世界は変えられない。
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信じたくなかったし、信じる気など毛頭無かった。
彼は生ける英雄であり、公表されているような反逆者などでは決して無いと多くの者が思っていた。
遠く砂漠より流れ来た剣士。輝く勇者の懐刀。南方剣聖……それはディアモンテの兵にとっては憧れであった。
剣一つで実績を山と積み上げて、旧態依然とした国で功績を打ち立た。そして生まれの不利など跳ね除けて、最高位の称号“剣聖位”を授けられた男。
彼の武勇譚は特に平民出身者にとっては福音のようであった。圧倒的な実力さえあれば境遇など幾らでも変えられると勇気づけられる。
「なのに、なぜ……!」
燃える門の下で端役の兵士は喉から声を絞り出した。
赤を映し出す大曲刀。どうやって侵入したのかなどはどうでもいい。
「貴方ほどの方がなぜ……!」
必死の叫び。しかし兵の男は大した剣士でも無ければ、才があるわけでもない。どこにでもいる凡夫。その叫びが心の底からのものでも、この災害には一切響かないはずだった。
「この城に、我が友の未来と勲を汚した男がいる。だから俺が切り裂く。久しいな兵士ジョン。母君は息災だろうか?」
「あ――」
覚えていてくれた。彼と話したのは一度だけのはずだ。
名声高い男はその瞳で、対等の目線で無様に崩れ落ちている兵を見ている。英雄に見られている栄誉と恐怖が両の眼を串刺しにする感覚を味わい、ジョンの心は崩壊の寸前だった。
「……戦う気は無いようだな。実に残念だ。さらばだ兵士よ。俺は行く」
「え……」
見逃された。それがどれほど珍しいことか、理解しないままに兵は呆然とするのだった。しかし、旧知の兵以外を見逃す気はセイフにはない。
ましてやそれが彼の勇者暗殺の首謀者ならば尚の事。
堅牢な城も腕の立つ兵も、何もかもを踏み越えて剣聖は城の主の下へとたどり着く。
見えるのは屈強な鎧姿の男達に囲まれる、蒼白な青年。年若い……このディアモンテの王子だった。
「ひっ!」
「どうして自分を、という顔をしている。あれだけ何度も暗殺者を差し向けてくれば嫌でも分かるよ王子。流石にそこまで頭に砂が詰まってはいない」
積年の恨みの間柄とも言える、繊弱な男を前にしてセイフは怒りを見せない。そこにあるのはただ落胆があるだけだった。
「……人気を妬み。あいつを毒殺しておきながら、結局は権力争いにも敗北。果てはこれか」
王子ジルコニー。セイフの勇者を台無しにするために生まれて来たような男だった。今も見苦しく、護衛達に何事かをわめき散らしている。
死の間際に来ても生まれだけで何とかなると想っているのだろう。ジルコニーは発狂するでもなく、言いつけて事態が解決するのを待っている。
護衛騎士達の腕が確かだったことだけを喜びに、セイフは静かに断罪の大曲刀を構えた。
「こんな気分は初めてだ。例え偶然でもお前は俺から生き延びることはないと知れ」
全ての原因だが、護衛騎士のついでに殺されるのが相応しい卑劣漢。……どれだけ自分が愚かでも、最期の相手はこの王子では絶対に無いと剣聖は確信した。